ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

私たちは戦後の国語改革で学んだ

2016年08月30日 | 日記

   ヒルガオです。

 ものを理解したり、考えを進めたりするのは、コトバによってである。コトバなしでは物事は後にも先にも進めない。そんな根本的であるコトバ=日本語は、表音、表意を織り交ぜた独特な言語であって、昔から難しすぎるので現代的に改革すべきと、何度か試みられてきた。言文一致運動もそうした流れの一端である。そんな中、敗戦を契機に国語を抜本的に見直し、新しく新字体の当用漢字、送り仮名を制定し、教科書から新聞雑誌、ラジオなど、あらゆるメディアを通しての運動で、新たな表記法が普及した。

 私たち子どもはこうした動きを知らぬまま、何の疑問もなく学習してきたのだが、この改革については、当初から左右双方の立場からの異論が続出して、例えば福田恆存などはその右からの筆頭だったろうか。また、日本が負けたのは、漢語を混えた日本語のせいであり、こんなしち面倒くさい言語はやめて、フランス語にすべきだというような見解が、なんと志賀直哉が堂々と述べていたのである。また、エスペラント語にすべきだと言って、その運動に身を捧げた人や、ローマ字表記の雑誌を発行した人もいる。そして後代になっても、高島俊男さんなどは、週刊文春誌上で折に触れては現代表記の問題点を指摘してきた。

 戦後の混沌とした、一種理想に燃えだ時期だから、そうした動きもさもありなむか。そして現在のような表記に定着したわけだが、その結果、私たちは江戸期から明治あたりの文献を素のままでは読解することができなくなった。これも時代の流れなのであろう。

 そんな折、びっくりした図書にめぐりあった。

「アメリカ教育使節団報告書」講談社学術文庫1979年、である。

 教育関係者、あるいは当時の知識人には常識だったのだろうが、私は門外漢とはいえ、まったく無知だった。迂闊だった。この報告書の中に「国語の改革」という一章が設けられ、日本語を改革すべきだと進駐軍として進言しているのである。その改革には3つの方向が提案されている。一つは漢字の数を減らすこと、二つは漢字の全廃そして仮名の採用、三つは漢字・仮名を全廃しローマ字の採用、を要求するというのである。

 つまり、難しい漢字・送り仮名をやめて、日本語を表音表記にすべきだというのだ。志賀直哉の言は、ひょっとするとそうした意向に添っていたのかもしれない。

 農地改革を含め、日本の戦後改革は占領軍アメリカの意向を強く反映したものだが、彼らは日本語の在り方まで口出ししていたのである。なるほど朝鮮のハングルのように国語を表音表記に一本化することは可能であろう。だが、日本の文化は漢字を取り入れることによって語彙を増やし、ヨーロッパの諸思想から近代科学まで、みごとな翻訳にすることができたのである。それが日本の力であった。

 日本語を変えたいというアメリカの意向は、日本を理想的な民主主義国にとの、善意をもっての提言なのだろうが、しかし、言語の在り方に無知な、結果として相手国を根こそぎ壊滅させるものだったろう。言語の在り方は、簡単ではない。いま小学生から英語を学ぶというのも、日本語を英語に変えるというだいそれた意図ではないのだろうが、グローバル化の中で言語をどうするのか、戦後に彼の国が提言した文書をつぶさに読み直すのも関係者には無駄なことではないだろう。【彬】

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台風被害の倒木に思う

2016年08月25日 | 日記

  タマスダレがちょうどシーズンである。

 台風が各地に冠水、崖崩れ、倒木などの被害をもたらしている。1時間に100ミリを越す大量の雨が降れば、当然だ。こうした被害のたびに思うことがある。それは昔に比べ、復旧がずいぶん早いことである。山間の崖崩れや、細い道路や線路にかかった倒木など、程なくかたずけられる。重機が威力を発揮しているわけだが、私の子供の頃は、復旧がなかなか進まなかった。倒木の処理や土砂の除去など、人出に頼らなければならなかったからだ。

 木を切ったこと、例えば薪木を伐ったり、庭木の剪定をしたことがある人は実感するはずだが、これを鋸で処理するには大変な労力が必要だ。しかし現在、足場さえ確保できれば電動ノコ、つまりチェーンソウを使って一瞬に片がつく。文明の威力をつくづく思う。

 木を切ることで思い出したことがある。縄文期の伐採である。三内丸山遺跡をはじめ、縄文期の遺跡に直径1mを超す柱跡が発掘されている。使用された材は栗の木。そんな栗の巨木をどうやって切ったのか。謎である。だからノコギリのような金属の道具があったのではないか、などと推測する人もいる。

 建築家の藤森照信氏が当時の 石斧(せきふ)で実験してみた(「縄文の謎の扉を開く」富山房インタナショナル刊のうちの「縄文住居の謎」より)。すると鋭利な石ではなく、錬磨した比較的柔らかい石をツタなどで柄にくくりつけた斧で水平に打ちつけてみると、小学生の力でも、多少時間はかかるものの、なんと問題なく木が切れたというのだ。考えてみれば、硬いものに対しては柔らかいもので研磨し、柔らかいものに対しては硬いもので切り落とすというのは、今では常識のようなものだ。大きな樹木を石のカケラのような石斧で切り倒す、それが実証されたのである。

 このレポート、私の抱いていた疑問が一気に氷解したような気になった。【彬】


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何処から来た蝶?

