ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

スポーツ好きのスポーツ嫌い……静寂の中でプレー観戦を

2019年06月28日 | 日記

プラタナスが実をつけています。


 私は、スポーツが大好きだ。するのも好きだが、それ以上に観るのも大好き。上手い下手はあるが、アマチュアからプロに至るまで、それぞれに面白い。勝負事だからではなく、身体の動きを見ることは、例えば動物の動きを見ることと同じように、刺激的だからである。
 だから我が家のテレビはいつもスポーツ番組がかかっている。今、好んで観ているのはテニス。錦織選手の活躍のおかげで、世界中のトップイベントが容易く見られるようになった。知らなかったが、テニスは非常にハードなスポーツだ。特にグランドスラムと言われるビッグイベントは5セットマッチ。試合時間が4~5時間に及ぶことがある。それを一人のプレーヤーがこなすのである。しかも、連日。 

 そんなテニスの醍醐味は、選手の激しい息遣いや掛け声、シューズの滑る音、スマッシュを打ち込む鋭い打球音などである。これは集音マイクのせいではない。プレー中、観客が囁き声をも控えるような静寂さで見守ることの結果である。主審もサーブを打つ瞬間は会場のざわつきを抑えて、サンキュウ、メルシーと、マイクで制する。

 こうした静寂の中でのプレイは、テニスばかりではない、バトミントン、卓球、バスケット、フェンシング、剣道、それにラグビーも加わる。
 観客は興奮しながらも静かに試合を見守る。そして1プレーが終わると、拍手喝采。変に掛け声をかけると、卓球のようにアドバイスしたと退場処分が出ることもある。選手自身も声援には振り向きもせず、ひたすら試合に没頭する。
 これとは反対に、最初から最後まで騒がしいスポーツがある。野球、サッカーだ。選手は応援があったから勇気が湧いたなどと言ってはいるが、本当だろうか。私はこうした応援の騒がしいスポーツは、見ることは見るが、好きではない。Jリーグの観戦に行ったことがあるが、双方の応援団がうるさすぎて落ち着いて席に座っていられなかった。高校野球などもうるささの最たるものだ。わざわざブラスバンドまで引きつれていく。 
 野球で言えば、1プレーが終わるまでは、シーンとして観戦できないものなのか。投球がミットにおさまる激しい音や、芯でとらえた時の打球音など、本来背筋を凍らすにたる音なのである。
 私はスポーツは静寂の中で観戦するのがベストだと思う。
 競技と観客は一体とは思う。が、両者は厳然と区別すべきものである。選手は競技に没頭する。その区別があるからこそ選手への尊敬の念が発生するのであって、拍手をもらうことで人気が出るわけではない。ところが応援とは無縁だと思われていた陸上競技の中で、逆に観客に拍手を求めるロングジャンプの選手がいるようになった。そういう時代なのか。
 オリンピックが近い。この機会に、観客としての高ぶった意識を、じっと抑え、プレーを心底味わう習慣を養いたいものだ。どんなスポーツでも一流選手のプレーは、観るものを感動させるものがあるものなのだ。【彬】
 

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何の絵を、どのように描くか

2019年06月25日 | 日記

 NHK朝ドラ「なつぞら」を楽しんで観ている。戦災孤児であるヒロインが苦労して、子供のころからの夢であった、大手映画会社のアニメーターとなり、いよいよ活躍、というところだが、一つの壁にぶつかる。「アニメーションにしかできない表現とは何か?」という課題に引っかかってしまうのが、今の段階。時代は1958年で、ディズニー作品の表現方法が主流の時代。それを超える独自のもの作りたい、と考えている。

 僕は趣味で絵を描いているが、ドラマを観て感ずるところがある。絵を始めてかなりの年になるが、最近、何を描くか、どのように描くか、行き詰まることがある。始めた頃は、常にスケッチブックを携帯し、これはと思うものがあるとスケッチして、絵に仕上げることがあった。今は、絵画愛好会に入って、年2回の展示会に合わせ作品を描いている程度。同じ「なつぞら」の中で、絵の得意なヒロインの友人が語る、「絵を描くことは、生活することそのものだ。」という台詞があった。なるほどと思う。日々の生活で、心の動かされるものがあると、それを絵にしたくなる。トキメキをより多く感じていることになる。それは生活が充実しているということでもある。

