先程、ときおり愛読している公式サイトの【 AERA dot. 】を見ている中、
『 おもしろい人生に昼寝は大事? 95歳の賢人が説く「5つのヒント」 』
と題された見出しを見たりした。
私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活のまもなく75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけ家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、 程ほど貯金を取り崩しながら、 ささやかに過ごしている。
こうした中、過ぎし年に民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職したが、
この間、幾たびのリストラの中、 何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、 あえなく出向となった。
そして遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、 定年後はやむなく年金生活を始め、早や15年目となっている。
年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。
このような深情を秘めた私は、《・・おもしろい人生に昼寝は大事? 95歳の賢人が説く「5つのヒント」・・》って、
どのようなことですか・・と思いながら、好奇心に負けて、記事を精読してしまった。
この記事の原文は、『週刊朝日』の2019年9月27日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の公式サイトの【 AERA dot. 】に9月23日に配信され、無断であるが転載させて頂く。
《・・おもしろい人生に昼寝は大事? 95歳の賢人が説く「5つのヒント」
外山滋比古さんの新刊『老いの練習帳』(朝日新書)が売れている。
大正生まれの知の巨人が伝授する「老いのコツ」とは・・・。外山さんに聞いた。
* * *
この一冊を読めば、「人生の歩き方」が見えてきます。
──巷では「長寿のリスク」なんて言われていますが、そんな思考は、捨てたほうがよさそうですね。
そのとおりです。
定年後の人生をおもしろくするには、常識とか知識に縛られない「思考」が大事。
リスク回避ばかり考えるなんて、ナンセンス。
人間、嫌なことは、知らないほうがいい。
運悪く知ってしまったら、忘れるが勝ち。
「忘れる」のは、ちっとも悪くない。
むしろ「やりすごした」、「乗り越えた」わけですから、頭のゴミ出しです。
嫌なことをこうして乗り越えるときに、新しいエネルギーが湧いて、人間は元気になれるんです。
──元気になるためにも、「どんどん忘れる」のがいいのでしょうか。
はい、忘れなければ、危険です。
忘却という頭の整理は、生存のための大事な能力です。
よく整理された頭は、活発に働き、新しいものを取り入れる力も、高まります。
これを「未来形の頭」と私は呼んでいます。
自分の頭を未来形にすれば、明日は何が起きるだろう? とワクワクしてくる。
そのとき、オドオドと未来のことを考えないために、課している習慣が、「ゆっくり急ぐ」。
これが、私が常々言っていることです。
──ゆっくりなのに急ぐ、とは、どういうことですか。
要は、生活のリズムに緩急をつけるということです。
私は昔からことわざが好きなのですが、「田舎の学問より、京の昼寝」というのがあります。
あることわざ辞典には「田舎で勉強するより、都がいい。
ただそこにいるだけで、いろんな知識が身につく」などととんでもない間違った解釈が載っていたのですが(笑)、
そんなつまらない意味じゃない。
これは、「ゆっくり急ぐ」と同義で、
「一本調子ではなく、緩急のリズムをつけることが、生活には大事である」という意味。
つまり、一心不乱に勉強する田舎「モノ」より、
勉強の合間に、昼寝をする気持ちのゆとりがある都「ビト」のほうが、成果が出るという教訓なんです。
「急げや急げ」の一点張りじゃ、休むこと(昼寝)に罪悪感が生まれてしまう。
──急ぐために、昼寝をするのですね。
そうすれば、自分のリズムが生まれてきます。
一日一日の時間が、もってこいの練習時間になる。
生きるにつれ、自分の頭ができてくる。
その頭で世間を見れば、他人にふり回されなくなります。
自分の人生は、自分のもの。
他人の人生を生きる必要はありません。
──自分の頭ができてくるとは?
昼寝をしながら考えてみれば、本当に自分が共鳴できること、
自分の波長に合ったメッセージを発見できるんです。
頭の中で、自家製の新しい辞書をつくるような感覚で、実践すると楽しいですよ。
新聞も読みようによっては、人生学校のテキストになります。
週刊朝日を読んでいらっしゃる方なら、朝日新聞も長年購読されていると思います。
とにかく全ページ、意識して読んでみてください。
わからないところも読む。
これ、かなり、苦行ですよ(笑)。
記事のどれか一つは、必ず最後まで読み切る。
手を動かしたくなったら、切り抜く。
袋に入れておくだけでもいい。
読んだ、という目に見える成果が生まれますからね。
興味がなくても、わからなくても、遠いニュースでも、読む。
そうすると、早い人なら1週間ぐらいで、モノの見方が少し変わってきます。
──新聞から自分の思考・頭が見えてくる?
自分が何を「おもしろい」と思うか、今までよりハッキリしてくる。
これが、授業や試験のない、自由時間を生きる大人の醍醐味です。
こうして独自の老人ができあがる。
朗らかな老人であれば、なおさらいいですね(笑)。
──それが老いの秘訣?
