ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

暑い、暑い、暑い

2015年07月31日 | 日記

      

                                 絵=入沢光世

 この夏、実感的には、いつもに比べて暑いように思う。35度なんて連発だ。

 夏の暑さにまいるのは夜の温度である。できることなら、25度を下回ってもらいたいものである。こう暑くては、夜遊びもできやしない。

 私の子供の頃は、夜は涼しくなって、寝冷えをしないように腹掛けするのが、風習だった。クツワムシなど、夜に捕まえにいくのだ。

 で、東京の暑さで思うことがある。外気温と冷房された室内の温度差である。外の熱風に晒されて、涼しいところに移動するば、ほんとにほっとするが、しばらくすると足元や二の腕あたりがひんやりしてきて、震えがくることもある。気温の変化に身体が追いつけないからだが、これは温度の性質にも原因があるように思う。

 大気の温度は日光だけでなく、空気に含んだ湿気に影響されている。我々の肌は、空気中の湿度に媒介されて温度を感じるのである。湿度が低ければ、多分30度の気温も平気なのである。

 冷房された部屋で、嫌な寒気を感じるのは、そこが冷気、つまり湿気で充満した低温が蔓延しているからである。エアコンの使用は、冷房ではなく、除湿で行なってもらいたい。特に、電車など、極度に温度差が生じている場所はなおさらである。

 クールビスなどという言い草が一般的になっているが、そんなエコ感覚で夏は凌げはしない。むしろ、皮膚と外気を遮断するクールウエアでこそ、夏服なのである。【彬】

 

*最近、パリ住まいの人から彼の地の気温を聞く機会があった。夏は30度を越すが、夜はほんとに涼しいそうだ。だから各家庭にはエアコンがないという。大陸型の気候なのだろう。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暑い夏にミステリーを読む

2015年07月25日 | 日記

     

 梅雨が明け猛暑が続く。こういう時は普段読まないミステリー小説で涼しくなりたい。

 趣味でロシア語を勉強している流れから、5年前のNHKロシア講座で紹介された、現在ロシアの人気推理小説家、ボリス・アクーニン氏の代表作「リヴァイサン号殺人事件」を読んだ。アクーニン氏は、日本文学の研究者でもある。特に三島由紀夫の作品の多くをロシア語に翻訳をしている。また彼の作品は、ロシアのみならず、30ヶ国以上の言語に翻訳されている。文章は格調高い古典作品のようで状況描写が素晴らしい。ということで、かなりの長編ながら一気に読み終えた。

 時代は、19世紀末。舞台は、イギリス、サウサンプトン港発カルカッタ行の豪華客船、リヴァイサン号内。大富豪のパリ自宅での殺人事件にかかわる容疑者が、何名も乗船する。複雑に絡まった糸を解きほぐし、事件を解決するのは、偶然乗り合わせたモスクワ警察の調査官、ファンドーリン。・・・大変面白く、背筋がスー、と涼しくなるおもいであった。

 最後に、どんでん返しのあるところは、アガサクリスティーの作品のようでもある。

 ところで。アクーニン氏はNHKの番組インタビューで語る。「ロシア人は、日本に興味を持ち、実に様々な分野で日本を愛好している。本当のロシアというのは、政治家でも軍人でもない。作曲家や、画家、作家なんだ。」 

 僕は、彼の意見に同感する。国対国に関わる政治家などの発言には必ずしも真の国民の意思が表れていないように思える。そして国民対国民の理解には互いの文化を知ることが必要だ。

 話は少し飛ぶが。最近の日本と中国の関係など、政治家の話は、国対国となると、どうも本当の国民の姿が見えてこない。大変難しいことなのだが、相手を理解することなくして、共栄はあり得ない。このようなこと誰でもわかっていることなのだが。

