ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

幼児を乗せ片手運転する母親の悲壮さ

2015年06月26日 | 日記

   

                      3人乗り自転車

 1~3歳の幼児を二人乗せる3人乗りの自転車がある。ハンドル位置に買い物籠のように一人乗せ、後部座席にもう一人乗せることができる。もちろん電動式である。育児に追われる母親には願ったりで、園の送り迎えに、活躍している乗り物である。

 先日、親子が楽しめるイベントがあり、私はこの会の自転車の管理係を受け持ったのだが、狭い駐輪場に効率良く並べる手伝いをしながら、この種の自転車の自重が相当に重いことが分かった。これに子どもと自身が乗れば、操作は簡単ではなさそう。自転車にはバランスの維持にに工夫がこらされてはいるものの、私の自転車観とは相当に違う違和感があった。閑静な場所ならばいざ知らず、都会のど真ん中の、人混みの中でこの自転車に乗るにはかなりの勇気がいるのではないか。

 そうしているうちに、このイベント中に雨が降り始めた。梅雨時で雨の予報も出ていたのである。さて、3人乗りの自転車はどうするのだろう。

 すると、予備していた雨具で子どもの座席をすっぽり覆ったまではいいのだが、なんと母親は自分の傘を開いて、片手運転しようとしているのではないか。驚いた。私は大声で注意した。いくらなんでも無謀である。意見を聞いたのかどうか、やがて雨を避けるように首をすくめペダルをこいでいった。事故が起こらなければよいが‥‥。

 人混みの歩道を、子どもを乗せた自転車を何度も目にする。しかも、かなりのスピードである。電動式だから、スピードを保持できるのである。

 これ、私には運転のマナーの欠如ではなく、母親を急かせるものが何かあるからなのだろうと思う。共稼ぎの母親の場合、仕事と育児を両立させる切羽詰まった無意識があるにちがいない。育児はマンツーマンの生き方である。介護もそうである。急かされる情景に母親たちの悲壮さを感じるのだ。【彬】

 
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民主主義は啓蒙すべきことではない

2015年06月20日 | 日記

          

                  絵=本多厚二

 集団自衛権を巡る新法制に端を発し、解釈改憲をめぐって法学者や政治家、イデオローグの間で議論がやかましい。
 そこに、選挙権の低年齢化(18歳)が加わり、立憲主義、民主主義、法治主義など、聞き慣れたコトバ、概念がジャーナリズム界隈で散乱している。
 江川紹子氏などは、民主主義を学校でちゃんと教えるべきだとして、戦後すぐの中高校生用の教科書「民主主義」を持ち出す始末であるが、結局、「民主主義の基本とは何なのか、国民一人ひとりはどのようにふるまうべきなのか――そういう根本からじっくり考える機会を、選挙権の年齢引き下げをきっかけに、高校生たちにぜひ提供して欲しい。もちろん、それは現在すでに有権者である大人たちも、考え直すべき課題だろう。」(2015年6月18日yahoo!ニュース)と啓蒙家ぶっている。
 民主主義、立憲主義というのをどう理解するのか。簡単なことである。
 民主主義下では、国民一人一人が誰にも侵されない権利(主権)を持っており、そして権利間の利害を調整をする法文上のルールがあるということなのである。主権の行使は、選挙であり、訴訟であるが、いまの行政上で欠けているのは、国政に対するリコール権である。自治体では確立しているが、国政レベルではまだ実現されていない。政策の可否を問う国民投票はではなく、国家権力に対するリコール権が重要である。野党はつまらぬ反対運動するより、リコール権の確立のために、奔走すべきなのである。【彬】

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長い旅路で出会うもの

2015年06月15日 | 日記

 梅雨の合間の6月14日、僕は長い旅をした。

 玉川上水のランニングの練習距離をいつもより長くとり、40kmほどを走ったのである。 

 フルマラソン大会(42.195km)をよく走っていた頃は、小金井公園スタートの拝島駅往復は定番の練習コースであったが、ハーフマラソン大会に変更してからは、それに対応し距離を短くしていたが、今回、練習でなく、ゆっくりランニングを楽しもうとした。玉川上水といえば雑木林の中の散策がよく知られているが、その先では、多摩の畑の広がりという別の田園景色を楽しむことができる。

 ところで、この日、道の真ん中で、玉虫があおむけになり手足をばたつかせているのを見つけ捕獲した。蟻に引かれたり、鳥のえさになるよりいい、という言い訳もあるが、僕はこの玉虫の美しさに魅かれ他でも命尽きた玉虫を拾い数体を標本にしている。 