老人が自分の頭で考えて活力をもち、元気にその日を過ごすことができれば、
それだけで大きな社会貢献です。
今は、医療が発達して、高齢を迎えることが可能になった時代。
いにしえの人々が、さぞ憧れた世の中でしょう。
そこに我々はいるんです。
くよくよしないこと。
そして、恐れないこと。
今日という日は、全人類誰にとっても前人未到の一日なのですから。
外山さんが『老いの練習帳』にまとめた47の日常作法から5つを選び、
外山さんの解説付きで紹介します。
■散歩のときには、古歌の暗誦をすべし。
「ただの散歩では、おもしろくないので、あるとき、“五体の散歩”というのを思いついたんです。
足のほか、手、口、耳目、頭の五つをすべて動かすんです。
やってみると、たいへんおもしろく、散歩の習慣もしっかり身につきました。
ぜひやってみてください。
その一つ、口を動かすには、古歌の暗誦が歩くリズムにもたいへんよく合う。
『あかねさす紫野ゆきしめ野ゆき野守は見ずや君が袖ふる』というふうにね」
■手ぶらで歩くべし。
「人間の手が、足の変化したものだとすると、大きなものをぶら下げることが、
いかに理に反することか、考えるまでもありません。
大きな荷物を持って歩くことが、体にいかに影響を与えているか、
人間はまだ十分に知らないままです。
できるだけ、手ぶらで。本気になれば、たいていのものはいらなくなります」
■たまには土の上を歩くべし。
「土の上には、たいてい木があり、うまくいけば森になる。
森の中を歩くと、まったく知らなかった意識が、目を覚ますことがあります。
特に、目や鼻や耳。舗装道路の上を歩いているだけでは、動かなかった感覚が動き出すのです。
旅先を選ぶ条件に、森歩き。
おおいに贅沢な練習といえるでしょう」
■病気の回復を楽しむべし。
「病気にかかって、イライラしてしまえば、心理的にも病に負けたことになってしまう。
ひとときは、病気とつきあう覚悟をするのが得策。
思い切って、静養する。
そして、回復の過程を体と精神双方で思い切り味わいましょう。
少々年を取っていても、病気の回復期には、青年期のような希望と爽やかさを感じられることに気付きますよ。
なんともいえない活力を楽しめます」
■人生は、雑然たるところが強み。
「年を取ってくると、人はだんだん潔癖さを求めてしまう。
己を貫く、といった優等生的な潔癖さです。
でも、これは、結果的に自分を弱めてしまう危険な頑固さになりかねない。
いいことばかりしていたら、人間はダメになります。
思考という点においては、人は自由なのです。
私が好きなのは、“平和的なケンカ”。
頭の中で一方的に、許せない人と絶交する。
『これは許せない』と思ったら、それまで数々の思い出があったとしても、縁を閉じる。
相手は気づかなくて、手紙を送ってくることもありますが、いっさい返事をしない。
こうした自分の“悪人”たるところを自覚すると、
多少なりとも頭に緊張感が生まれ、毎日が味わい深くなります。
混ざりものがあるからこそ強くなるのは、人間も金も同じなんです。
24金の純金より、耐久性のある18金のほうが、さまざまな生かし方があるように」 (構成/本誌・大崎百紀)・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は若き20代に、外山滋比古(とやま・しげひこ)さんの『日本語の個性』(中公新書)を購読した記憶はあり、
確かこの当時は、お茶ノ水女子大学の教授もされて、もとより博学の御方である。
今回、改めて外山滋比古(とやま・しげひこ)さんの「人生の歩き方」を説く「5つのヒント」の御高説、
つたない人生航路を歩んでいる私は、多々教示させられたりした。
私は「5つのヒント」の前に述べられた幾多のことに、そうでしたか・・と瞬時に魅せられて、
人生の確かな微笑みを頂いたりした。
この後の「5つのヒント」に関しては、つたない素養しかない私は、微苦笑させられて、
自身を恥じたりした・・。
たとえば『 散歩のときには、古歌の暗誦をすべし。 』の時、
博学の氏は、万葉集の一首を脳裏に浮かべて、呟(つぶや)いておられるが、
何かと無学な私は、氏とは月とスッポンかしら、と微苦笑したりした。
我が家の家内は、私のことを日頃の多くは、『あなた・・』 と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで 『XXクン・・』 と苗字で呼ぶこともある。
そして年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』 と家内は笑いながら、私に言った。
この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、 ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。
このような私たち夫婦でも、いつの日にか、命果てるまでの残された歳月は、
何かとプラス思考の私でも、自助努力も大切であるが、こうしたことは神様が仏様の采配に寄ると思われ、
この先いつまでも慎(つつ)ましながら、生活ができますように、と念願する時もある・・。
私は、散策したりする時、ときおり心の中で唄ったり、人影の少ない道などで、
♪君と好きな人が 百年続きますように・・
一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を、かぼそい声で唄ったりして、 早や15年の月日が流れている。