2016年08月19日 | 日記

 8月14日(日)の午後のこと。

 自宅から小金井公園に向かう住宅街の或お宅の玄関先に、二匹の蝶が飛んでいた。飛ぶ様子から、雄雌のようだ。遠くからでも目を引く今まで見たこともない美しい蝶だ。止まったところで観察する。開いた左右の翅の先の間が7~8cmと大きい。アゲハチョウのような優雅な姿ではなく、モンシロチョウのような普通の形。全体の色は薄茶色だが美しいのは翅の中ほどから先が鮮やかな青色。その青の部分をくっきりと黒の輪郭が囲む。僕が調べた限り、国内産蝶図鑑にはない。

 外国産か?

 外国産の昆虫といえば、大型のカブトムシ、クワガタが人気だが、この蝶は、わざわざ外国から持ってくるほどの派手なキレイさはない。航空機か船の荷に紛れ込んできたのか?それも考えにくい。

 翻ると、自分の子供の頃の夏は、美しい蝶との出会いの季節だった。カラスアゲハ、ジャコウアゲハ、など背筋がぞくぞくする魅力があった。まだ自然豊かだった故郷の日野市の林のなか。カブトムシを探しに入った林のなかで、初めて、オオムラサキに出会った。自然の中で、オオムラサキを見たのは、後にも先にもこの時だけだ。 

 先日、今住む小金井市の住宅街で、珍しい蝶に出会い、子供の時のような興奮を覚えた。それにしても、あの蝶は何なのか?真夏の日の幻想ではあるまいか。記憶が薄れぬうちに、こうして記録に残しておこう。 

    2016年8月18日  岩下賢治

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国立歴史民俗博物館を見学

2016年08月17日 | 日記

 歴史民俗博物館前のアオギリ。実がたわわに垂れ下がり、緑色の種を付けている。

 先日、佐倉市の歴史民俗博物館、通称「歴博」に行ってきた。平日だったが、子供達が夏休みということもあってか、地味な博物館にもかかわらず、観覧する人が多った。

 歴史や民俗ににまつわる博物館を作ろうとしたのは、東大教授で歴史学者の井上光貞らの意向で、戦前の神国日本のイデオロギーに満ちた歴史観に対し、事実を基礎にした歴史を対置する意図が如実に示されている。広い館内には、古代から現代にわたる1から6の展示室があり、細かく見ていくと1日がたちまちすぎてしまいそうに、盛りだくさんである。とはいえ、私には中高校の日本史の教科書を見せられているようで、なにか物足らなかった。例えば、江戸期なら各地の干拓事業がどのように行われたのか、参勤交代の際の宿場がどのような構成をしていたのか、築城の技術はどうなのかなど、知りたいこと、見たいことが山ほどある。そうした展示は、このような一般的な博物館にはそぐわないのであろう。築城の技術を扱う博物館とか、それぞれ専門の分野になるのかもしれない。

 特別展示室があって、ここではテーマに添った展示が行われている。佐原真が館長であった頃には、考古学関係の展示がよくされていた記憶がある。現在はシーボルト展となっている。 

 この博物館は、JR、京成いずれの駅からもバスで10分ほど。佐倉市の台地に位置しており、佐倉惣五郎で有名な佐倉城、その後の関東軍・佐倉分隊の訓練所だったところで、深い空堀に囲まれた広大な敷地をめぐらせている。佐倉ということからか、桜が植えられ、お花見には格好の場所かもしれない。博物館もさることながら、この敷地を巡るのもお勧めである。【彬】

 

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この夏の読書

2016年08月14日 | 日記

 僕は、子供の頃から夏には(夏休み)には、読書をする習慣があり今年の夏は、高校生のとき親しんだ、ドイツの小説家ヘルマン・ヘッセの作品を何冊か読み直しています。

 代表作の一つ「車輪の下」について。1905年発表の、自伝的小説。ある小さな田舎町の大変優れた才能を持つ少年が、神学校に進み聖職者を目指す。だが、周囲の期待に応えられず挫折し学校を止め、故郷に戻り、機械工職人の道を歩む。その生活に喜びをようやく見出せるようになったが、ある日友人と酒を飲み泥酔し、事故で川にはまり命を失う。

 改めて読み直すと、非常に心に重いものを感じる。現在の日本にもそのまま置き換えられる小説ではないか。

 さて、小説の最初の部分で、この少年の生まれ育った田舎町の様子を、「ニーチェのツァラストゥラの説くところを知らなくとも、十分教養ある生活ができる町・・・・」という文脈があります。当時のドイツではニーチェがかなり話題となっていたのだろう。僕自身、ニーチェは学生時代から気になる哲学者で、随分前に、「ツァラストゥラはかく語りき」、を読んでいました。また、原書も保管していて、部分的に読んでいました。Also sprach Zarathutra です。

  この夏また関心が出てきて、原書でまた頭から読み始めました。このドイツ語は簡潔だが硬く重い。手元にある翻訳家の日本語は柔らかく美しい。今、哲学書を読むというよりは、異国の寓話を異国の言葉で読み、ドイツ文化に親しみたい。なにせ、夏の楽しい読書なのだから。 

 絵は、ツァラストゥラが朝日に向かい、人間世界に下る決意を伝える場面。

      2016年8月14日 岩下賢治

 

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