ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

デパートの衰退

2021年11月27日 | 日記

                   ツワブキの花

 先日、デパートに下着を買いに行ったら、フロアはガラ空き。お客は誰もいない。各ショップには販売員がいるのだが、お客は本当に誰もいないのだ。デパートの衰退は聞いてはいたものの、こんなにひどい状況だとは知らなかた。自社ビルだからなんとか経営はしているのだろうが、こんな状況というのは、きっと何か時代認識に錯誤があったのだろう。
 今、デパートで残っているのは、銀座の三越と新宿の伊勢丹で、新宿の小田急は廃館だと聞いている。池袋の西武も同じ運命に違いない。こうした衰退は、特定のデパートということではなく、デパートそのものが持っていた特有の商法そのものからなのだろう。日本だけでなく、世界中のデパートで起こっていることなのかもしれない。
 デパートというのは、ブランドを保障する商法だった。あのデパートで買えば安心だ、高級品だ、という購買者意識に依存していた。閑散としているのは、消費者がこうしたブランド意識を持たなくなったからだと思う。特に衣服類。衣服については昔、マンションメーカーというのが流行って、それまでのブランドを破壊していった。その後は、無印やユニクロといった安売りが幅を聞かせて、今日に至っている。今、デパートで衣服を買うのは、私のような高齢者か、来日したアジア系の富裕層だけである。
 衣類は、どこで買っていいものか、私など見当がつかず、結局デパート頼みになるのだが、たまにユニクロに行って買っても、サイズ表示が曖昧で、納得したものを手に入れた試しがない。消費に関しては、私は完全に時代に取り残されている。
 今、ファッションの変化は想像を超えている。スーツやドレスを着ている人はまれで、職場の服装はジーパン&Tシャツだ。服装に関する美意識が全く変わってしまっていて、きっちりとしたウエアではなく、ブカブカで、だらっと覆うような服装が流行り。店舗も対面を重視しておらず、ユニクロや無印のように、スーパーの棚のような展示が標準になっている。    
 私が求めたのは、ネック付きのアンダーウエアだったが、そういうものはない、とあっさり済まされた。私は冬、ウールのシャツを着ると首回りがチクチクするので、冬場は首を保護するものが必要なのだ。それに体に密着した肌着でないと、寒くて仕方がない。そうした下着を以前はデパートの下着売り場で売っていたはずなのだが、、、。
 服飾品だけでなく、靴とかバックとか、雑貨類でも、どこで売っているのか、私たちの年代の人にはもう分からなくなっている。街から洋品店、文房具店、雑貨屋、本屋、金物屋、靴屋、その他、馴染みの店舗はすっかり姿を消してしまった。【彬】

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秋深まる大学キャンパスにて

2021年11月24日 | 日記

 11月23日勤労感謝の日。自宅すぐ近くの、東京農工大学工学部キャンパスを散策する。祭日だが、授業があり多くの学生が行きかう。広いキャンパス内は自然豊かで、この時期は、欅並木、銀杏並木、の紅葉が美しい。僕のような一般の人もそれが目当てで訪れる。

 中央広場には池があり、藤棚、東屋などがそなえられ、ベンチで休憩できる。ベンチに腰掛けしばし紅葉を眺める。・・・・

 ここは工学部であるが、女子学生が多い。資料によると、35%が女子。そして、学生というより普通に街で見かけるお洒落な身なり。話の内容は、普通のガールズトークのよう。昔、僕の学生時代は、工学部というと殆どが男子学生で、機械を扱い、油シミがついた白衣をきた堅物の学生たちというイメージがあるのだが。ちなみに、僕は経済学部。

 まあ、ここの各部学科は、バイオ、エネルギー、環境、ロボテック、コンピュータ、AIなどに関連する先端的なものらしく、男のような腕力は必要ないのかもしれないが。また、キャンパス内は、幼稚園児が保育士に連れられ散歩する幼稚園児達をよくみる。小さい子供の多い地域なのだ。ここは安心して散歩できる。・・・・

 そんなことで、このキャンパスを訪れると、日本は少子高齢で、今だに男性中心の社会、という概念がすっかり飛んで行ってしまうのだ。ここにきて楽しいのはそんな現実離れした世界に会えるためかもしれない。

 とういことで、この日は晩秋の武蔵野をごく近場で満喫した次第。

  絵は中央広場にて

   2021年11月24日  岩下賢治

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高齢者ドライバーの事故に思う

2021年11月21日 | 日記

                    花盛りのサザンカ

 私は運転免許を持っていない。もちろん運転しないし、できない。だから運転者の心理は分からないのだが、最近、何度かニュースになっている高齢車ドライバーの事故にただならぬものを感ずる。 
 高齢になって、運動神経が劣化してくるのは、誰でもが感ずるもので、例外はない。だからドライバーは必要以上に細心の注意を払っているはず。取りまく家族もドライブを控えるよう、説得しているに違いない。それにも関わらず、止むを得ず運転する場合は、行先や道路の選択、時間帯、スピードなどなどに、細かな配慮をしているはずだ。
 ところが、報告されている例では、繁華街、駐車場、交差点とかの事故現場が上がっている。それに事故原因の多くが、ブレーキとアクセルの踏み間違いである。単に不注意とは言えない何かが介在しているようにも思う。
 何か、魔がさすとでもいうのだろうか。
 事故は注意していても起こる時は、起こるものだ。
 そこでと言うわけではないが、車のアクセルとブレーキというのは、なんで踏み間違えるような近い位置に配置しているのだろうか、と思う。私は運転の仕組みを知らないから、軽々に何かをいうつもりはないが、昔のバスやトラックでは、クラッチを入れ、ギアを切り替えるのが普通だった。その場合は、左足でクラッチ、右足でブレーキとアクセルだった。今はそんなことをせずにギアはスピードの変化に従い、ほぼ自動的に切り替わるのだろうと思う。
 そんなことを想像すると、アクセルとブレーキの踏み違いは、右足でブレーキとアクセルを踏み分ける、昔の車の構造的な名残なのではないだろうか、などと思わざるをえない。
 今は自動でギアを切り替えることができる時代なのだから、アクセルとブレーキの位置は、同じ位置である必要はないように思う。ブレーキだけを足元に残して、アクセル関係の機器はハンドル周辺に置き換えるとか、可能なのではないのだろうか。あるいは逆か? 自転車だとブレーキが手動だ。
 車の進歩は著しく、今の課題は電気自動車、AIによる自動運転、という風になっているが、高齢者の事故を思うと、そういう流れではなく、車の仕組みを変える必要があるのではないか、などと思う。
 日本のような土地の狭いところでの運転は、車の車庫出し、車庫入れが最も大事なことになる。ブレーキとアクセルの踏み間違いが起こるのも、こうした狭い場所での操作の誤りだろう。車を運転しない全くの部外者からの意見は、的を外しているだろうが、私も被害者になる可能性がある立場として、ブレーキとアクセルの位置の問題について、多少、言ってみたかった。【彬】

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若さと政治的無知

2021年11月13日 | 日記

                                       槇の実、食べられます。

 グリーン革命、言い換えば、いかに二酸化炭素を減らすか、あるいは地球温暖化を抑制するか、の国際的な会議が行われている。イギリスのグラスコーでのCOP26、国別の炭素排出の抑制が協議された。しかし、肝心の中国、アメリカが参加を見送ったため結論は中途半端、日本も署名を見送っている。
 温暖化は喫緊の問題ではないが、現今の気象変動を思えば、なんとかしなければならない問題であることは確かである。いろいろな識者が政治的な思惑を含めて様々に危機を煽っているが、そんなことよりも地球上に人間の数がここ100年の間に倍増していることこそ、そもそもの問題である。経済が豊かになり、人間が増え、火のある暮らしをすれば二酸化炭素は増えるに決まっている。でも人口を増やさないようにしようとする動きはどこの国にも見られない。かつて一人っこ政策を推し進めた中国でさえ、今は逆の政策をとっている。人口が増えても地球環境を変化させない方式はどのように可能なのか、難問である。フィンランドの少女や日本の女子学生が喚いたことで解決するような課題ではない。
 良識的と言われている一部の識者達は、この問題について、若者が積極的に参画するよう呼びかけている。例えばオバマ前アメリカ大統領。
 グラスコーの集会で、若者の活動家たちに向け、自身の世代の危機感の欠如が、不安と怒りの「真の根源」となっていると言及。若者たちに、「いら立ちを感じるのも当然。私の世代は、あなた方が受け継ぐ、壊滅的な可能性のある問題に十分な対処をしてこなかった」と話した、とレポートされている。
 政治家が若者を挑発するのは、今に限ったことではない。典型的なのは、毛沢東。「実践論」の中で、世の中の動静にあれやこれや惑わさていない純な若者こそ変革の推進者だと言っている。つまり若さの行動力を武器にすべきと。
 私たちはこうした政治家の〈いかがわしさ〉を随分と見てきたし、その体験もしてきている。いま年取って思うことは、若い頃の無知なる故の傲慢さである。思えば自分自身、恥ずかしいことがたくさんある。
 吉本隆明さんはマルクスを引いて「無知が栄えた試しはない」と言っている。世の中の課題を安易に政治的に片寄せること、しかもその言辞を若者に託するような方策を取ること、最も唾棄すべきことなのだと思う。
 地球温暖化の問題に戻るなら、さらなる科学的知見が必要だと思う。例えば海流と気温の関係の解明には、もっと力をいれてほしい。また、日本人なら縄文人がなぜ滅びたのか、視野に入れたいものだ。などなど。政治的に偏らないことが大事なことだ。【彬】

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東京で茨城の秋を楽しむ?

2021年11月09日 | 日記

 11月7日(日)は長距離ウォーキングでの練習日。コースは色々あるが、どこにするか。

 前日、NHK「ぶらたもり」で玉川上水が紹介されていた。つられて、玉川上水沿いのコースにする。小金井公園↔小平市中央園公園往復の、12km程のコース。ウォークだけでなく、秋、木々の色付き楽しむ。このコースは、ナラ、クヌギなどが特徴で、紅葉の美というより秋の風情を楽しむもの。

 歩きながら思う・・・・茨城時代にはこのような秋の日は、豊かな自然の中をドライブし紅葉の山野を愛で、笠間市や栃木県の益子町など陶芸の町に寄り陶器店の散策を楽しんだものだ。そして、温泉につかることもあったな。・・・・

 期せずしてこの日は、小金井公園内で全国大陶器市が開催されていて、全国の有名な陶器生産地25か所から参加している。見て回り、気に入ったものを数点購入する。そして・・・・公園近くの、温泉施設「おふろの王様」でウォークの疲れを癒す。この施設を利用するのは初めて。いままで考えたこともなかったが、この日は温泉につかりたい気分であった。

 さっぱりして施設をでて、周囲を眺める。住宅の向こうに木々。茨城であったら、素晴らしい山野が望めるのだが。・・・・だが、ウォーキングで体は鍛えられたし、陶器市や温泉施設で、茨城のような楽しみもあったことだし、良し、としよう。

  絵は公園内の陶器市

    2021年11月8日   岩下賢治

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