夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

阿久 悠・氏から影響を受けた曲・・♪

2005-07-13 15:10:38 | 音 楽
昨日より、『歌謡曲、百花繚乱70年代・・♪』を綴っているが、
阿久 悠・氏の作品より、私が色々と思索する際、影響を受けた曲を
列記してみます。

年代    作品名              唄 
1970 『ざんげの値打ちもない』   北原ミレイ
1971 『また逢う日まで』      尾崎紀世彦  
1972 『あの鐘を鳴らすのはあなた』 和田アキ子
     『どうにもとまらない』    山本リンダ 
1973 『若草の髪飾り』       チェリッシュ
     『ジョニーへの伝言』     ペどロ&カプリシャツ 
     『みずいろの手紙』      あべ静江
     『冬の旅』          森 進一
1975 『北の宿から』        都はるみ
1976 『津軽海峡・冬景色』     石川さゆり
1977 『思秋期』          岩崎宏美
1978 『たそがれマイラヴ』     大橋純子
1979 『舟歌』           八代亜紀
1980 『雨の慕情』         八代亜紀
1985 『熱き心に』         小林 旭
1992 『三都物語』         谷村新司

思いつつままに列記しましたが、
フィンガー5、沢田研二、西城秀樹、ピンク・レディの一連のヒット曲は
私の感覚と相違がありますので、あえて外しています。

この時代に於いて、この作詞家は殆んどの歌手に提供していますが、
不思議と山口百恵とは縁がなかったようです。

それにしても、これだけでも書き分けられる作詞家に敬意致します。
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歌謡曲、百花繚乱の70年代・・♪  ④

2005-07-13 12:35:59 | 音 楽
私は大学を二年で中退した後、シナリオの養成所に通いながら、
映画青年のまねごとをしていた。
映画界の行き先に憂い、個人業で創作ができる小説の習作に励んでいた。
先生の契約している月刊誌の取材をし、下書きをしていたりしていた。

その後、警備員のアルバイトをしながら、習作をしていたが、
先の見えない生活に私自身も不安だった。

社会人として、やり直しをする為に、コンピューター専門学校を
一年間で卒業した後、近所の方の紹介で、大手の音響映像メーカーに
入社できた。

昭和45年4月で25歳の時でした。
その年の十月中旬で、ラジオから聴こえてきた曲に、
桁外れな作詞をする人もいる思い、レコードに行った。

17CMのレコードのシングル盤のジャケットには、
劇画家・上村一夫・氏が印象に残る絵を書いた。

この曲は『ざんげの値打ちもない』であり、作詞家の阿久 悠・氏との出会いであった。
その後、この曲以前に、森山加代子『白い蝶のサンバ』に書いたことも知った。

この作詞家は、翌年の春、尾崎紀世彦の『また逢う日まで』で、
私はこの作詞家の才能に注目した。
これだけジャンルを書き分けられる才能に、動顚した・・。

昭和47年頃にこの人の『作詞入門』の新刊本を買い求めた。

その後もこの作詞家は、数多くのジャンル書き分けて、ヒットさせて、
国民の多くに知らしめる足跡を残した。
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今、夢中になっていること・・♪

2005-07-13 11:29:00 | 定年後の思い
読売新聞の朝刊で、『時代の証言者』の特集連載記事があるが、
昨日より、作詞家・阿久 悠・氏を連載開始した。

私はレコード会社に入社のが、昭和45年であったので、この人から色々と思索上、影響を受けた・・。

こうした思いがあったので、私の別日誌『続・極楽とんぼ』に綴り始めた。

あの昭和という時代に想いを馳せながら・・。
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歌謡曲、百花繚乱の70年代・・♪  ③

2005-07-13 11:19:08 | 音 楽
作詞家を本気でやっていこうと思ったのは、
1970年の『ざんげの値打ちもない』からです。

タブーに挑戦して、歌謡曲の持つ架空の幸福感を突き破りたい、
と思ってたんですが、ヒットもしたし、
歌謡曲としては珍しくマスコミなどで作品論が展開された。

「あれは二月の寒い夜 やっと十四になった頃」で始まり、
「細いナイフを光らせて」、
捨てた男を殺すが19歳。
当時の感覚では、年齢が数歳若過ぎたでしょう。
殺人も当然、タブーです。

《阿久は、1973年のエッセイ集『時にはざんげの値打ちもある』でこう書いた。
「人々は、テレビのイメージ催眠で幸福にさせられているのではないか」
「テレビを持たない人々、見ない人々の仲から、
幸福や不幸を見つけたいと考えていた」》

放送作家をやっていたけれど、テレビが嫌になつていたんでしょう。
日本中、同じものを見ているなんて、気持ちが悪いって、
そろそろ思い始めていたから。

歌った北原ミレイは新人でしたが、歌唱力があるので自由に書いてくれ、と言われた。

1970年は、日本人が貧しさのトラウマから逃れた年なんです。
カラーテレビもある、
マイカーもある、
万国博も開いてます、
オリンピックも6年前にやりました、と。

日本人は貧しい貧しいと教えられてきたのが、
やっと貧しさから脱出した年てはあった。
ただ、脱出し切れない人も、脱出を拒む人もいるだろう。

《1970年、日本の人口が1億人を超える。
NHKのむ調査では、この年の家庭婦人のテレビ視聴時間は、
1日平均4時間半。
大阪・万国博には、ケンタッキー・フライドチキンが登場した》

この作品は、ポルトガルあたりで、石畳の坂道を黒い服の女が上がって行く、
というイメージだった。
それが、歌を聞いて色々な人が送ってくれた絵は、
四畳半に裸電球がぶら下がって、ラーメン丼が重ねてある、というのばかり。
けど、だから売れたのかな。
時代の虚偽を衝いたんでしょう。

僕が出入りしていたテレビ局の近くだって、
路地に入ると、じめじめした貧しい所がいくらでもあった。

作詞を始めたのは1965年ですが、
1970年は決定的でした。

森山加代子に書いた『白い蝶のサンバ』が字余りソングなんていわれながらヒット、
次いで和田アキ子の『笑って許して』、
西郷輝彦の『真夏のあらし』、
そしてこの歌。

何を書いてもいい、とわかったんです。

以上、読売新聞の記事よりです。

私のコメントは、次回に綴ります。

《続く》
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私の偏見・・♪

2005-07-13 08:44:00 | 定年後の思い
東京の郊外は、20度の気温で、日中の最高気温は23度程度で、五月の中旬頃の気候である。
昨日に続き、梅雨寒の一日になりそうです。

昨日のニュースで、文化庁が言葉の使い方の調査を報じていた。

私は、ここ十数年に気になる言葉がある。

★はまる

若い人が使うのは、言葉の感性が乏しいと苦笑するが、
少なくとも40歳以上の人達は、いかがなものかしら、と思っている。
この言葉は、江戸時代以来、枕詞に近いものと男女間の会話と、私は思っている。

夢中になっている。
熱中している。

少なくとも、ある程度のお年の方は、使って頂きたい。

反論される方の多くは、流行している言葉を使わないと、時流から取り残される、と危惧し、
あえて使っている方も見られる。

言葉は時代を写す鑑(かがみ)と称されるが、日本の美しい言葉あるのに、乱れるほうが恐い。

★ムカツク

同様である。
このような言葉を相手方から、聞いた時、私の方が嫌な感じを感じる。
私の現役時代に、職場で若い方が使っていて、感性の乏しい人、と感じた。

言葉は、貧富の差とか社会の地位とかは関係なく、その方の人格を表します。



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