ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

バラの三つ葉と五つ葉

2015年04月26日 | 日記

 鉢植えのバラが花芽を持ちました。春先、カキツバタ、ツツジ、ミズキ、フジなど、いろいろな花芽を見ると、植物の生命の輪廻の奥深さに思いがいきます。

 で、バラなのですが、いま、初めて気がついたことがあります。バラは頂芽に花をつけるのですが、花芽を付ける段になると、葉が五つ葉から三つ葉になるのです。花に栄養を与えるために、花の周辺の葉は生きる力をセーブして、葉を二葉、落とすのです? 本当の理由は私にはわかりません。でも不思議です。自然界は神秘に満ちています。【彬】

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生活の中の自然

2015年04月25日 | 日記

    

 茨城県北部の某市から東京都小金井市に戻り、十日ほどたった四月下旬のある日、自宅近くの玉川上水沿いの遊歩道でランニングの練習を再開した。ランニングは大切な趣味であるが、自然の緑の中にいることそれ自身も無上の喜びである。

 茨城にいた当時のランニング練習コースは、山、林、田んぼや畑を通る道ばかりで、空にはタカ、トンビが飛び、水田にはサギ、カモなどが遊ぶ自然のど真ん中であった。大きな自然の中に独り走ることで自己の存在を感じていた。そんな眼から見ると、玉川上水の自然は箱庭のようなものだが、植物や花の種類が多く、楽しい。

 国木田独歩の「武蔵野」の中にも玉川上水沿いを散策する楽しみが書かれている。今のJR中央線の武蔵境駅で降り、上水にかかる境橋に行き堀に沿って上流に向かって歩いた。季節は夏。農家の人には変わった人と映ったようだ。明治三十一年というあちこちに自然が残っていつ時代にあっても玉川上水の自然は文学者の感性に触れるものがあったのだろう。

 人間にとって生活の中に自然の緑がないと息苦しくなる。また自然の少ない環境にある人には鉢植の植物や盆栽があるだけでも癒しになるだろう。

 私が東京に戻り、玉川上水を走った時、これでやっと自分の家の庭に帰ってきたという安堵を感じた。だが、まだキンラン、ギンランの花は咲いていなかった。この花はここ以外では私は見たことがない珍しい花だ。来月になれば見られる。  4月20日 岩下賢治

注)玉川上水=江戸時代の1653年に江戸の飲料水確保のため築かれた人工の水路で、羽村市から四ッ谷まで43キロある。私の知る羽村から三鷹までは堀の姿を残し上水ベリには雑木林が残る。  

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〈被害者救済=正義〉に異議あり

2015年04月15日 | 日記

           

                         白樫の枝おろした株に、小鳥が羽を休めています。 

 加害者←→被害者の関係を巡る民事訴訟で最近注目すべき判決が立て続けにあった。

 一つはサッカーボール訴訟。報道によると「バイクを運転中に小学校の校庭から蹴り出されたサッカーボールをよけようとして転倒後、認知症を患い死亡した男性(85歳)の遺族がボールを蹴った当時小学生の両親に5,000万円の損害賠償を求めた」裁判。最高裁まで争われ、子供の側に賠償責任はないとの判決が出た。

 二つ目は、小学5年生だった少年が乗った自転車と歩行者が衝突した事故で、神戸地裁は被害にあった女性(67歳)に対し約9,500万円の高額賠償を命じたこと。

 そして、三つ目は中華料理店「餃子の王将」店内で転倒骨折したのは、店側が滑りやすい床への対策を怠ったためだとして、40代女性客が2,500万円の損害賠償を求めた訴訟。王将側が100万円の解決金を支払うことで和解した、とされる。

 類似の訴訟は、もっともっとあるのだろう。私が驚くのは、その高額さである。いよいよアメリカ並みの訴訟社会が現実化してくると、自分自身がいつどんな事故に巻き込まれるやも知れず、私達は保険なしでは、おちおち暮らしていけないことになる。 

