先程、パソコンを立ち上げて、ヤフー・ジャパンのライフ記事を見ている中、
『 郊外百貨店「団塊世代と共に去りぬ」 9月30日で伊勢丹相模原店・府中店が閉店 』
と題された見出しを見たりした。
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活のまもなく75歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で築後40年が過ぎた古ぼけた一軒屋に住んでいる。
そして今住んでいる処は、私の生家も近くにあるので、
私自身としては結婚前後の5年を除き、 この地域に住んで、早や69年近くとなっている。
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。
いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、
たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、 電車を利用すれば、
我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、 或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。
こうした中、都心の新宿にある『伊勢丹』、『小田急』、『京王』デパートに、
年に数回は買い物に行ったりして、50年は過ぎている。
或いは親戚とか知人が、京王線の郊外に住んでいる関係で、府中にある『伊勢丹』デパートを、
少なくとも10数回を利用してきたので、
今回の《・・9月30日で伊勢丹・府中店が閉店・・》に、驚いたりしている。
このような心情を秘め、時代の変貌に愛惜を重ねながら、記事を精読してしまった・・。
この記事は、ファッション業界の週刊情報誌として名高い『 WWD 』の公式サイトより、
2019年9月24日に配信され、無断であるが転載させて頂く。
《・・郊外百貨店「団塊世代と共に去りぬ」 9月30日で伊勢丹相模原店・府中店が閉店
伊勢丹相模原店(神奈川県)と伊勢丹府中店(東京都)が9月30日で営業を終える。
両店をはじめ、百貨店の閉店で近年目立つは、東京のベッドタウン立地である。
都心店は、富裕層や訪日客の旺盛な購買力に支えられている。
一方、郊外店はそれらの恩恵は少なく、大型ショッピングセンター(SC)や
ネット通販(EC)に客を奪われ続ける。
さらに主力顧客である団塊の世代の先細りが追い討ちをかけた。
9月中旬、伊勢丹相模原店の建物には「29年間のありがとう」の垂れ幕が掛けられ、
店内は閉店セールでにぎわっていた。
正面入り口では、記念オブジェの前で撮影する人の姿が絶えない。
オブジェはアルファベットで「ISE AN」となっており、
隙間に人が立って両腕を水平に伸ばして「T」の字を作る。
孫を撮影していた60代の女性は
「私が相模大野に引っ越した年に開店したので、それ以来ずっと通ってきた。
家族との思い出もある店なので寂しい」と話した。
相模原店は、1990年9月に小田急線相模大野駅の南口再開発によってオープン。
翌1991年には、ドラマ「デパート!夏物語」(TBS系列)のロケ地になった。
高嶋政宏演じる新人デパートマンの奮闘を描いたこのドラマでは、伊勢丹相模原店が実名で登場した。
ドラマは3度シリーズ化され、同店の名前は全国にも知られるようになった。
今振り返れば、ドラマの放送が始まった1991年は、
百貨店の市場規模が9兆7130億円とピークを迎えた年だった。
それが直近の2018年では、5兆8870億円と約4割も縮小している。
相模原店の売上高は、1996年度の377億円がピークで、2018年度は187億円と半減。
長らく赤字に歯止めがかからず、再建が困難と判断された。
1996年開業の伊勢丹府中店も、ほぼ同様の理由で閉店が決まった。
☆"首都圏の閉店の大半はベッドタウン立地"
2016年以降、首都圏で閉店した百貨店は、下記の通りである。
西武春日部店(埼玉県、ロビンソン百貨店春日部店として1984年開業)、
西武筑波店(茨城県、1985年開業)、
そごう柏店(千葉県、1973年開業)、
三越千葉店(千葉県、ニューナラヤとして1972年開業)、
三越多摩センター店(東京都、多摩そごうとして1989年開業)、
