ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

やれやれ、また選挙だ

2014年11月27日 | 日記

 新宿区では、少し前の1116日に区長選があった。そして、またまた国政選挙である。旧友の市役所職員が「選挙って金がかかるんだよね」とつぶやいていたことがあったが、民主主義というのは金がかかるのである。だから経済が豊かでない国や地域では、民主主義が成立しない。

 新宿区の場合、自民・公明推薦の候補と共産党系の女性候補の戦いとなり、自民・公明推薦の区長が誕生した。どちらが勝つか、私は特に関心を持たなかったが、投票率が25.6%とということに、今更ながら考えることがあった。

 この選挙、投票率が25.6%とというのは、実数に換算すると、有権者総数98万人に対し、投票したものが、26万人ということになる。こんな少数者で決定して良いのだろうか? という疑念は当然あるのだが、そもそも、区長=つまり区というのは、どんな仕事をしているのか、ということとかかわるのだろう。多くの区民は、住民登録、つまり戸籍の管理をして、何やらの証明書を発行するところくらいの認識だと思える。戸籍関係ということから義務教育、婚姻、死亡、生活保護などがかかわるくらいというのが普通の理解だと思われる。

 そういう自治体認識であるのに、区長選や議員選などでは、候補者は住みやすい環境づくりとか、地域の活性化などと訴える。候補者がそういう現実性のないものを公約として掲げていること自体が、投票率の低下、あるいは区政の無視につながっているのではないか。そして議会が始まれば、平和都市宣言とか、原発反対を決議するとか、国政のまねごとをしているのである。たわけた話である。

 区政の範囲を確定し、そこでの問題を争点とする、そうした選挙でありたいものだ。私は支持しないが大阪市長の橋下さんが問題提起しているのは、そういうことである。自治体のあり方を作り替える、そうした行政であってほしいものだ。 

 新宿区の場合、私なら、まず清掃事業を充実させることを第一義とする。新宿のような商業地域では、ゴミの量は膨大である。現在はこれを産業廃棄物と家庭用廃棄物に分け、普通ゴミは週2回、資源ゴミは1回の割で収集している。これでは十全に回収しきれない。小回りのきく小型の収集車で毎日早朝に回収することで、ゴミの放置やカラスなどの被害から免れるというものだ。これこそ自治体の最重要課題と思う。処理施設など、ガスや臭いの出ない高度な施設を作れば済むことである。その廃熱はいくらでも有効活用できる。

 こうした政策案は次々と出てくる。例えば銭湯の充実である。都内各地で、スーパー銭湯が活況を呈している。日本人にとって入浴は生活活力の源なのである。銭湯を区政を尽くして充実させたい。などなど。少子化対策とか地域再生とか、国政のミニュチアばかりではほんとうに情けないのである。投票率が25%というのは、そういう情けなさの反映であることを議員たちはよくよく考えるべきである。

 国政選挙も同じ構図をなぞっているのでないか。今回は自民党の独走で、少数政党の立ち位置が不明確である。マスコミに踊らせられているとしか思われない公約とかマニュフェストでは意味はない。

 私は白票を投じる以外にない 【彬】

 絵は冬でも荒々しい葉をつけるタイサンボクです。

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秋から冬・・・山野の小さな美

2014年11月12日 | 日記

 11月に入ると、私の勤務している茨城県常陸大宮市の山間地あたりは寒さがましてくる。13年前、東京から赴任したときには、この寒さはキツイものがあったが、すぐに慣れ、今ではこの茨城西北部で秋から冬の季節感が気に入っている。

 カナダからこちらに移住してきた或るカナダ人もこの地域は冬が一番好きだといっているが、雪の降らない山野は、簡潔にして明快な美しさがあり、人間の意志を凛としてものにするのだろう。

 私が赴任した当時、山野草の好きな人が何人もいて、秋ごろになると「そろそろカンワラビが出てくる季節だ」と盛んに口にしていた。カンワラビとは、冬のハナワラビのことで、そのため「寒蕨」というのだそうだ。背丈は20~30センチほどの蕨だが、寒くなると胞子葉が膨らむ。それが何か工芸品のように金色に輝き美しい。日本各地の野山で見られるものだが、鉢植えで観賞用となること、僕はこちらで初めて知った。茨城県北部をドライブすると山野草を売るスタンドを見ることがあるが、鉢植えのカンワラビが高額な札を付け並んでいる。

