夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

知床、賢者は語る・・♪  ②

2005-07-18 16:09:39 | 時事【社会】
知床では、264種の鳥が記録されているが、
その中の6種はIUCNが絶滅の危機、絶滅危急種に指定している。
そのひとつ、シマフクロウは全道で130羽いるかいないか、
知床では約40羽。
種として生き残るギリギリのレベルまで追い込まれている。

コタンクルカムイというシマフクロウのアイヌ名は、
村の守り神という意味で、かって集落の周りにごく普通にいたと考えられる。
道内各地の平地の水が緩やかで魚が豊富な川、
その回りに広葉樹の大木の林があるところに住んでいた。

和人の進出と共に、まず魚が少なくなった。
広葉樹林が開拓や天然林の人工林化により減った。
河川改修やダムにより、魚が上流にのぼれなくなった。

陸地も海も含め、知床の自然は、なんとか原生を保ってきたというけれど、
安泰ではない。

世界遺産になったからといって、
世界が守ってくれる訳ではない。
世界全体の遺産として守る責任を、我々が負う。

難しい問題は、いくつもある。
まず、持続的漁業による自然と漁業の両立。
増えすぎたエゾシカをどうするのか。
河川工作物の問題。
観光客の増加による自然破壊を防ぐ対策。

知床の自然を必死になって守ってきた歴史を踏まえると、
登録に浮かれることはできない。

わずらわしい課題を乗り越える事の大切さを
社会みんなで認識しょう、というのが、
世界自然遺産の登録の出発点だ。
      
          (聞き手・河野博子)

以上が新聞記事の全文である。


☆私のコメント☆

冷静な賢者である。

難しい課題として、賢者は幾つかを採り上げていたが、
何より、社会みんなで認識しょう、提言は謙虚な発言であり、
現在まで色々と難問を実質的に立ち会われた、と想像する。

このような経過があったから、謙虚な発言ではあるが、
我々国民のひとり、ひとりに、自覚を持って行動しなさい、
やさしく突きつけられた、と私は解釈します。

私のこの地に行く時は、自然の破壊、地元の方の生活権を踏まえて、
観光客のひとりとして訪ずれたい。
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知床、賢者は語る・・♪ ①

2005-07-18 14:48:46 | 時事【社会】
今朝の読売新聞は、知床の特集記事、を数多く載せている。
この中で、知床に関して、第一人者と思われる方の記事があった。

石城謙吉・北大の名誉教授で、
知床世界自然遺産科学委員会の委員長を兼ねている。

私の無知でも、知床の重要性が理解した。
転記させて頂きます。


知床は、流氷が来る地域としては、世界で一番南の位置する。

オホーツク海にアムール川の大量の水が流れ込む河口域で、
冬、シベリアからの冷たい高気圧に冷やされて、それが流れてくる。
流氷は、凍る時に塩分を排出するから、真水の塊。
アムール川上流の森林地帯の栄養分を含む水が、
氷の塊として、知床まで運ばれてくる。

流氷の下で、氷から溶け出す水と海水との循環により
大量のプランクトンが繁殖し、それを食べる魚介類が育つ。

それをオオワシ、オジロワシやアザラシ、トドが食べ、
川を遡上すればヒグマやシマフクロウのエサになる。

半島なので、川の水が流れ出す水源から海岸線までが非常に短い。
海底火山活動の結果、海の中から急峻な山脈が、
いきなり顔を出しているような地形だ。
海と陸の自然が、本当に狭い範囲で隣り合っている。


陸の自然は、1万3000年くらい前に続いた最後の氷河時代に
海の水位が下がり、
陸地となった海峡を動植物が渡ったため、
北と南の動物が交ざり合っている。

シカは南からのもの。
ヒグマ、クロテン、シマフクロウは北から来て、北海道止まり。
そうしう南北混交の原始的自然が、知床に残された。


私のコメントは、次回つづります。

《続く》
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女優・高橋恵子さん、知床を語る・・♪

2005-07-18 11:47:00 | 定年後の思い
今朝の読売新聞で、知床半島の特集記事、があった。
その中で、私のひそかに好きな女優・高橋恵子さんが、知床について、語っていた。

素朴で、真摯な発言に好感を持ちましたので、転記させて頂きます。

知床の玄関口に、小学校4年から、東京に引っ越した6年の卒業間際まで、住んでいました。
生まれたのは釧路の近くですが、父が酪農をやめて、生命保険の営業マンに転じ、斜里町に引っ越しました。

冬の夜には、ゴーッという流氷の音が聞こえるんですよ。
大人たちが、
「流氷が来る」と話していたので、
「ああ、これかあ」って。
見にもいきました。
分厚い氷が折り重なって。
「この氷は、どこからきたのかしら」と不思議に思いました。