 加害者・被害者の関係で言えば、もちろん被害者は救済されねばならない。しかし上記のような訴訟をみると、単に加害・被害の関係ではなく、なにか別な要素、あるいは社会観念が過剰に絡んでいるような気がしてならない。とくに被害者を救済することが〈至上の正義〉であるかのように振るまうジャーナリズムや法関係者の意識であり、風潮である。

 事故は、加害者と被害者が共有している場所や空間での出来事であり、たまたま不注意や不作為が作用した結果であって、意図して起したものではない。極端に言えば、両者は事故の生起に対して同等に関与しているわけである。一方が全面的に責任を負うものではない。これははっきりさせておくべきことだ。日常生活の中では、袖が触れ合ったからといって喧嘩じみたトラブルにはならない。お互いが「ごめんなさい」といって身を引くのである。こうした生活倫理は、法以上の上位にくる価値であることは肝に銘じておかなければならないことである。 【彬】

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自治体選挙・議員の役割が解らない

2015年04月10日 | 日記

           

                           絵=入澤光世 なばな 

 間もなく地方統一選挙である。立候補者も出揃いつつあり、看板なども設えられ始めた。名前を連呼する拡声器の音がうるさく響き渡るのも間もなくである。ところが、各自治体では、投票率の低迷が心配されている。私の住まいの新宿でも40%にとどかない。その原因を住民の政治意識の低さに求め、ひどいのになると、民主主義の危機などと煽り立てたりする論調がある。政治的な意識は、私たちの生活実感からは遠ければ遠いほうがいいのであって、もし政治的に問われるようなことがあるとすれば、それは生活実感において、非常の時なのである。

 そんなことより、私には地方の議会議員というのは、どういう役割をどのように果たしているのか、解らない。国政のように議員内閣制ではないから、議員の所属政党は本来意味がない。

 それに、地方行政は財源が不足しているから、独自の市政を施す余地はほとんど無いに等しく、総務省(旧自治省)の行政方針を円滑に遂行するしかない。それほど高額ではない議員報酬を得て、議員は本当に何をし、なにをしたいのだろうか? 単なる名誉職なのだろうか? 無投票に近い弱小の自治体では名誉職なのだろう。しかし、それで行政が滞るわけでなければ、それはそれで良いのだと思うのだが。

 自治体でするべきことはなんなのか、本気で考えるべきである。吉本隆明さんは、政治の理想はいやいやながらする地域のゴミ当番みたいなものだと言っているが、地方選の今つくづく思うのである。【彬】

 

 
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「道」

2015年04月06日 | 日記

       

                                            絵は水郡線

 ずいぶん前のことだが、NHKテレビ「日曜美術館」で東山魁夷の作品が解説されていた。その中の一つ「道」。緑色に広がる丘陵に向かい一本の道がまっすく伸びている単純な構図。昭和25年に日展に出展した作品で、混乱する戦後日本画の世界にあり、風景画による進むべき道を定めたと評価されている、と解説があり、私は感動した。

 さて、自分自身のこと。先日も書きましたが、13年間の茨城県の職場での仕事を終え、東京に戻る。東京と茨城は仕事内容も生活方法も違う。茨城に移るには相応の心構えをしなければならなかった。東京へ移動するにはクルマがあたりまえだが、それまで運転したこともなかったので、水戸から水郡線という単線の電車にゆられてやって来た。

 茨城での仕事や生活は楽しいものであった。豊かな自然、ゆったり流れる時間、人情、など。今となっては離れがたいものがある。

 今、仕事を仕上げ想い出を自分の記憶やスケッチブックに納め、東京に戻る。これまで3台のクルマを乗り継いできたが、手放し茨城に来た時と同じように水郡線で帰る。

 鉄道線路の脇に立ち伸びる先を眺めてみる。茨城赴任を絵で表現するとこの一本の線路になる。

 東山魁夷の「道」に少し近づいた気がする。      4月4日 岩下賢治

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