ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

梅雨の季節、雨を楽しむ

2020年07月27日 | 日記

 今年の梅雨は、雨の日が続き、中休みがない。週に2~3回は、ランニングの練習日を設けているが予定通りにいかないことが多い。7月の最終日曜日は練習日だが、朝から雨。夏場の練習は、長い距離は走らず、200m ×10本の短距離インターバル走にしている。この日は、傘を差し、練習場の小金井公園まで20分ほど歩いていった。

 練習コースは雨をしのげる木陰の道路。直射日光がなく、程よく雨を受け実に気持ちがよい。遠くの芝生の上では、高校生くらいの若者たちがサッカーの練習をしている、体の動きがいい。この涼しい雨を味方にしている。

 練習の終わるころ、雲の隙間から日が差し込んできて、公園の木々を照らす。鮮やかな緑がまぶしい。吹く風は爽やかである。サッカー少年達が去ると、白い衣装の若い女性たちが登場、ダンスの練習をはじめた。ランニングをする人も増えてきた。

 雨の中を走るのは気持ちのいいものだ。夏の日は、夕方に走りはじめ、途中から雨が降り出すとそれが本当に気持ちのいいものなのだ。雨が強い程に、無我の境地、ランニングハイの境地にはいる。そんなことは陸上をやっていた頃から何度も経験してきた。

 最近は、走ることへのこだわりは以前ほどなく、雨の日に走ることが少なくなった。だが、頭はその快感を覚えている。さあこの夏、これからも、雨であっても、いや、雨であれば、ランニングにでかけよう。

 絵は、雨の中のランニング風景。向こうにサッカー練習をする若者たち。

   2020年7月26日  岩下賢治

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コロナウイルス騒動、何が問題なのか

2020年07月24日 | 日記

ムクゲ

 東京で再び感染者が広がっている。1日の感染者が250〜300人ほど。
 この数値が多いのか、少ないのか、また第二波とか三波とか、今後どのように変わるのか、いろいろ議論されている。野次馬的な好奇心からだけでなく、感染症対策の専門家、医学者、理系の学者などが入り混じっての言説である。私のような、楽観主義者からすると、なんとまあ賑やかなことか、これもひとえにマスコミ時代の象徴かと思わせる。悪いことに、悲観的な言説は政治的な言辞を巻き込みやすく、世情に心配のタネを撒き散らすことになっている。これを「コロナ脳」と呼んでいる人もいる。
 私が楽観的でいられるのは、今までの体験から、感染症というのが、それほど懸念する病ではなかかったからである。例えば皮膚病、結核、赤痢、小児麻痺、狂犬病、性病など。昔はこうした病気が蔓延していた。そして重病になった人、死んだ人、身近でも見聞してきたからである。
 今回のコロナがそうしたかつての感染病(伝染病)とは違って、感染力も毒性も格段に強力だ、という言説があるが、私には、そもそもそれが疑わしいのである。確かにイタリアなどヨーロッパでの感染は凄かった。アメリカも同様である。でも日本では、そんなにも広がらなかった。そうした事実をみているからである。
 現代は、人の行き来が格段に増え、情報も即座に全世界に流れる。だから感染症が拡散する度合いは高かろう。そこでパンデミックなどの呼称が生まれ、WHOの出番となる。情報や交流の高度な伝播が、この病気の異質さを後押ししているように思うのである。本当は武漢から発した新型の風邪くらいなものなのかもしれないのだ。
 そうした中、私は考える。
 今回のコロナの果たした役割はなんなのか、ということである。
 感染症に対する防御体制が不備だったという人がいる。もっと強力に整備し、都市の封鎖も辞さない政治力が必要だ、と曰う人もいる。これこそ、コロナ脳だろう。私が思うに、問題は今日の都市の過密化の弱点を顕にしたことにあると思う。人口が稠密化すれば、感染症ばかりではない、様々な弊害が起こる。このことが問題提起されたのだと思う。
 発生源である武漢は、1000万人を超える超過密都市である。しかも急速に発展した都市である。このことに思いを馳せたい。
 別言するなら、今回のコロナを通じて東京の人口を拡散する方向を模索したい。これが今後の産業論、都市論の元になると思うからである。現代の都市は、生産から消費、政治から文化、学問からスポーツまで、全てが一極化している。分散化することが重要だと、思いながらも自分自身は巨大都市の利便性を満喫している。どうしたものやら。【彬】
 

