ご近所からローバイを頂きました。
中東イスラム混沌地域で日本人2人が誘拐された。1人は「海外で警備などを請け負う民間軍事会社を立ち上げた。ただ、その分野での経験はまったくなかったという」(ロイター、2014/9/3)いう人物で、もう1人は実績のあるジャーナリストという。ジャーナリストの後藤某氏は、拘束されたらしい一方の軍事会社の湯川某を助けに行った結果だと報じられている。どういう経緯があっての拘束なのか、我々には正確なところはわからないが、ビジネスや観光ではなく、ある種の正義感による政治的な活動の結果のようだ。
私は海外のことは皆目分からないが、今回のような事件や女性の一人歩きの末の暴行殺害などの報に接すると、日本人の状況認識の脆弱さだけが、いやが上でも浮かび上がってくる。これは外国の事情に疎いというのではない。おそらく被害者は私たちより現地の事情を数倍知っていると思う。だから出かける訳である。それなのにこうした結果に至るのは、こららの人の世界観に、どこか偏頗なところがあるせいだと思われる。話し合えば理解し合えるとか、大義があるとか、貧困や医療を支援したいなどという、上ずった思考にとらわれているのだ。日本国内でそうした表層部分での活動に意義を見いだす思潮があるが、それは言わばマンガの世界にすぎない。貧困や抗争が善意で解決できると思うのは、私たちの身の回りの奥底に「国家」という大きな壁があることを見過ごしているためである。
また、今回の拘束事件の裏側に安倍首相のイスラエルでの演説がある。中東の人道支援に多額の援助をするというのだ。抗争の激しい特定の地域に、たとえ人道的だからといって援助を申し出るということがどういう結果もたらすのか、政治的な想像力が欠如している。国家というものを首相は会社組織や地方の行政機関と同じように認識しているのではないか。国という壁がみえていない。だから、拘束と演説とは表裏のパラレルな関係になっているように思えるのである。国会やマスコミの過剰とも言える反応も同様である。
だが、ひょっとして、こうしたポップでマンガ的な状況判断は、日本だけでなく世界の一つの潮流になっているのだろうか? 【彬】