ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

瑞穂の国って分からない

2016年05月29日 | 日記

 古くから日本のことを豊葦原瑞穂国=とよあしはらみずほのくに、と呼んでいる。古事記及び日本書紀の神武紀の項に記載があるとされている。本当は千五百秋がぬけており、豊葦原千五百秋瑞穂国=とよあしはらちいほあきのみずほのくに、と読むそうだ。現代語訳で原典を調べてみたが、どこに記載があるのか、わからなかった。明治から戦前までは、日本を瑞穂の国、と呼ぶのは常識だったから、あまり疑問も持たれなかったのではないか。

 では、この意味はなんなのか。

 各種辞典を調べてみると、《神意によって稲が豊かに実り、栄える国の意》日本国の美称、とされている。

 しかし、私たちの現在の漢字感覚からすると、ここには稲が豊に実り、という表現は見当たらない。日本の成り立ちの根幹に、稲作という農業を無理に押し込んでいるような解釈のような気がするのである。

 普通に解釈すれば、豊葦原千五百秋瑞穂、というのは「国」というコトバの枕詞に該当している。枕詞は先行する古い時代の土地などに関係していることが多いので、単純に解釈すれば豊葦原千五百秋瑞穂は、神武以前の地名とか言い伝えではないか、とも考えられる。

 そんなことをぼんやり思っていたら、ネット上でとんでもない解説にぶつかった。市川慎という人の「不思議の古代史」という冊子で、この人は豊葦原千五百秋瑞穂を、豊=大分、葦原=出雲、千五百=周防(山口)、秋=土佐、瑞穂=美作(岡山)だというのだ。なるほど豊は豊後水道だし、葦原は豊中国、秋は安芸、など理屈はつく。しかも神武がたどったとされる高千穂から中国、四国をへて奈良に至る道筋になっている。

 つまり、神武が東征した国々を指しているのだ。稲とはなんの関係もない。

 この説の当否は別にして、私は日本をあまりにも稲作に関係付け過ぎていると思っている。学校給食しかり、棚田しかり、減反しかり‥‥。そして前回のブログでも書いたように、稲作の過酷な営農収穫方法に対する鞭撻が、日本人の器用さ、勤勉さの賞賛につながっているのではないのか。日本の将来を考えたとき、稲と結びついたそんな無意識の美風は根本から問い直されていいのだと思うのである。【彬】

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稲はどのように食べるのか

2016年05月26日 | 日記

    ドクダミは名前とそぐわない草だ

 毎年、この時期になると子供達に田植えを体験させるイベントが伝えられる。泥田に入ってはしゃいでいるのが、現代的である。

 そんな中、私は収穫した稲が食べられるまで、どのような工程を踏むのか気になっている。特に籾摺り工程。籾摺りというのは、籾=もみ(殻付きの稲穂のこと)から殻を取り去ること。

 今では、コンバインで刈り取りから籾摺りまで、一気に処理してしまうので、稲をどのように刈り取って食べられるまでに加工するか無知な人が多い。私たち戦前生まれの人でも、知らない人が意外に多いものだ。

 刈り取りからの工程を簡単に説明すると、刈り取った稲は乾燥するために稲架(はさ)に掛ける。十分に乾いたら穂から脱穀する。この機械を千歯こき、と言った。櫛を逆さにしたような金属の歯で籾を引き千切るのである。そしてこの籾から殻を外す。この工程が籾摺りで、これで玄米となるのである。麦やアワなどの穀類は、脱穀の段階で自然と殻が外れるので、この籾摺りが必要ない。米は殻がキッチリ包み込んでいるため、これを外すのが難事なのである。私たちが子どもの頃、目にしたのは、臼による摺りである。溝のついた臼を回転させ、殻を外すのだ。戦争中は一升瓶の中で棒で突き外したなどと、本当らしく伝えられたりした。

 苗から稲穂を稔らすのも大仕事だが、このように米を食べるようにするためにも大変な手間がかかるのだ。麦に比べ、はるかに大変なことなのである。

 そこで思う。田植えから始まり、これほどまでして、日本人が米を尊重するのはなぜなのだろうかと。一説によると、米の生産性(反当たり収量)が、ヒエやアワ、ソバ、芋類に比べ、かなり高いからだという。しかし投入労働量を考えらば、眉唾だ。米の食味を指摘する人もいる。しかし美味いかどうかは、歴史的な食習慣が決めるものだから、これもあてにならない。

 弥生時代以来、私たちは米由来の生活文化で生きてきているが、なぜ米なのか、もっと掘り下げられていい。【彬】

 
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5月のバラ園

2016年05月24日 | 日記

 最近、ランニング中に足の故障を起こし、走れない状態になっている。治療中だが治るまでの間、体力維持のため、速足ウォーキングを続けている。ウォーキングにはいくつかのコースがあるがその中の一つ、自宅をスタートし、野川に沿い、都立神代植物公園折り返しの往復12km程がお気に入り。

 5月某日、このコースでウォーキング練習をした。新緑が美しく、道沿いの野草が生き生きと輝いている。・・・さて、神代植物公園には、有名なバラ園がある。5月はバラの季節ではないか。ウォーキングの楽しみの一つにバラ園見物を入れてもいいだろう。どうせだからウォ-キングの練習を楽しいものにしようではないか。ランニングだと、いまだに頑張ろうという意識があるが、ウォーキングにはそれ程はない。

