《非常にアメリカナイズされたイメージを持つ歌のカテゴリーとして、
【Jポップ】という言葉が出来たのが、バブル真っ只中の1988年。
題名も歌詞も芸名もアルファベットやカタカナが急増すると同時に、
レコード類の生産額は1998年、6000億円を超えてピークに。
1990年に3枚だったミリオンセラーCD(アルバム)は、
1999年に30枚に達した》
歌謡曲の中で、生き残るのは、演歌くらいでしょう。
どろどろの演歌も、日本の文化ですから、これはあっていい。
アメリカ直輸入型の音楽もあっていい。
しかし、かっては、真ん中に、西洋音楽の感覚を基礎にしながら、
日本の叙情を含んだ詞で、新しいジャンルを作った歌謡曲の本流がどーんとあった、
沢田研二もいれば、山口百恵もいる。
皆、そこへ入ってくる。
詞も読ませる、曲も聞かせる、という、
僕等が自信を持って絶対だと思っていたこの真ん中が、
なぜかスポーンと抜けてしまった。
分りません、これだけは。
昭和は、歌謡曲の時代だった。
僕は、歌謡曲とは、飢餓と憧憬だと思います。
心の中の飢えと、その飢えゆえにあこがれるものが歌謡曲となり、
時代の飢餓感に命中した歌がヒットした。
そうした歌が次々に生まれ、百花繚乱の時代になったのが、
僕が詞を書きまくった70年代です。
私のコメントは、後で綴ります。
《続く》
【Jポップ】という言葉が出来たのが、バブル真っ只中の1988年。
題名も歌詞も芸名もアルファベットやカタカナが急増すると同時に、
レコード類の生産額は1998年、6000億円を超えてピークに。
1990年に3枚だったミリオンセラーCD(アルバム)は、
1999年に30枚に達した》
歌謡曲の中で、生き残るのは、演歌くらいでしょう。
どろどろの演歌も、日本の文化ですから、これはあっていい。
アメリカ直輸入型の音楽もあっていい。
しかし、かっては、真ん中に、西洋音楽の感覚を基礎にしながら、
日本の叙情を含んだ詞で、新しいジャンルを作った歌謡曲の本流がどーんとあった、
沢田研二もいれば、山口百恵もいる。
皆、そこへ入ってくる。
詞も読ませる、曲も聞かせる、という、
僕等が自信を持って絶対だと思っていたこの真ん中が、
なぜかスポーンと抜けてしまった。
分りません、これだけは。
昭和は、歌謡曲の時代だった。
僕は、歌謡曲とは、飢餓と憧憬だと思います。
心の中の飢えと、その飢えゆえにあこがれるものが歌謡曲となり、
時代の飢餓感に命中した歌がヒットした。
そうした歌が次々に生まれ、百花繚乱の時代になったのが、
僕が詞を書きまくった70年代です。
私のコメントは、後で綴ります。
《続く》