ヤブミョウガ 白い花の後に黒い実がつきます。
最近、必要があって小冊子の編集制作をすることになった。昔取った杵づかで、なんとかものにしたのだが、最近の出版技術の進歩を目覚ましく、この分野は今後大きく変化する予感をヒシヒシと感じた。
私の若い頃の出版と言えば、原稿は原稿用紙への手書き、活字は印刷所での文字拾い、そしてプリントは全紙か半裁紙への両面印刷で、プリントした紙に応じ3回〜4回と折り、そして綴じる。綴じるのはミシンで糸かがりか、針金の中綴じ。そして最後に断裁機にかける、といった工程。もちろんそれぞれの段階で手慣れた職人の手を経ることになっていた。それぞれが関連する工程のために、出版社と印刷製本の会社はひとつの地域に集まり、印刷村を形成していた。古本街として名を馳せている神保町はその名残の村である。
ところが今日、この工程はほとんどコンピュータ制御され、人間の手にかかるのはパソコンに入力された原稿をデザイナーがデザインするだけ、という時代になった。
こうした工程変化の結果、出版編集と印刷製本は切り離され、大型の機械を必要とする印刷製本所は都心部から広い土地がある地方へ、あるいは海外へと移転していった。
ところが今、こうした分離がまた集合しそうな雰囲気があるのである。それは印刷工程がDTP、つまりデスクトッププリントで、パソコンから原稿をもらうと複雑な印刷工程を経ず、要望に応じ、小部数をじかに印刷できるシステムが完成したためである。辞典や全集といったしっかりとした上製本を制作するには不適切だが、簡易な並製本なら地方に出向かなくても狭い場所でも制作できる。そこで都心でも特定の印刷物の需要に短期間で応じる印刷所が営業できるという逆流が始まったらしいのだ。都心回帰すれば、その分、物流・搬送の手間が省けるのである。
さて、問題はここからである。
本屋に並べられている書籍類は、新書とか文庫とか単行本とか、相変わらす昔のままである。この書籍の形を、今日のシステムに応じた改革をせずには、出版界の再生は不可能ではないのか、と思うのである。むかし文庫本が開発されたことにより、日本の知的世界は一変した。同じように新書という簡易型の啓蒙書がでることによって、日本の出版界は大きな変化を起こした。新書形式というのは欧米のペーパーバックスを真似たものだが、この出版方式によって、誰もがたやすく出版事業を起こすことができるようになり、そして多くの出版社はたいへん潤った。
そんな経緯を振り返るとき、DTPの良さを十分に活かした新たな出版の形が研究されて然るべきだと思うのである。
その背景にあるのは制作工程の革新だけでなく、読者の側のパソコン普及にある。昔、岩波書店が広辞苑の電子版を発売し話題になったが、あの時から図書のもつ意味は変わったのである。辞典や百科事典は必須な勉学手段だったが、いまではインターネットで自在に調べ物ができる。それこそ紙の知識は不要になったのである。
いまでは参考文献や重要図書ばかりでなく、文芸から娯楽までネット上で検索・ダウンロードが可能である。そうした時代背景を考えれば、出版は変わるべきなのだ。
私が即座に思いつくのは頁数を少なくすること。原稿枚数で言えばせいぜい100枚、40~50頁が限度だと思える。表紙も扉もいらない。いわゆるパンフレットにして価格を安価にする。書物を書棚から引きずり落とし、新聞や雑誌と同じように、手軽な便覧できるようにすることだ。今、書籍類が高価すぎる。文庫でさえ、講談社の文芸文庫など1500円というのもある。
小説にせよ、評論や解説本にせよ、本が厚すぎる。厚くないと本らしくないという考えがあるとすれば、それは大いなる時代錯誤だと思う。書斎でじっくり本を読むなどという時代ではない。
現にライトノベルなど短いし、評論や解説書にしろ、中身は短文の寄せ集めだ。本は厚くないと本らしくないというかんがえを捨て、薄手で論点のはっきりした図書を発売すべきだ。そして引用など必要な箇所はインターネットと共有すべきだ。
印刷工程の改革とパソコン通信時代を睨んだ図書のあり方の検討をぜひ進めてもらいたいものである。【彬】