 ということで、僕は「なつぞら」のドラマで「アニメーションでしかできない表現」がなんであるのか今期待しているところ。絵とアニメーションは違うが、手で描く「絵」というところでは同じだろう。ANIMATEは、・・・に命を吹き込む、の意味がある。動かぬ「絵」でも命がなければ観る側の心は動かない。つまりは、身近なものに常に興味と関心を持つということがいい絵を描くことにつながるのだろう。というより、生活を充実させていくことになる、と思う。

 絵は、子供の頃(6~7歳)、梅雨で外に出られないある日、近所の子供たちと絵をかいて遊んでいた懐かしい記憶。図案集をみながら、汽車、飛行機、自動車などかいていたな。

          2019年6月24日  岩下賢治

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裁判官は教誨師ではない

2019年06月21日 | 日記

   ビヨウヤナギ、です。

 刑事関係の判決が報道されるたびに思うことがある。
 裁判官が最後に述べる犯罪者を諭すような言葉に違和感があり、あれは一体なんなのかと思うのだ。裁判は法令への違反が問われ、量刑が決定されるのであって、教誨を目的としているわけではない。法治国家の裁判では倫理は排除されているはずなのに、彼はいつ宗教家になり教誨師になったのか。

 最近では、ビエール滝の麻薬裁判。
 小野なんとかという裁判長は、判決を言い渡した後「1点だけ引っかかったことがある」と切り出し、裁判用に提出された写真資料を瀧被告に示した。証拠として自宅を撮影したもので「人生」と書かれた文字が写っていた。「問いたいのは3つ。これからの人生をどうしたいか。人生の言葉の持つ意味は。人生と書いてくれた人の期待にあなたは応えられているか」と続けたそうだ。
 「そこから、5分に及ぶ長い説諭が始まった。法曹関係者によると、通常二言三言で終わるケースが多く、異例の長さ。司法記者クラブからも「どれだけしゃべるんだ?」と驚きの声が上がるほどだった。公判用の資料を説諭で示すのも極めてまれだという。
 「人生」とは、瀧被告が石野卓球と組む「電気グルーヴ」の前のバンド名。自身の原点である2文字を、瀧被告は自宅に飾り続けていた。
 その言葉を用いて、小野裁判長は「これから、迷ったり、悩んだり、孤独を感じたり。その時こそ、“人生”という字を書いてくれた人に応えられているか考えてほしい」と語った。瀧被告の今後について「いつか“薬物のドーピングがなくても、いいパフォーマンスをして前より凄いじゃないか”と示してくれることを切に願います」とエールを送った」
 以上、スポニチ・アネックスより。
 小野裁判長は過去の判例でも被告に寄り添った説諭を行ってきた“人情派”だという。
 
 裁判官は、起訴された罪状について法文上の違反があったかどうかを審査し、過去の判例を基に量刑を決めるものであって、人生訓を述べるところではない。何を勘違いしているのか。【彬】

【注】
 ▽説諭 裁判官が判決後、被告に判決の重みや今後への期待などを語りかけるもの。法律用語では「訓戒」と呼ばれ、刑事訴訟規則221条は「裁判長は判決の宣告をした後、被告人に対し、その将来について適当な訓戒をすることができる」と定める。更生のために反省を促したり、励ましたりする内容が多い。裁判官の個性が強く表れるため、内容で注目されることもある。義務ではなく、何も述べない場合もある。

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高齢化社会、あるいは理想の死について

2019年06月18日 | 日記

南天の花、今年はどこでも見事に咲いている。 

 定年退職が65歳、その後の70〜80才、あるいは90歳代をどうやって生きていけるのか。年金生活者の最大の関心事である。特に男女共、単身者の場合は深刻な問となっている。

 生産場面から離れた高齢者は、ただ消費するだけ、そして最期は最大の最高の消費である死を迎えることになる。
 人間は家族としてうまれ、家族として死ぬ。それが最高の幸せとされている。戦争とか、何かの不幸に見舞われ、家族と離れて死ぬことは、最大の不幸、不運とされているのである。

 ところがこうした風潮に対し、マルクスは重要なアンチテーゼを提出、人間は類的な存在で、死についても類として死ぬのだと言って、家族に依存した生き方の先の、もう一つ先の理想を提示した。といっても、類として死ぬというのが、どういうものなのか、具体的なイメージは提示してはいない。
 今、知り合いの人からメールが届き、高齢の実姉が亡くなったという。本人は大変な沈み込みで、慰めの言葉もない。
 そんなことから、自分や家内が死ぬことを想う。
 私は感性が鈍いせいなのか、死に対してたいして恐れもないし、悲しみもない。哀惜の感情がとぼしいのかもしれない。子どもの頃からの、親しくしていた同僚が死んだ時も、ああ、そうか、死んだのか、と思っただけ。
 ところが家内は猫が死んだといっては、長い間、想い出しては嗚咽していた。
 死はそれぞれに個別的にやってくる。だから個々のストーリーが立てられやすい。哀惜の念はそこから生ずるのだろう。これに家族をかぶせれば、今日の死の情景が出来上がる。
 私はこの死のイメージの円環から脱出して、類的な死というのをなんとか構想したいのである。類的というのは別の言い方をすれば、共同的ということ。人間は生産から消費に至るまで、共同性の中でしか生きることができない。そこで生き、死ぬわけだ。だから誤解を恐れずに言えば、死の理想は、日本に限って言うと天皇の生死に表現されているように思う。天皇の葬送、その具体例としては私たちは昭和天皇の葬儀を体験している。
 私の死も昭和天皇と同じように、地域共同体の儀礼として送ってもらいたい。ところが今は、それとは全く逆に家族葬とか、密葬とかが多くなっている。私の理想とはかけ離れている。
 それは、都市の不幸としか言いようがないものかもしれない。【彬】

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梅雨の季節、野川あたり

2019年06月09日 | 日記

 関東地方は、6月7日梅雨に入った。ところが、翌、8日は前日の雨があがっていた。ランニング練習日でもあるし、涼しいので、この季節の風情を楽しもうと野川沿いをジョギングにでかけた。スタートは、はけの森美術館。以前の中村美術館で、ジブリのアニメ「借りぐらしのアリエッティ」の舞台になったところ。

 野川沿いは自然をよく残し、整備もされている。農業体験のための田んぼ(大沢の里)が残され、田植えは終わっている。奥の崖線の際には水芭蕉ようなの白い花の群生が眼を引ひく。

 川の水鳥達を見る。数羽の鴨が片脚で立ち休んでいる、このような光景は初めて。本当に鴨なのか?・・・アオサギはいつも単独行動で堂々としている。羽を広げると大きい。

 5kmほど進むと、調布市場に到着。そこでは地下水をくみ上げており自由に飲める。冷たくておいしい。一休みしもう少し進み、京王線にぶつかる。ここで折り返す。

 道中、水鳥を撮影する人、風景をスケッチする人、そして、僕のように、ジョギングをする人達が、それぞれの梅雨の季節を楽しんでいる。

 終盤、「今を盛りのドクダミの花も一重ばかりで、八重はないな、今日はいつもの梅雨で特に新しい発見もないなー」と、物足りなさを感じていると、向こうからジョギングをしてくる若い女性。僕の目の前で、「キャー」と声を発し、背中をはたき出し、どうしようもない様子。見ると、黒いカメムシ「クサギカメムシ」だ。指先でピンと払ってあげると大いに感謝される。カメムシは匂いがきつい。これが、今日の発見か、と苦笑する。

 うっとうしい梅雨の季節であるが、僕はこの季節も好きである。

   絵は、野川のアオサギ。

     2019年6月9日  岩下賢治

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