ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

車、排ガスの次は粉塵対策を

2015年05月26日 | 日記

 

   

                              黄色のミニバラです。 

 子供の頃、父親に連れられて東京に出てきたことがあった。その折り、東京では汽車が屋根の上を通っていると言われ、半信半疑ながら駅ホームに来てみると、確かに民家を跨いで列車が走っており、呆然とした記憶がある。これが都市というものなのかと。

鉄道に限らず、交通機関の発達は現代社会のインフラの基礎をなすもので、単に便利だとか、安全だとか、といった側面だけでなく、私たちはもっともっと交通というものに根本的な思索を深めるべきだと思う。

前回、対面交通ではなく一方通行について述べたが、私の住んでいる環境のことで、もうひとつ、提言したいことがある。

 それは排ガスではなく、タイヤと路面の摩擦による粉塵のことである。

 雪が降ったあと、幹線道路の路肩には掻き積まれた雪の山ができる。その堆積した雪は、車の粉塵による汚れで黒々と無残な姿を残すことになる。あの汚れを見ると、歩行しているものは思わず目口を覆いたくなるものだ。あの汚れは平時には気が付かない。滑り止めのチェーンによる影響も大きいのだろうが、スピード上げた大型車は、いつでもこうした粉塵を巻き散らかしているはずである。細かくちぎれたタイヤとアスファルトの混じって粉塵である。ゴムに変わるタイヤの研究などもあったようだが、今のところゴムの弾力性に敵うものはないようだ。

 だとするならば、排ガス規制と同じように、粉塵規制をしき、車輪のカバー部分に吸塵装置を付けることを義務付けるべきではないのか。技術的にはそれほど困難ではないと思える。

 雨の日の高速道路を走る大型車の後を追うと、後輪の後ろは水滴が巻き上げられ、水の煙幕が張られたようになる。晴天の時では、おそらく粉塵が同じように巻き上げられているのだ。と思うと、隣国の大気汚染など云々するどころではないことがわかるのだ。【彬】

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3人の天才が交わる名画「オフェーリア」

2015年05月23日 | 日記

   

   私の所属する、某絵画愛好会では、毎年5月に会員の作品展示会が開かれる。私は自分の展示作品の一つに、無謀ながら19世紀イギリスの画家、ジョン・エベレット・ミレーの「オフェーリア」の模写としました。

 以前、この絵を画集で見たとき強い衝撃を受けたのです。「川に浮かぶ女性の屍。こんなものが絵のモチーフになるのか? それにしても、美しい。」

 この「オフェーリア」という絵は、私の関心のある、3人の天才が交わっています。

①    まず、シェークスピア。「ハムレット」のなかの主人公の恋人オフェーリアが、川に身投げしたシーンが絵のモチーフになっています。

②    二人目は、画家、ミレー本人。この1852年発表の「オフェーリア」は19世紀イギリス、ビクトリア朝時代の絵画の中でも傑作中の傑作、と評価されています。

③    3人目は、フランスの19世紀の、詩人、ランボー。このミレーの絵から想を得て詩を詠んでいます。タイトルは、“オフェーリア”。 

 私は、①~③が大変好きです。

・ハムレットは、英語の原文で読みました。オリジナルは400年前の古文なので現代英語に訳したものですが。

・ミレーの絵は、以前、東京の美術館で「オフェーリア」の原画展覧会が開催された時、さっそく足を運びました。

・ランボーの詩、“オフェーリア”は、堀口大学の訳で味わいました。 

 以前、このブログで絵の鑑賞方法に、模写というやり方があると書きました。だがこの「オフェーリア」は模写はできません。あまりにも精密で美しく、とても模写という発想は沸くものではありません。今回、ただ似せて描こうとしただけです。

 ところで、出展作品に古典絵画の名作「オフェーリア」の似せ絵にしたのには、現在的な理由はありません。私は、芸術作品の古典が好きなだけです。どれだけ古い作品でも優れたものは常に現在に受け入れられると思うのです。その中の好きな一つを選んだのです。     5月22日   岩下賢治 

   *絵は「オフェーリア」の概略。展示作品ではありません。

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玉川上水、春のミステリードラマ

2015年05月19日 | 日記

        

 前回のブログで玉川上水に自生する花、キンランについて触れました。今回はこの花にかかわる小さなミステリードラマです。

 先ず、キンランの花とは。……4~6月咲く花。花の色は黄色と白色。白はギンランという。ハデさはなく古風な日本女性の趣の美しさ。株の高さは30~70センチ。野山に自生するが固有の土壌が必要で栽培は難しい。最近は数が減り絶滅危惧種に指定されている。

 では、このドラマのあらすじ。

・5月6日。玉川上水を訪れ、かなりの数の株を確認する。だがまだツボミ。

・5月10日。少々期待をもって訪れる。ところが花どころかツボミが殆ど消えていた。キンランは以前、根ごと掘り出される盗難が問題となっていた。今回は株ごとなくなっているのではなく、ツボミが消えている。

・消えた原因を推測する。

①6~10日の五日間に開花し、そして花の命を終え落下して土色に変色した。

②風や雨などで飛ばされた。

③なんらかの目的で人間の手により取り去られた。

④この辺は土鳩が生息する。彼らが食べてしまった。

・5月15日。また現地を訪れた。

 この時期にキンラン、ギンランのない玉川上水は寂しいというか不思議な世界だ。ここを散策する人達もキンランを楽しみにしているだろうに。どう考えても①~④の原因はありえない。

