ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

自然災害と災害救助隊

2018年07月19日 | 日記

ツユクサ


 西日本一帯を豪雨が襲った。一日ではなく、断続的に数日、大雨が降り注いだため、応急の対策が取れにくく、想像以上の災害となった。報道や投稿による画像をみると、東日本の津波災害を思い起こすような凄まじい土砂の流れである。
 災害対策で特に話題になるのは、自衛隊の出動と民間ボランティアである。
 これについてはいろいろな意見が出ている。私も思うことがある。対岸のこととしてではなく、自分が災害にあった時のことを念頭に置いたうえで、重要だと思うこと2点について、意見を述べておきたい。
 ①自衛隊の出動について
 東京都内では自衛隊の車両や隊員の姿を見ることはほとんどない。私は東北大震災のとき、ボランテイア先で眼の当たりにした。そこでの印象だが、自衛隊はまさしく軍隊である。その威容は圧倒的である。隊員たちの挙動や車両、装備も、私たちの日常とはかけ離れている。軍隊は武力がすべてであるから、当然のことである。重機を繰り出し災害救助にも圧倒的な力を発揮する。
 でも、私は軍事的な力で災害に対処してもらいたくない。
 軍隊に匹敵するような災害救助隊があれば、と思う。軍隊の陸海空三軍から一部を分離して、日常的に災害救助だけを本務とする部隊に編成してほしい。私たちが消防隊員に対するのと同じような視線を向けられるような組織であってほしいと思う。
 ②災害ボランテイアで思うことは、専門職による支援だ。今日の住まいは都会であれ地方であれ、高度なインフラに支えられている。電気・ガス・上下水道・通信・交通と、私たちの日常の感覚では把握できない仕組みの中に組み込まれている。だからこれらの修復が最優先される。ゴミ等の処理は後回し。まずインフラの確保が大切である。
 こうしたインフラの修復は電力会社やガス会社、水道事業所などの企業体が素早く対処してくれているが、十分には手が回らない。特にビルや建屋内の処置までは行き届かない。それを優先して行う専門職のボランティアが必要だ。素人が処理できる問題ではない。この面の対処がどうなっているのか、情報が不足しているように思う。
 私は都内でマンション住まいだが、マンション組合の理事になって何回も何回も会合に出てはいるのだが、建物の仕組みを完全に知るまでには至っていない。
 災害時に必要なのは本当は備蓄などではなく、建物や都市の仕組みの理解である。都市の災害を行政任せにするのではなく、身の回りのインフラに気を止めることが大事なことのように思える。【彬】

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夏の蝶

2018年07月18日 | 日記

 2016年8月19日付けのブログ「何処から来た蝶?」の続きになります。

 2年前の夏、自宅近くで目撃した薄茶色の翅で、端に鮮やかな青い部分を持つ今まで見たことのない「蝶」。ことあるごとに気を付けているのだが、いまだその正体が不明の蝶の話です。

 この夏、二つの大きな昆虫の展示会が開催されている。

①    「珠玉の昆虫標本」・・・東京大学本郷キャンパス内の、東京大学総合研究博物館にて

    7月14日~10月14日。展示標本数、約4万点。

②    「特別展 昆虫」・・・上野公園の、国立科学博物館にて

    7月13日~10月8日 展示標本数、約5万点。

 ここに行けば、あの蝶の正体を知る手がかりが見つかるのではないかと、7月14日(土)に訪れた。両会場とも、多くの来場者で混雑していた。昆虫は、大人にとっても、子供にとっても大変な人気。僕も、昆虫少年の頃に戻り少々興奮した。世界中には珍しい昆虫がいるものだ。「蝶」探しは口実で内心は昆虫展に来たかったというところもある。

 ところで、僕の探す「蝶」の標本はなかった。「特別展 昆虫」のスタッフに「蝶」の絵を見せて尋ねると、「質問票を書いていただければ、研究者から回答がある場合もあります。」の返事。「この蝶の正体はいったい何なのでしょうか?」などというのは大の大人がする質問ではないので控えた。・・・それにしても、これだけの標本でも見つからないのが不思議でもある。

 2年前、あの「蝶」を見つけた時のことを思い返す。ヒラヒラと飛んでいたが、目の前の庭先に止まり、見てくれとばかりに翅を広げた鮮やかな青い色が忘れられず、しっかり記憶に留めておいた。外国種であると思のだが、何かの荷に卵か蛹で紛れ込んで日本にやってきたのだろうか。

 本当に知ろうとするなら、昆虫学会、や、蝶類学会に問い合わせればよいのだろうが、そういう性格のものではない。「正体不明」のままでいて、偶然何かの縁で明らかになるほうがドラマのようではないか。

  絵は、「珠玉の昆虫標本」展の目玉の一つ、ブータン国王から寄贈された、ブータンシボリアゲハ(左)と、僕が正体を探している「蝶」(右)