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洪水災害に思う

2020年07月13日 | 日記

 椿の実が鈴なりだったので、失敬してきた。

 九州や関西、中部一帯の降雨量が尋常ではない。一日に300mlも降ったという。これが1週間も続いている。河川が至るところで寸断・氾濫し、山間からの土砂に混じって、道路から家々までを破壊しつくしている。
 安全な場所に避難せよと訴えられているが、どこに安全な場所があるものやら。当然、電気・水道はなし。避難生活を持ち堪えるのも、限界点に近いのだと推測される。
 昨年は台風の影響で信濃川上流・千曲川流域で甚大な被害があった。近年、水害が絶えることはない状態だ。
 日本に限らず、治水と灌漑は、水稲を生産するアジアでは特に最重要な統治上のテーマであった。治水と灌漑がうまくいけば、崇拝すべき統治者になれる。我が国でも、古来より治水と灌漑は最大の統治テーマで、武士は同時に水利土木を専門とする人々だった。300年の長期にわたって徳川時代が続いたが、その背景には、この幕府の水利事業が横たわっている。関東だと利根川の改修(東京湾に流れていたものを銚子に移した)、江戸川、荒川の改修、それに台場付近の整地、こうした事業を各地の大名、有名なのは外様の薩摩藩に任せたのである。それによって幕府に対する忠誠を求めた。そして治水灌漑は農産物の生産力を高め、水利交通の利便をもたらした。
 治水では遊水池を作ること、河川敷を広めることが主で、築堤を高くすることではなかったようである。遊水池は流量を一時的に抑制する、今で言えば貯水ダムにあたる。関東ではこの遊水池が昨年の台風で、多大な役割を果たした。また都心では地下に巨大な空洞をつくり、これを遊水池がわりにしている。こうした場所は公開されていないが、治水を理解するうえで、施設見学ができるようにならないものか、と思う。
 九州各地ではどんな治水方法がなされていたのか。
 九州はシラス台地で、思った以上に複雑な地形をしている。その上、有明海も奥行きが深く、複雑な海流を形成しているのだと思う。今度の被災はそんな地形が被害を増大させ、さらに治水対策の難しさ・停滞の要因になっていたのではと、推察されるのである。
 憶測だが、いまでも解決の目処がたっていない、有明ダム問題はこの複雑な海底と海流が関係しているのではないだろうか。湾曲した球磨川の治水についても同様な問題があるのかも知れない。単に鮎の魚道をつくるとかと自然環境の保護とかといった単純な問題ではないような気がする。
 コロナ風邪などタカが知れている。全国どの自治体でも、治水と灌漑に関する知見を広め深め、自然災害に対する対策を早急に進めるべきではないだろうか。避難場所は学校などではなく、それに相応しい施設が必要だ。当然そこは発電設備を備え、水道も使える。また消防署と看護施設を併設するのがよいのかもしれない。そうした施設こそ真に共同体を象徴する場所であり、そこはいつでもは住民に開かれていて、講演会やらコンサートなど開催できるのが理想だろう。【彬】

 

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カミュ「ペスト」への旅

2020年07月12日 | 日記

 5月26日付けのブログ、カミユ「異邦人」から「ペスト」へ、の続きになります。

 先月6月から、la peste 「ペスト」を読み始め、ほぼ半分まで進みました。以前  L’etranger「異邦人」を読んでいますが、今回の「ペスト」の文章は密度が濃く、フランス語も難しく同じ作家とは思えないほどです。