 玉虫に関心を持ったのは小学生の時。奈良の法隆寺の国宝、玉虫厨子(ズシ)作りをめぐる話を読んでから。たしかこんな話だった。・・・・7世紀の飛鳥時代、厨子作りを任された職人が、どうしても目指すものができず悩んでいた。ある日、玉虫を見つけこの羽を装飾に使うことを思いつき完成することが出来た。現在の国宝は、羽はほとんど剥げ落ちているが。 

 子供のころの僕は、玉虫を高い木の上や、飛んでいるのをみたことがあったが捕獲することはなかった。いや、出来ない昆虫と思っていた。・・・・それから、かなりの年月がたった。そして、数年前、自宅近くで、命尽き地面に落ちている玉虫を見つけ手にした。

  さて今回の、玉川上水をめぐる長旅。木の根や起伏に注意しながらゆっくりランニングを楽しんだ。道中、踏みつぶされた玉虫の個体が2体、また虹色の羽があちこちで見られた。この散策路は玉虫の好む木が多いのだろう。以前、ランニング練習で前ばかりみて走っていた頃は、玉虫には全く気がつかなかった。ものごとは、落ち着いて、いろいろな角度からみるのもいいのだろう。

 政治でよく使われる表現、「玉虫色」。見る角度により色が変わる。いい意味にも悪い意味にもとれるが。

 今回の長旅。初夏の武蔵野、多摩、の自然を楽しみ、美しいものも手にいれた。のんびり長く走るのもいいものだ。

                     6月15日 岩下賢治

                        絵は、多摩らしい畑の風景と、玉虫。

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側溝の弊害

2015年06月14日 | 日記

   

                           私の自電車です。

 警察庁など自転車の普及に伴う取り締まりを強化しているが、その行政上の目玉となっているのが、自転車道の設定。歩道や車道の一部を削って、自転車専用道を作るというモノだが、なかなか思うように進んでいないようだ。そんな中、インターネット上で、場当たり的というか、愚かしい自転車道の設定が取り上げられている。写真は投稿されたものの一部をトリミングしたものだが、ブルーで染められた10センチにも満たないラインが自転車道だというのだ。自転車でこの専用路を乗りこなすためには、ほとんど曲芸に近い技が必要だろう。

                            

 写真を見て、誰でもが側溝の上を自転車道にすればよい、と思うに違いない。おそらくこの自転車道を設定した警察庁や国土交通省の担当者もそう思ったはずである。が、法規や費用の関係で、対処できなかったのだと思う。

 私が前回、排水用の側溝を、道の脇に置くのではなく、中央に置くべきだというのは、この事実から納得していただけると思う。もちろん莫大な費用がかかるから、実現には年月がかかろうが、解決の方向を確認しておくことは大切なことである。【彬】


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道路で分断される町

2015年06月09日 | 日記

     

          ビヨウヤナギがそろそろ終わりにかかっています。       

 小さな街中をくねっていた道路が、幹線道路として整備されたり、あるいはバイバスが街の外側にできたせいで、従来の地域性、稠密性は根本から破壊され、分断されてきた。モータリーゼイションが進む中、日本の各地で、こうして街が姿消しているのを見ると、無残というほかはない。

 細い道では渋滞が起こるし、10トンを越す大型車やバスは街中に入ってこれないという難点があって、道路を整備する必要があったことは確かである。しかし、道路を拡幅し整備することによって、地域社会にどういう影響をもたらすか、ということは十全には検討されていなかったのではないか。今日、地方の過疎化が言われているが、その背景には、高速道路などが果たしてきた側面があることは疑いがない。

 道路の問題は地方だけのことではない。私が住んでいる都心では、区界を無視して、細い道路が片側2車線の幹線道路に拡幅された。これによって、従来の町が左右の地域に分断されてしまった。町は道路が跨るように2つに分離されてしまったのである。その結果、左側では飲食店などの店が繁盛しているのに、右側では商店らしきものは、開業してもすぐ潰れてしまう現象が続いている。道路が対面交通であるため、通りは左右で断絶されてしまうのである。

 道路の整備は現代社会の必須な課題であるが、その様々な影響は、単に経済効果などといったことだけでなく、もっと細やかに分析されるべきである。私が一方通行を提唱するのも、以上のような現実を見るからである。【彬】

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