 私の勤める会社の事務所の裏手に、秋から冬にかけ、このカンワラビがポツポツとあらわれる。裏地に出て様子をうかがう。美しい株をみつけると心がほっとする。そのとき、カンワラビを語っていた山野草好きの諸先輩たちの笑顔を思い出すのである。 

                                       11月7日  岩下賢治

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部活の外部委託について

2014年11月07日 | 日記

 

 主に公立中学での部活動にかかわる教員の過重負担について「真由子」というハンドルネームの女性教員が問題提起していて、ネット上で議論を呼んでいる。

 彼女が指摘するには、部活に関わることは教員にとって本来「ボランティアであること」であるのに、部活が教員の正式な勤務内容であるという考えが未だに世間的には根深く、部活を土日に見てくれるような熱血先生がいないようになってしまって嘆かわしいとか、部活についての援助を税金まで使ってするべきではない、学校の先生がすべき仕事だなどの、意見が出てくる。
 昔の先生は部活を指導してくれていた→超過勤務は今の先生だけの問題ではない→だから今の先生も忙しいと言わずに指導しろ、という短絡的な図式を描いている、のだと。
 こうした問題提起に対し毎日新聞は社説欄で解説委員の落合博氏が、
「真由子さんは6月の中学総体のために35日連続勤務をこなし、体調を崩した。部活の顧問から外してもらったが、後ろめたい気持ちを抱えたままだ」と、ブログを引用し「部活の意義と役割は認めたい。企業スポーツとともに日本の競技力を支えてきた。学校生活の一番の思い出に部活を挙げる子どもたちは多い。自ら車を運転して遠征に出かけたり、生徒を自宅に住まわせたりして成果を出してきた〈熱血先生〉の献身と情熱には頭が下がる。」とし、多くの真由子さんがいるのも確かで、部活のあり方について考えたいと結んでいる。
 で、いったい落合氏は部活をどうしたいというのだろう?
 部活問題に切り込んだのは、橋下大阪市長で、部活を学校教育から切り離して企業に外部委託したいと述べたのであり、これに対し賛否が渦巻いているのだ。真由子さんの発言もそうした背景の中にある。
 以前、本ブログでも述べたが、「教師の負担を減らし、学校の再生(様々な問題が山積している)をはかるためにも、余分なカリキュラムは減らすべきだ。運動会などで、中高齢の女性教師が奮闘している姿を見ると本当に気の毒。あの「無法松」の映画に見る、明治時代の遺物そのものである。」のであって、部活はその典型なのである。http://blog.goo.ne.jp/yoshiotyb3/e/ad723e9edf39592342485ce43b3474
 また、部活をめぐっては今でも不幸な出来事が頻繁に起こる。バスケット部のキャプテンが監督からしごきを受け、自殺した件はまだ記憶に新しい。
 だから、橋下市長の提案はうなずけるものである。ただし条件がある。
 それは、日本に於ける学校の役割・意味をもっと掘り下げてみることだ。
 部活云々の問題は、必然的に、日本における教育の【役割】の問題にいきつく。江戸時代の寺子屋、藩校、明治になっての尋常小学校、戦争期の国民学校、戦後の小中学校など、学校はは地域社会の一歩先を行く、先取の場であった。学校は進んでいて、いいことを教えてくれるところであったから、親は無理をしてでも通学させたのである。部活もそうした流れの一環であり、特にスポーツは学校でなければ体験することのできないものであった。おそらく欧米ではこうした学校の役割を宗教が体現していたと思われる。だから、すべて教会中心であるが、日本の場合はこれが学校中心になったのである。
 少子化が進む現在、学校の統廃合が進んでいるが、日本では学校の役割は子どもに教育を授ける場というだけでなく、上記のように社会統合の象徴としての役割を担ってきたのである。だから今でも選挙の投票所になり、災害の避難所になり、そして同窓会・同級会などが延々として機能しているのである。 
 部活を外部委託することは、従来の学校が担って来た役割を含んでのものでなければならないのだ。教師の負担を減らし、単に学校教育を機能的に効率化していくという改変では意味がない。むしろ教科の一部を民間に開放し、閉鎖的になりがちな学校を開いていく一環としてとらえるべきなのだ。
 変質者が入ってくるからといって、いつも校門を閉ざしているような学校であってはならない。【彬】

 *絵は路地でよく見られるようになったアメリカアサガオ。繁殖力が強く種が無数についている。

 

 

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