 カミユは祖父がフランスからアルジェリアに移民してきた。「ペスト」の発表は1947年でフランス領時代。小説に登場する人物は殆どがフランス系のようだ。作品の底に流れるものは、ヨーロッパの思想。「不条理」の文学は、キリスト教の神に批判的であるとしても結局はキリスト教文化の許で生まれた思想。

 ところで、1962年に独立した現在のアルジェリアはというと、人口構成は、80%がアラブ人、20%がベルベル人。そしてわずかにフランス人。宗教は、99%がイスラム教である。

 外国語を勉強する目的は、語学学習そのものというより、その背景の文化を知ろうというもの。文学作品等をその国の言語で読むことは、その国の文化背景を様々な角度から知ることが出来ると思う。今回、「ペスト」を読むことで、フランスが関係してきたアルジェリアを歴史的に見ることができそう。読み終わるのは、夏の終わり頃になるだろう。アルジェリア旅行、それも、今では経験できない1947年頃の時代を巡ってきた、ということになると思う。

 絵は、イエズス会の pere paneloux 「パヌール神父」がペストに怯える市民の前で説教している「ペスト」の中の一場面。締めくくりの言葉を述べているところ。

...voila, mes feres, l’immense consolation que je voulais vous apporter pour que ne soient pas seulement des paroles qui chatient que vous emportiez d’ici, mais aussi un verbe qui apaise.

...さてこれが、皆さん、私が伝えたいと願った広大な慰めなのです。そうすることで、この場から持ち帰るものが、ただ皆さんを戒める話ではなく、心休める言葉でもあってほしいのです。

   2020年7月12日  岩下賢治

 

 

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カカト落としには要注意

2020年07月07日 | 日記

八重のクチナシ

 テレビを見ていたら、「カカト落とし」という健康法をやっていた。骨を鍛える方法である。
 コロナ禍、巣篭もり状態の老人が多くなっているが、ただでさえ骨密度が怪しくなっている訳だから時冝を得た番組企画のようだった。最新の栄養学からのアプローチもあって、番組としては万全の取り組みかのようにも思えた、のだが。
 問題はそのカカト落とし。カカトを持ち上げ、真下にドンと落とすだけという運動だが、果たして適切なのか、疑念が湧いてくるのである。カカトを落とすと、力学的には、膝や股関節に体重の倍以上の負荷が掛かることになる。そんなことをして大丈夫か。しかも骨に直接的に伝えるのだから、骨が弱っている高齢者にはたまったものではないだろう。
 骨は確かに刺激を受けると強化される。
 骨というのは主成分がカルシウムで、これは無機質な物質である。だから本来、刺激を与えようがしまいが、変わらないものである。打ちつければ粉々に砕ける物質だ。しかし人体の骨は有機物=筋肉と結合していて、その有機物が刺激を受け、骨の強化につなげているのである。そのメカニズムについて、詳細については無知だが、骨を強化するということは、骨を囲んでいる筋肉を強化することであることは体験的に知っている。
 カカト落としなどと、直接骨に働きかけをすれば、骨と骨を繋ぐ関節を痛めるだけではないのか、と心配になるのだ。
 こういうことはスポーツ医学の面からすれば、常識中の常識だろう。番組を信用し、カカト落としを熱心に繰り返した結果、膝に変調をきたしたなどの報告がないことを望むものである。
 ならばどうするのが、いいのか。私の経験ではスクワットがベスト。通常のスクワットでは負荷が強すぎるので、テーブルや柱に両手を置き、これを支えとする。強化する筋肉は有酸素系の運動による遅筋。だから負荷を少なくするのである。回数(1回、50〜100回)を多くし、これを2〜3セットこなす。
 高齢者にはこうした運動が良いのではないか。専門家に聞いてみたいものである。【彬】

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