 見上げるとエゴノキの白い花が満開。このエゴノキがことの次第を目撃しているのだ。彼らに問うても、ただ甘く刺激的な匂いを発散しているだけだ。この匂い、いつもは春の香りとして心地よいものだが、今年は悪女の退廃的な匂いに感じてしまう。

 今年の玉川上水の春は、僕にとってミステリードラマの舞台になってしまった。

      *絵はドラマ出演者のキンラン、ギンラン、エゴノキの花。

                       5月16日  岩下賢治

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一方通行のシステムを構想する

2015年05月11日 | 日記

   

                            森は、新緑であふれています。

 もうずっと昔のことになるが、気鋭の経済学者だった宇沢弘文さんが「自動車の社会的費用」(岩波新書)という本を上梓して話題になったことがある。当時発展しつつあった車社会を公共的な必要費用の面から批判したもので、私は幹線道路沿いの排ガスのひどいところに住んでいたこともあって、うなずくことも多かったのだが、同時に、自動車がダメなら鉄道に変わる他の交通手段を問題提起しなければ意味ないじゃないか、と漠然と考えていたことがある。例えば運河を利用するとか。

 その後、各種自動車のメカニック面での圧倒的な改善・改良が進み、宇沢さんが指摘した問題はほとんど解消してしまったようにも感じられる。

 今問題になっているのは、車の機能や性能より、運転者の倫理やマナー(薬物や飲酒、高齢者の心身障害など)のほうのようだ。

 私は都心に住んでいるので、運転することはない。車はタクシーを利用するくらいである。でも、幹線道路を走る途切れることのない車列を見ていると、事故などのこと以外に、車社会の将来にいくつかの疑問を感ずることがある。その一つは、車はなぜ対面交通でなければならないのか、ということ。

 結論からいうと、私は自動車の交通はすべて一方通行にすべきだと考えるのである。えっ、と思われるかもしれません。私の考えの根拠は人間の血液の流れを想定している。血液は動脈・静脈の、逆流のない流れによって、もっとも安全で効率的に栄養などの物資を供給している。これをシミュレートすることこそ交通の理想だと思うのです。一方通行でありながら、滞りなく手足の隅々にまで必要な物資を届けて、不要になった血液をまだ心臓にもどしている。こうした流れは物資の運搬という側面にだけ限定しているから可能になると思う。車を人の移動手段、つまり行ったり来たりする道具と考えると、一方通行は成り立たない。しかし自動車を運搬だけの機能に特化すれば一方通行は成り立つのである。通信機器の発達した現在、道路を動脈・静脈のように使い分けることは可能になっていると思う。これが達成されれば、交通事故はほとんど無くなるし、道路周辺の自然環境は圧倒的に改善される。

 未来に突き抜けるためには、人々の倫理的な行動やら、政治的な対策で云々する時代ではないのである。【彬】

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憲法記念日に当たって

2015年05月02日 | 日記

            

                                                                                      入澤光世=soramame

 安倍首相は戦後レジームからの脱却という。
 レジームという言い方は、アンシャンレジームからの転用であるのは明白で、こうした用語を使用する本人は、いわゆる保守的な人ではなく、戦後学校教育をまともに受けた、極めて近代的な人なのだと思う。

 安倍首相の言動から、現在、憲法9条をめぐる憲法改正が焦眉の的とする論調があるが、本当だろうか。

 武力の放棄をめぐる戦後政治の課題は、社会党政権下で自衛隊をあっさり合憲と認めたし、また共産党なども現憲法の公布に関する論議の中では、軍備の放棄に反対した経緯がある。国家のあり方をめぐる本質的な考察であるべき武力の放棄は、今日まで時の政治勢力の〈出し〉にしかなかったのである。自民党にしろ、民主党にしろ、共産党にせよ、衆議院の憲法調査会の報告を見る限り、憲法を、あるいは軍事に関して本質的に取り組んでいるとは思えないのだ。

 現憲法に関して私が記憶している本質的な問題提起は、福田恒存が言っていた国家元首の規定の問題だと思える。
 確かに現憲法では国家元首の規定がない。国家元首は他国との条約の締結者であって、国家の最終的な権限を有している。明治憲法ではこれは言うまでもなく天皇だった。国体というのはつまり元首の規定の問題であった。国事行為は現在は内閣総理大臣が天皇に進言することで、行うことになっていることから、戦前の支配層は国体は維持されたと得心したとされる。
 戦後民主主義の課題は、だから九条の問題ではなく、私は福田恒存が指摘した国家元首の問題だと考えている。これを明確にすることによって政治の責任の所在がはっきりする。中曽根康弘氏が主張していた総理大臣公選制というのも、結局は元首の規定の問題のようにも思う。
 私は福田や中曽根氏などとは意見がことなるが、元首を明確にして、その上で九条のあり方を再規定すべきだと考える。国際間の紛争の解決に当たっては武力を行使せず、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持するという憲法の理想は、WW2後の世界情勢の要請でもあったが、世界の政治情勢如何にかかわず、主権者としての国民の願いとしてこれを明記すべきと考えるのである。【彬】

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