知床五湖にも、親と一緒に行きました。
色々な種類の木々に囲まれて、繊細で神秘的。
湖の色も、まわりの緑が映えて、まるでメルヘンの世界でした。

冷たいオホーツクの海風。
浜辺には、アザラシが寝そべっていました。

人の手が加えられない自然には、すごく表情がある。
人間が作った公園は綺麗だけど、つまらないでしょう。

神様が作ったものの凄さが、地の果てと言われる風景がある。
それは心にあるので、精神的にはちょっと大変でも頑張れるのかもしれません。

知床には、時々行きます。
4年前には、遠くから、海岸にいるクマの親子を見ました。
親が大きな石をひっくりかえして、子グマに虫を食べさせていました。

2歳と8ヶ月の2人の孫も、もう少し大きくなったら、知床に連れて行きたい。

18歳の時、熊井啓・監督の『朝やけの詩』で、長野の農家の娘を演じました。
道路が通って観光開発が盛んになり、地元の農家の人達が離農していかなければならないという話です。
自然児で湖で泳いでいるような娘ですが、結局、故郷を離れ、家族もバラバラになってしまう。
自分の意思によるのでなく、大きな力に押され、それに抵抗できない。
理不尽なものを感じながら、生まれ育った風景がどんどん観光地化していくことに、憤りを感じている。
全国で、こういう思いをした人達は、たくさんいたことでしょう。

これからは、もっとそこに住んでいる人達と自然を大事にした観光になったらいい。

自分が住んでいる場所から離れ、色々な景色に触れて豊かになったり、やすらいだり。
観光って大切ですよね。
観光が自然を壊す、いけない、ということではなく、

地元の人達と自然、それに他から来た人達が触れ合う、

そんな方向に向かえれば、と思います。
       
          (聞き手・河野博子)

以上が全文です。


☆私のコメント☆

神様が作ったものの凄さ・・こういった思いを発露する人・・。

自然と地元、そして観光のトライアングル、
何時もの時代も難問ですが、素朴に真摯に語るこの人には、益々惚れ込んでしまいます・・。

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『東京ミッドタウン』・・♪

2005-07-18 09:55:00 | 定年後の思い
読売新聞の15日の朝刊で、
  防衛庁跡地に東京ミッドタウン
      都内一高く、2007年春開業

と見出し記事があった。

転記させて頂きます。

三井不動産は14日、国有地再開発として過去最大の規模となる防衛庁跡地(東京都・港区、10.2ヘクタール)の再開発計画の概要を発表した。

同社や積水ハウスなどの共同企業体が約3800億円かけて、
都内で最も高い54階建て(248メートル)の超高層ビルなど、
5棟の複合ビルを建設する。

名称はニューヨークのミッドタウンにちなんで、
「東京ミッドタウン」とする。

複合ビルには、オフィスやむ商業施設、賃貸マンション、ホテルなどが入り、
2007年の春に開業する。

既に、アメリカ高級ホテルのザ・リッツカールトンの進出や
サントリー美術館の移転、
富士フジフィルムや富士ゼロックス、ヤフーの入居が決まっている。

以上が記事の全文です。


私は昭和46年春から平成4年春まで、
六本木にある会社に通勤していた。
この六本木のはずれに、防衛庁があった。

六本木の地下鉄の駅を出ると、四丁目の交差点があり、
ここから二百メートル前後に東西南北に小さな複合ビルが立ち並びんでいた。

この繁華街のはずれに防衛庁があったので、何となくとりとめのない感じを持った。
防衛庁の塀は、やすぽいコンクリートで囲みを造り、正門は頼りのない感じであった。
最初、この正門を通った時、昭和35年の安保闘争の時、全学連等のデモ隊が押し寄せた場所だったか、
と考え深げであった。

退社後、地下鉄の駅に向かうと、繁華街を目指した人々とすれ違った。
ビジネスマンは少なく、遊びに来ている人のほうが圧倒的に多かった。

この繁華街のはずれに防衛庁があったので、誰しも違和感を持っただろう・・。

その後、地下鉄の千代田線が開通となり、『乃木坂』駅が出来て、この駅から防衛庁を通り、
四丁目の交差点までの大通りに客足が増えた。
確か昭和57年前後だった。
防衛庁も塀、門扉を一新し、こぎれいになった。

私は退社後、この通りを歩いて『乃木坂』に向かった。
途中、黒人兵が日本の若い娘と腕を組んだり、若い娘のグループ、
そして三十前後のご婦人のノーブラに見惚れたりしていた。

その後、ディスコ・ブームとなり、
六本木の繁華街は益々大人のおもちゃ箱をひっくり返したの様に、活気と喧騒につつまれていた。

しかし、この大通りの二百メートル前後の防衛庁だけは、いつもひっそりしていた。

その後、市ケ谷にある自衛隊の基地に移転したが、
この跡地から江戸時代の小判が出てきた、と風のうわさで聴いた。

私は長年この防衛庁の前を通り過ぎたので、なつかしく綴った次第です。

私は、この「東京ミッドタウン」が開業しても、行かないだろう。
あの時代の空気を知っているひとりとして、想い出を大切にしまっておきたいから・・。


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