     2018年7月17日  岩下賢治

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暑さを忘れる夏の読書

2018年07月10日 | 日記

 夏の時期に少し大きな読書をするのが自分の習慣になっている。子供の頃の思い出が多いが、社会に出てからも日常から離れた本の世界に浸り、現実の世界に戻った時には、それも特に若い頃には、世の中の色が変わって見えたこともあった。それが、夏休みの読書のおおきな楽しみでした。その習慣が今でも残っている。

 今年の夏は、アンドレ・ジイドの、la porte etroite (狭き門)を読み始めている。2年前にも読んでいるが、今度はフランス語の勉強をもう少し深めようと、筋を追うよりも、文章を味わおうとしている。二度目だから少しは楽かと思いきや、かなり厄介で、むしろ時間がかかる。ある評論家は、ジイドの文は「一字一字がノミの閃き宿し、人の心の壁に刻み付ける・・・」と言う。僕も、なるほど、と思う。 

 以前もこのブログで書きましたが、「狭き門」は高校生の夏休みに読み、西洋文化に少し目を開かせたものです。今また、フランス語で読み返しながらその世界を楽しんでいるのですが、言葉の意味や、表現方法の壁にぶつかり立ち止まり、大いに汗をかいたりする。そんなことで、暑さを忘れさせてくれる。これが夏の読書の醍醐味ですね。

 絵は、主人公ジェロームの恋人アリサの顔。小説の文章から想像して描いてみた。

 Je ne revois que l’expression presque trist deja de son sourire et que la ligne de soucils,si extraordinairement releves au-dessus des yeux, ecartes de l’oeil en grand cercle. Je n’ai vu les pareils null part…si pourtant : dan une statuette Florentine de l’epoque de dante.

 ・・・私は彼女の笑顔には、すでに憂いに近い表情があり、眉毛の線が目元からかなり離れ、目の周りの大きな輪郭になっていることばかりを思い出す。このような眉毛はどこにも見たことがない。・・・おそらく、ダンテの時代のフローレンスの小像だけだろう。 

    2018年7月10日  岩下賢治

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Wサッカーの熱中と私たちのスポーツ

2018年07月06日 | 日記

     初夏のアブラチャンの実。名前の通りにみずみずしくアブラが浮いたようにキラキラしている。

 私はスポーツが好きである。見るのもするのも好きである。この1〜2週間は、Wサッカー、ウインブルドンとビッグゲームが続いて、我が家のテレビはスポーツチャンネルが独占している。サッカー、テニスだけではない。チャンネル数が増えたこともあって、毎晩、見るテレビはスポーツ番組ばかりである。
 それで思うことがいくつかあるが、特に思うのは、日本の選手ばかりではなく世界的に、スポーツの技術的レベルが格段に高度化したことであろうか。サッカーやテニスだと具体的に記述することが難しいのだが、体操や水泳、卓球、陸上などでいうと、タイムや技術レベルが相当に高度化していることなど、数値として具体的に現れていることから証明することができる。例えば体操。私の若い頃はウルトラCという流行語があったくらいに、体操競技の技術レベルの高さが話題であったことがある。しかし現今は、Cどころか、D、 E、Fまで、そのレベルまで上がっている。また、もっとも記録の出にくい陸上100メートルは人類は10秒を越えられないだろうと考えられていた。ところが今では、10秒を切らないと優勝できないレベルになっている。水泳はもっと進んでいる。
 こうした、スポーツのレベルの向上のためには、個人の能力以上に環境が大きく影響していよう。まず、取り組む練習時間量、整った練習設備、適切な指導者の存在、医学や栄養に関するサポート体制、等々。これ、いうまでもなくお金のかかる仕組みである。世界的にもスポーツの技術的レベルが向上しているのは、スポーツにかける費用が高度にレベルアップ、つまりビジネス的にツウペイする段階に来ていることを示していると思う。たとえばサッカーの場合、ヨーロッパ各国を中心としたリーグ戦があり、報酬を求めアフリカや南米の選手が集うというシステムがあることが技術の向上を支えている。
 日本のばあい、水泳は早くから学生スポーツを脱却してクラブスポーツに転換したことが今日のレベルの支えとなっている。体操や卓球ももおなじである。日本でのスポーツの普及は長く学生が担っていた。そしてその普及に果たした役割は大きかった。その代表が高校野球であった。しかしその役割は完全に終わっている。
 で、現在私たちスポーツの愛好家はなにを望むのか、ということが今日の最大の問題である。それははっきりしている。学校スポーツから脱却し市民スポーツの施設を作ることである。たしかにバブルのころ自治体はトラックや野球場、プールを作って市民スポーツの振興を模索した。しかし、それらは十全に運用されなかった。問題はなにか。スポーツを郊外のものと錯覚したからである。しかしスポーツは生活の場も中にあるものだ。各地に民営のジムが作られているが、いずれも都心型である。サッカーWカップの賑わいのなかに、街中にスポーツを楽しむ環境が是非ほしいものである。【彬】

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