 ・・・広いバラ園には実に多種のバラが咲き誇っていた。バラというのは人の手と目をかけられ、そして人を魅了する花ではある。この日も実に多くの来場者があった。僕もその中の一人として、華やかなバラの世界に酔い遊んだ。

 さて、帰りの道沿いにみる、野草や花々は、堅実で鮮やかであった。やはり、山野草は美しい。バラ園に遊んだあとでもそう思う。・・・バラ園に遊んだのは、足の故障の副産物だったのかもしれない。ランニング練習で寄ることはないだろう。でもたまにはいいものだ。

 絵は、神代植物公園のバラ園。来場者は除いた。

        2016年5月24日  岩下賢治

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ネコ、死す

2016年05月18日 | 日記

             

 5月16日、ペットのネコ、ビーズくんが死にました。

 18年生き、寿命です。

 この1ヶ月ほど、家内が付きっ切りで看病、動物病院にもなんども連れていったことか。

 ビーズくんが我が家にやってきたのは、たまたま公園の藪のなかに捨て猫がいて、強大なハシブトガラスに啄ばまれる寸前を助けてやったことから。以来、家内は福ネコだと大切に飼育してきた。確かに福ネコだったかもしれない。以来我が家にトラブルめいた事案は皆無だった。

 家内は少し張り合いが抜けたような様子です。【彬】

 
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縄文期ということ

2016年05月13日 | 日記

       竪穴住居を復元した内部の様子。中央にカマド

 長野県の塩尻市・平出遺跡および平出博物館に行ってきた。この遺跡は縄文中期とみられる竪穴住居跡が300弱、土器類も多数発掘され、かつては日本三大遺跡のひとつとされたところである。

 私たちは縄文期というと、縄文土器でしか知らない、弥生時代の前のほとんど架空のような時代である。そんな遺跡を見学し、考古学にまったく素人の私が感じたことを素直に述べてみる。

 ①縄文時代の長さ

 縄文期は今から15,000年前から5,000年前くらいの期間だとされている。その間、およそ10,000年。奈良時代でさえ、1,500年前だから、その古さは想像を絶する。そして一時代の長さというと、洋の東西の文明を通してもせいぜい300~500年くらいである。ところが縄文期はおよそ10,000年も続いているのである。

 この時代の長さを頭に入れておかないと、まったくポイントをはずした理解になろう。たとえば土器や遺跡の遺構はせいぜい2~3世代のことしか語らないのだ。

 平出遺跡では壊れた土器などを捨てた遺構が発見されている。つまり、何代かの変遷の中で、古い住居がゴミ捨て場になって、歴史を刻んでいるのである。遺跡を理解するためには、相当に長い時間軸を持って接することが重要だ。

②土器の使用目的

 発掘された土器からその文様や形を読み、宗教や催事に関係したのではないか、と一般的には説明されている。しかし、それは二次的な問題であり、土器にどのような生活の名残が残っているかを見るべきである。わたしはまず火に曝したかどうかを見るべきだと思っている。幸い幾つかの土器にはススが残っていて煮炊きに使ったことが推測されている。それにしてはその名残は微かだ。薪をくべ、熱く熱したはずだから、どの土器もススで黒焦げになっているはずである。

 また、煮炊きをするにしては深鉢すぎる形態が多すぎる。私が思うに、採掘された多くは貯蔵用や飲料用だったのではないかと思う。そして煮炊きには現存していないが、平鉢のようものが使われたのではないか。

③食料

 狩猟採集が基本だとされているが、疑問が多い。

 近年、照葉樹林文化が提唱され、亡くなられたが、中尾佐吉、佐々木高明氏らによって、焼畑栽培の可能性が指摘されている。そして水晒しなどによる食物の「あく抜き」に注目している。狩猟採集では定住生活は長くは続かない。しかし縄文期は、スケールの大きな定住生活なのである。

④竪穴住居

 住居跡は半径2メートル前後、本当に狭い場所に、茅で屋根を葺いている。中央にカマド。こんな場所で煮炊きをしたらススだらけになって、窒息する。おそらくカマドは暖房用で、せいぜい湯などを沸かしすくらいではなかったろうか。

 煮炊きは、住居の外、場合によっては共同の炊事場があったのではないか。

 縄文期が想像を絶するほど長期にわたり栄えたのは、共同の炊事があり、食料に欠くことがことがなかったからではないか。

⑤縄文人の来歴

 縄文人はどこから来て、どのように滅びたのか。

「照葉樹林文化とは何か」(中公新書)の中で、環境考古学の安田喜憲さんが重要な指摘をしている。

 人類は氷河期の終わり頃、アジアでは、東シナ海で海面が相当に上昇し、大規模な民族移動が起こり、奥地へ奥地へと押し込められていったという。縄文人が長野や中国地方の高地に多くの遺跡を残しているのは、この温暖化による民族移動の結果だとも言える。そして縄文文化が滅びたのは鉄を持った弥生人に征服されたという説があるが、本当は同じような気候変動による寒冷化で、高地での生活ができなくなったからだろう。温暖化と寒冷化の周期と縄文時代はほぼ一致するようだ。

  などなど。【彬】

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