スイセンが活きよいよく咲いています。もう春です。
スポーツ界を超えて、ジャーナリズムでは体罰問題が継続しています。さすがにこれを肯定する人はいないようだ。そんな中で元西武・巨人の清原氏が体罰容認のような発言をしていることが2チャンネルやツイッターで話題となっている。
清原氏がいうのは、指導者の暴力ではなく、上級生の暴力である。PL学園在学中は暴力の洗礼をうけ、体中アザが消えたことは無かったという。つまり、指導としての暴力ではなく、上下関係の暴力である。そして、その暴力は、勝負を分ける肝のすわった場面では、大いに役立ったというのである。
私は清原氏の認識が正確だと思う。
技術的な指導を暴力的に行うことは、どんな世界でもありえない。よく言われる大工など職人的な場でも技術の伝達では、見よう見まねで行われていて、暴力的なことは用具の扱い方や仕事場の後始末などに限っている。刃物など危険物を扱う場面では特にそうである。(料理も同じである)。技術の伝承では暴力は無縁だ。このことは何時の時代でもどんな場面でも同じである。いまジャーナリズムで問題にされている暴力は「技術的な指導としての暴力」である。以前からこのブログで問題にしているのは、これは問題の立て方が間違っている。
技術的な指導で、選手に理解実行できないからといって殴る蹴るということは、どんなスポーツ場面でもありえない。では、どんな理由で殴る蹴るのか。殴る蹴るくらいならまだましも、長時間の正座やバットや竹刀、木刀だ。理由となるのは、取り組み方が甘い、気合いがこもっていない、先輩に対する敬意がない、といった心理的な問題である。このことが問題の根本であり、技術的な指導方法の問題ではないのである。と同時に、チームスポーツの問題が絡んできて、団結力を乱すというのだ。だから清原氏の指摘は正鵠を得ているはずである。そんなことは、スポーツの世界に身を置いた人は誰でもわかっている。分かっているのに新聞やテレビなどで活躍しているかつてのスポーツマンは、なにをはばかっているのか、問題をずらしている。
それが、たとえば高校野球などの場合、「純真さ」とかといった言葉のオブラートに隠し包んでしまっていることは、みんな分かっているのだ。大新聞を始めテレビでスポーツに関わっている人たちは十分すぎるほど分かっているはずなのだ。それを表現できないでいることはどういうことなのか、私には想像もつかない身過ぎ世過ぎがあるのだろう。
わたしは清原氏の考えには反対だが、暴力の根源が先輩後輩といった、学校=学年スポーツの中にあることには全く同意する。学校からスポーツを開放すべきであるというのが私の変わらぬ見解である。
追記=なぜ、日本でこのような暴力が横行するようになったのか。私は前のブログに日本が近代化する時の宿命みたいなことにふれたが、最近、慶応大学の片山杜秀さんの「未完のファシズム」という論考があって、日本がなぜ合理的な戦術から突撃主義のような精神に至ったかを分析した書物が参考になる。軍事やスポーツの訓練は反復だが、反復が意味を持つのは持ち前の物量・力量を前提にしているが、実際勝負を決するのは瞬時の戦術だという考えが、後進国日本の軍事思想に至ったというプロセスを書いた本である。 【彬】