 絵は、リヴァイサン号。・・・・本のカバー絵から僕が想像したもの。

                   2015年7月23日  岩下賢治

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新安保法制について

2015年07月22日 | 日記

        犬=本多厚二作

 新法制について、各界で議論が賑やかだ。私はあまり興味はないが、放置したくもないので、自分なりに思うことを書いておきたい。
 新法案のうちの【武力攻撃事態法改正案】は、次のようになっている。
「この法律は、武力攻撃事態等及び存立危機事態への対処について、武力攻撃事態等及び存立危機事態への対処のための態勢を整備し、もって我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に資することを目的とする。」
 そして関連する【重要影響事態法案】に
「この法律は、そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態「重要影響事態」に際し、合衆国軍隊等に対する後方支援活動等を行うことにより、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の効果的な運用に寄与することを中核とする外国との連携を強化し、我が国の平和及び安全の確保に資する」となっている。
 新聞等の解説にあるように、つまりアメリカなど主要国と一体となって、問題地域に対し、武力の後方支援活動を行うということである。従来の周辺事態法に変わるもので、自衛権の外縁をギリギリまで伸ばして集団自衛権にまで近接させるということのようだ。
 自衛の範囲といってもこれは明らかに憲法に違反しているが、もともと自衛隊そのものが憲法に抵触するのだから、違反論議をすれば、朝鮮戦争以来、軍隊を保持してきた日本の存立そのものがおかしなものになる。自民党にしろ、旧社会党にしろ、この論議には深入りせず、凌いできたわけである。だから、こうした議論を憲法学者がいまさらあれこれいうのはどうか、という感じがしなくもない。
 そうしたことより、この法制が、安倍首相の言う戦後レジームからの脱却という意図があり、ある意味、時代を画する政治的な象徴になるのだということが大事である。昨今の格差社会という言い方にも現れているが、若者や低収入者の労働条件が極めてわるい。経済的に、文化的に、時代の大きな変換期はとっくに来ているのは明らかで、それが今回安保法制として政治レベルで実現されたというべきなのだろう。ではその変換・転換というのは、どこからどこへ、というのだが、それがよく見えないので苛つくのである。国会をとりまくデモ隊も、そうしたわけもわからない焦燥感から、戦争反対、徴兵制反対などというアナクロニックなスローガンを発しているに違いない。
 もっと具体的にいうと中国の台頭である。中国は今「一帯一路」と言って、シルクロード経済ベルトと21世紀海上シルクロードを構築しつつあり、その一端が南シナ海岩礁の基地化である。ペルシャ湾からインド洋、マラッカ海峡など、世界の海上交通路を自国の経済利権の中に封じ込めようとしており、これがアメリカとの確執となり、日本の懸念として顕在化しているのである。
 おそらくこうした動きは、国家を超えるべきユウロが停滞していること、民主的であるべき中東アラブが、底なしの紛争に見舞われているように、平和な世界統一への希望が、破綻し、再び冷戦時代を呼び戻しているかのような状況と軌を一にしていると思う。
 中国やロシアが戦勝国記念の式典を大々的に開こうと計画しているらしい。戦勝国の理念、あるいは利権とはなんなのか、問うべきである。我々敗戦国日本は戦後世界の理想を憲法前文に表現したが、その意味をもう一度検討する必要があるのだと思う。【彬】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スポーツはビジネスである

2015年07月06日 | 日記

                              雨の中の睡蓮

 テレビ放映と相まって世界のスポーツ界では注目のビックイベントが目白押しである。

 そんな中、日本ではオリンピック用のスタジアムの建設でもめている。未来都市のようなスタジアムを建設するための、用地の確保と多額の費用をめぐる疑念が絶えないのだ。責任者は一体誰なのか、とまでジャーナリズムを賑わしている始末。

 果たして8万人を収容するスタジアムを建設する必要があるのか、私も疑問を感じているが、それはそれとして、現代社会の中でスポーツをどういうふうに位置づけるのか、という根本的な問題がなおざりにされているように思う。

 問題は多岐にわたるので、オリンピックに絞って考えてみる。当初は、アマチュアの精髄としてのオリンピックであった。それがドイツオリンピックを契機にして、国威発揚の場としての国際イベントとなった。冷戦期これを引き継いでソ連、東ドイツは国家スポーツとしてスポーツ大国を築いた。その後、商業化が進んで、オリンピックはビジネスの場になった。

 スポーツがプロ化=ビジネスの場になるのは、私は必然だと思う。芸術や芸能がビジネスの対象となるのと同じである。こうした推移に反対する人もいることは承知しているが、そういう人の意見を敷衍していくと結局は、俺のところの競技、私んとこの競技もオリンピックの種目にいれろ、という大合唱になってくる。男女でも同じ種目がないと目くじらを立ててくる。さらには、種目がどんどん多くなり、そんなに細分化して意味があるのか、と疑いたくなる。こうした動きは、スポーツを生活の楽しみとして考えるのであるならば、有意味であるが、オリンビックなどのビックイベントにぶら下がる感じで主張するのは、大いなる勘違いである。それはかつての国家スポーツと繋がってくるように思う。

 オリンピックスタジアムを過度に巨大化するというのも、こうした動きを無縁ではない。

 スポーツはビジネスなのである。ビジネスとして価値を認めるから、テレビをはじめ、マスコミが挙ってスポンサードするのである。ビジネスにならないマイナーなスポーツはその発足当初からの生活の楽しみの一部として自己完結していけばいいのである。それに不満があるならば、ビジネスとして成り立つように工夫すべきだ。古典芸能のように国家の補助をもらいながらの活動である必要はないのである。実際ラグビーやサッカーは、オリンピックなしで十分ビジネスとして成立しているのだ。

 話を元にもどすが、オリンピックスタジアム建設の云々は、結局、採算に合うかどうかということである。国威の発揚などと言っては元も子もない。そもそもオリンピックは国家行事ではなく、都市の行事なのである。東京都は純粋にビジネスに合っているかどうか、検討すべきなのである。【彬】

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長い旅路(つづき)

2015年07月01日 | 日記

 

 6月27日(土)、前回に続き、やはり40km程のランニングの長旅をした。今回のコースは、自宅近くの野川に沿う遊歩道。 

 野川は、東京都国分寺市の日立研究所敷地内の池を源とし、小金井市、調布市、などを通り、世田谷区玉川で多摩川と合流する一級河川である。その行程のうち、小金井市の武蔵野公園を起点とし二子玉川の手前の道が尽きる地点を往復とする約40kmが今回の長旅のコース。遊歩道は樹木や植栽が整備され散策やジョギングをする人が多い。 

 実を言うと、前回紹介した、玉川上水のランニング練習コースを知る前に、フルマラソンの練習コースとして使っていた。僕の足が元気で、フルマラソンのサブスリー(3時間を切るタイム)の頃はほとんどここが練習コースだった。

今回、本当に久しぶりに、このコースの長旅を思いついた理由は、

①   現在の僕は、フルマラソン大会(42.195km)を走るのがキツクなり距離を短くしている。

②   今まで100回以上フルマラソンを走り、自分として満足できる結果を出せたのは、この野川のコースのおかげ。

③   これが最後と思い、記念にもう一度走っておこう。

  ところで、昔この野川のコースで好きだった景色は、折り返し手前、2~3kmあたり。

 キレイな街並みが途絶えがちになり、質素な家々と、小さな工場、作業場など生活感、人の匂いを感じる風景だ。そして道が終わる。折り返し点に立ち前方を眺めると、遠くに多摩川と二子玉川の街が見渡せる。「旅の果て、家並み途絶え、道尽きぬ。心空(から)にし、対岸を臨む。あ~思えば遠くに来たもんだ。」そんな旅愁気分が僕は好きなんですね。

 そして今回、そんな風景に再会することを楽しみにしていたが、懐かしその風景は変わっていた。再開発で家も工場もなくなり、総合運動公園へ変わろうとしている。 

 長い旅も終盤になったころ、足はしびれて重いが、心は軽い。

「フルマラソンの大会で出るのは周囲に迷惑もかかるだろうが、自分のコース40kmをのんびり走るはいいのではないか。途中で、食事をしたり、休憩できる。」などと、思っていた。今回の長旅でも、フルマラソンにこだわる自分に出会っていた。故障やケガは避けなければならないが。

  絵は、折り返し地点から、多摩川、二子玉川の街を臨む。

               7月1日  岩下賢治

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする