ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

報道が不足している武漢ウイルス

2020年03月28日 | 日記

オオイヌフグリ

 世界を困惑化させている武漢ウイルスの蔓延については、各種報道機関から絶え間なく情報が伝わってくる、、、、かのように思えるのだが、その情報が私にはあまりに少ないように思えて仕方ない。例えば、発祥地の中国、武漢についてはわかるのだが、肝心の北京、上海、南京、重慶などの大都市でどうなっているのか。独裁国家だからしょうがないと言えばそうなのだが、じゃあ、ロシアについてはどうなのか。イランやサウジなどアラブ国家についてはどうなのか。またWHOの動きや、そもそも国連はどうしているのか、、、、。
 海外だけではない。不足しているトイレットペーパーやマスクはどのように生産されていて、どこで滞っているのか。患者はどのように隔離、治療されているのか。通常の病院ではどのような状態になっているのか。
 知りたいことが、全くと言っていいほど伝わってこない。報道機関より、ツイッターなどの個人情報の方から事実が伝わることさえある。
 日本の報道機関=新聞、通信社は、各地に特派員を派遣しているはずだから、もっと具体的な動きが報道されてしかるべきだと思うのだ。また海外の有力な機関、AP、UFP、ニューヨークタイムズ、タイムズなどからの提携記事も少なく、あったとしても偏向気味だ。国内記事も同様である。これはいったいどういうことなのか。報道を旨とする新聞社・通信社には本業を頑張ってもらいたいと思うのだが、現状は報道というより企画された雑誌記事のような内容が多すぎる。
 これは報道機関の経営悪化に原因がありそう。発行部数が大幅に減少し、有能な記者を海外も含め、適切な場所に配置する経済的な余裕がないのだと思う。ニューヨークタイムズが紙媒体を縮小し、電子版に切り替えたのが報道機関の今日的あり方を表象している。インターネット時代、情報は即時に世界を駆け巡る。紙媒体では報道が追いつかないというのだ。大新聞社は売り上げが大幅に縮小、取材に費用をかけられなくなっているのが実情であろう。
 じゃあ、紙媒体は電波の即時性に負けたのかと言えば、本当はそうではなく、咀嚼を通じて報道されるべきニュースが、質的に劣化したからである。それを媒体のせいにしてはならない。報道機関は経営困難な状況の中、その機能を捨ててしまったように思えるのである。
 現在はSNSばやりだが、しかしこの分野は虚報、誤報、扇動、喧伝、ごちゃ混ぜで信頼に足らないことが多い。報道のシステムを新たに確立することが喫緊の課題になっている。【彬】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年の花見は

2020年03月24日 | 日記

 今年の春は、桜等の花見を兼ねて計画していたグループでのイベントが全てキャンセルとなった。今年は暖かく、桜の開花が早い。それでは、と、自ら桜を求めて出かけることにした。

 3月22日の日曜日は大変暖かく、小金井公園の桜はほぼ満開。ここは桜の名所で毎年、屋台が並び、ビニールシートが敷かれ、花見客であふれているのだが、この日は、ビニールシートが散見され、散策する花見客で溢れている。

 桜の下での宴席に入らないのなら、花は人のいないところで静かに観たいものだ、そう思いめぼしい、ほかの桜の奇麗なところへ行ってみると、やはり散策する花見客で溢れている。そうか、昔から、花見は多くの人と宴会などを楽しみ、桜の花は鑑賞するよりも酒の肴になってきたのだ。「酒なくてなにがこの世の桜かな」なのだ。そして、酒がなくとも皆と一緒にがやがやと花見を楽しむものなのだな。名所の桜を一人静かに楽しむなど、宴会自粛の今年でも見当違いか。

 だが僕の知る「桜の隠れ名所」がまだある。自宅近くの、某大学内にあるソメイヨシノの並木。後ほど訪れると、満開の桜が迎えてくれた。大学構内なので人はほとんどいない、と踏んでいたが、男女二人の学生が現れ小さな宴会を始めた。それをほほえましくお思いスケッチした。

  2020年3月23日  岩下賢治

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遮断された世界と民主制

2020年03月21日 | 日記

ムラサキシロツメグサ

 中国武漢から始まったコロナウイルス、その伝播の素早さは現代社会の交流の激しさのバロメーターであり、一ヶ月ちょっとのうちに全世界に蔓延した。それほど猛毒性を持っているとは思えないのだが、各国は臨戦体制だとか、国境を封鎖したり外出を抑制するよう求めている。こうした対応の速さも世界共通で、IC化で情報が即座に伝わる今日のグローバル化した社会を反映していよう。

 日本の場合、気になるのは今回制定された特別措置法である。

 新型ウイルスの蔓延については、従来の法的執行の不備を補う法案が与野党で合意、政権は状況を見て、各種対策を法的に執行することができるようになった。

 毎日新聞によると「改正により、新型コロナウイルス感染症の全国的かつ急速なまん延で、国民生活・経済に甚大な影響を及ぼすなどした場合、首相が地域を示して「緊急事態宣言」を発令できる。対象地域の都道府県知事は、不要不急の外出自粛や学校、興行施設の使用制限などを要請・指示できる。」「特措法は旧民主党政権時代の2012年に成立した。私権の制限を伴うため、立憲など野党は、緊急事態宣言を出す際は、やむを得ない場合を除き、国会に事前報告することなどを盛り込んだ付帯決議を行うことで賛成にまわった。」とされている。

 新聞が指摘しているように、この法案で懸念されたのは、私権が制限されるのではないか、というものであった。野党は事前報告を条件にこの懸念を引っ込め合意したが、しかし私権は公共の福祉のもとではいつでも制限されているので、緊急事態下で制限されて当然である。例えば火災が起きた時、隣接する住宅は消防隊が延焼を食い止めるために、自由に立ち入りでき、必要な対策を立てる。私権などと言っていられる状態ではないのと同じである。

 私は、この法律の問題点は、発動する際の手続きであると思う。執行者は行政のトップ=首相になるが、いかなる場合でも国民の代表たる議会の承認を得ることが民主制の鉄則だ。したがって単なる報告ではなく議会の承認が必要である。緊急時にそんな焦ったい事していられるか、と思うかもしれないが、この承認なしには民主主義は成り立たない。この手続きのために対処が手遅れになって国が壊滅した、という事態がありうるかもしれないが、もしそういうことがあれば、それは民主主義の限界なのだ。いまのところでは、民主主義を超えるベストな政治制度が存在していないので、それは甘受しなければならないのである。

 それを防ぐためには国会はどうあるべきか、今回の機会に十全に検討されるべきであった。行政責任者に権限を丸投げしたのでは、何のための議会なのか、と疑いたくなる。私は行政と議会が同時進行で事態に臨む体制を組むことが不可欠だと思う。そのためには具体的にどうするのか、それこそ国民の代表たる議員が知恵を絞るべきことなのである。【彬】

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この春、西洋の古典文学に親しむ

2020年03月12日 | 日記

 前回2月23日付けの自分のブログ、「ゲーテが魅せられたファンタジー」の続きのようなかたちになります。

 このたび、Die Leiden des jungen Werther 「若きウェルテルの悩み」を読了しました。かなわぬ恋に悩み自ら命を絶つ、という悲劇的結末。あまりにも有名な作品ですがドイツ語で読んだのはこれで二度目です。ウェルテルは命を終えたが、僕自身も命を終えたかのような脱力感に陥った。難しいドイツ語だが主人公の気持ちを僕自身に取り入れようとしたが少しできたようだ。

 こういった古典作品は素晴らしい。ゲーテ自身、ギリシャ古典作品が好きで、ホメーロスをよく読んでいた。西洋文化の源はギリシャ文化であるというが、僕自身も少し読んでみようと図書館に行くと、コロナウィルスの影響で臨時休館。

 それで前から読もう思っていた、Hamlet「ハムレット」を読み始めた。これも英語で読むのは2度目のこと。ストーリーを追うのではなく、原語により作者の気持ちに近づきたいとの思いからだ。手にした本は、400年前のシェークスピアの英語と、現代英語を対比したもの。前回は、現代英語で読んだが、今回は努めて、昔の英語も読んでいる。同時に日本語訳も読む。福田恆存氏の訳文だ。福田氏の訳は、単なる翻訳ではなく、独自に創作した作品のようである。文学作品というのはこういうものなのだな。こうして、文化の違いを知ることが出来る。

 この時期、コロナの影響で出歩くことは少なく、家で本を読むことが多い。大変な春になった。

 絵は、エルシア城にハムレット王の亡霊が現れる場面。物語の始まるところ。

    2020年3月10日  岩下賢治

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錯綜するデマ、配給制も視野に

2020年03月10日 | 日記

インゲンの花

 武漢ウイルスが国内でも広がり始めた頃、私が道路を歩いていると、知り合いのひとが寄ってきて、「なんですか、マスクをしないのですか?」と咎めるように言われたことがある。そして「早くしないとマスクがなくなってしまいますよ」と。
 ウイルスにマスクは効果がないことは、インフルエンザの予防のときに、公衆衛生の専門家からすでに何度もメディアで伝えられていた。今回は手洗いの励行とマスクの必要性が言われたものだから、みんながマスクを求めて右往左往する始末。ウイルスはマスクでは予防できないことはほぼ常識で、以前は日本人だけが変な風習を持っていると笑わたものだ。
 ところがここにきて、そのマスクが消え、さらに続いてトイレットペーパーが消えた。
 デマが流れているというのだ。私たち消費者は、デマだとわかっていても、必需品だから買わないわけにはいかない。売っている店を見つけては買うのだから、さらに購買に拍車がかかった。
 デマが駆け巡るのは、それが〈本当らしく〉思えるからだ。トイレットペーパーの場合、主な生産地がマスクと同じ中国だという伝言に多くの人が、さもあらむと思ったのだ。だが生産地は国内だと言って証拠をみせても、いったん信じられたデマはなかなか終息しない。こうした経験はかつてもあった。もう40年も前のことだが、トイレットペーパーが枯渇したことがある。この時は、高度成長期で、公害問題とオイルショック、さらには製紙産業の再編が大きく影響していた。
 私たち生活者としては、こういう場面でどうするのが、いいのだろうか。 
 デマだ、誤報だと分かっていても、必需品が手に入らないとなれば、争ってでも買い求めずにはいられない。必需品なのだから、がまんすればすむ、というのではない。
 唐突だが、私はこうした必需品は日頃から配給品にすればいいのではないか、と思う。戦争中および戦後の食糧管理制度のもとでは、都会では食料の配給制というのがあった。配給券が配られ、1人につき購買できるものはいくらか、決まっていた。
 ものすごいアナクロニズムに思うかもしれないが、これは危機管理の一つの方法だと思う。これからさらに進む超高齢化社会でも、この配給制が適していると思う。品目を限ってでだが、名前を登録して、必需品はいつでも手に入れることができるようにする。
 深刻な事態が起った時、デマは防ぐことができない。最近では福島原発事故でデマが広範に伝播した。また地震学会などが、直下型地震について触れ回っている。こうした不測の事態に対して、配給制は将来社会の一つのビジョンだと思うがいかがだろうか。【彬】
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする