雪に埋もれた福寿草
各地で高齢者の車事故が起こっている。一定の年齢の達したら、免許を返上し、車には乗るなというのが風説だ。
しかし、地方に住んで、公共交通機関が不十分な場所で、車に乗るなというのは生活権を剥奪するに等しい。地方に限らない。都市部でも交通の不便なところでは、車に依存しない生活というのは考えられない。特に病気を抱えている人には、必需品だ。
こうした高齢者のために、自治体によっては、通信機器による病気診断や日用品の配達サービスなど、いろいろ試みられているのだが、決定打というには至っていないようだ。
車=自動四輪車のことを考えるとき、私は、その開発発展の方向にいくつか欠点があったのではないか、と思う。
言うまでもなく近代以降、車は馬車の代替として発展してきた。馬車というのは本来、人間を運ぶことではなく、物・荷物を運ぶことに機能があった。そのための技術改良の結果が、エンジンの高性能化、車両の大型化、すなわちトラックであった。その後、人間の乗り物として、バスや乗用車が開発されてきたが、基本は人の移動を助ける乗り物というより、貨物の移送という考えの延長線でだったと思える。その名残が、セダンとかワゴンとか、といった呼び名に残っていよう。
人間自身の移動は、自転車であった。今日、自動車と自転車は別々な発展を遂げてきているが、高齢化を迎え、これを融合する時代になったと私は思う。自転車からの視点で発展していくパーソナルな乗り物、パーソナル・ビークルが待ち望まれているように思うのである。
一人乗りで時速20キロ前後の速度を持ち、路地に自由に停車でき、買い物や通院に活用できる。安全のためほとんど自動運転になる。そのためには、専用の道路が必要になるのだろう。現在、自転車道の導入が進んでいるが、これと共用できるというものだ。
小さな子供を持つ母親たちが現在利用している3人乗りの電動自転車は、開発が中途半端なのか、歩道を走る姿は危険で危なかっしい。高齢者だけではなく、子を持つ母親にも必要なパーソナル・ビークルが待ち望まれる。【彬】