西武船橋店(千葉県、1967年開業)、
西武小田原店(神奈川県、ロビンソン百貨店小田原店として2000年開業)、
伊勢丹松戸店(千葉県、1974年開業)。
そして今月30日に伊勢丹相模原店と同府中店が閉店し、
来年3月末には東急東横店(東京都、1934年開業)も事実上の閉店(食品売り場は継続)を迎える。
渋谷駅の再開発に伴って、姿を消す東急東横店を除けば、
ほとんどが郊外のベッドタウン立地である。
戦前からの老舗というよりも、高度成長期からバブル期にかけて、
都内に通勤する人の流入で、人口が急増したエリアに相次いで誕生した百貨店だ。
これらの百貨店の最大のターゲットは、
家庭を持って郊外にマイホームを構えた団塊の世代(1947~1949年生まれ)だった。
日本の百貨店は、豊かな中間層を呼び込むことで発展した。
1970~1980年代は、今日より明日が豊かになれるという希望を国民が抱き、
年功序列や終身雇用といった日本的経営がそれを下支えした。
そのアッパーミドル消費をけん引したのが、団塊の世代だった。
彼らが家庭を持ち、消費が最も活発になった時期が、百貨店の絶頂期と重なる。
だが、バブル崩壊による平成不況とデフレの長期化で潮目が変わる。
特に郊外の百貨店は、1990年代にロードサイドに急増した「ユニクロ(UNIQLO)」、
「洋服の青山」、「ニトリ(NITORI)」、「ヤマダ電機」、「トイザらス」などのカテゴリーキラー、
あるいは大店法の廃止によって、2000年以降に急拡大した大型SCに客を奪われた。
そして、昨今はこれにネット通販(EC)の台頭も加わる。
頼みの綱である団塊の世代の消費も、次第に減退してきた。
団塊の世代は、現在70~72歳。
比較的お金に余裕がある世代とはいえ、ライフステージとして消費の先細りは否めない。
団塊の世代は、人口ボリュームもさることながら、百貨店に強い親近感を持っているのが特徴だ。
依然として中流意識が強く、百貨店が提案する高品質な商品やサービスに対価を払える経済力があった。
衣料品や食品、日用品、中元・歳暮などで、郊外の百貨店にお金を落としてくれた。
彼らの子供世代で、やはり人口ボリュームの大きい団塊ジュニア(1971~1974年)が、
次の顧客になってくれれば、先行きの見通しが立つ。
しかしこの世代の消費は、親世代とはかなり異なる。
中流幻想は崩れ、欧米並みに所得の二極化が進んだ。
40代半ばになった団塊ジュニアは、なかなか百貨店に来てくれない。
あるいは郊外の百貨店の品ぞろえでは、満足せず、品ぞろえが豊富な都心の大型百貨店に向かう。
今年2月に亡くなった作家・堺屋太一氏が名付けた団塊の世代は、
ファッション、クルマ、住宅、家電、食品、子育て、海外旅行、ゴルフなど戦後のあらゆる消費をリードする存在だった。
団塊の世代の消費の高まりによって誕生した東京郊外の百貨店の多くは、
彼らの高齢化に伴い、その役割を終えようとしている。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
何かと私は、私より少し若い団塊世代の人々に対して、知人、友人が多いので、何かと注視してきた。
私が25歳の時に、民間会社に中途入社できたのは、1970年(昭和45年)4月であり、
やがて私が職場の机で隣接したのは、大卒で入社された一年生の団塊世代が多く、
この後もお互いに業界、社内の空気を長らく共に苦楽を重ねてきた・・。
そして私の妹ふたりは、1947年(昭和22年)1月、そして1948年(昭和23年)10月の生まれであり、
家内は1949年(昭和24年)12月の生まれであり、
兄ふたり妹ふたりの間でサンドイッチのように育成させてきたので、
何かと幼年期から今日まで、団塊世代の情況は、 理解しやすいひとりとなっている。
こうした中、デパートでの買い物は、現役サラリーマン時代に於いて、何かと利用してきた。
たとえば20代の頃の独身時代の頃から、スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、通勤靴、通勤バックなどを買い揃えたり、
やがて買い改めてきた。
そして30代の初め、結婚すれば、御中元、お歳暮なども増えたりしたが、
殆どは都心のデパートで買い求めてきたが、
定年後に多々の理由で年金生活を始めると、少し高価な衣服は買い求めるのが減っている。
そして国内旅行が増えて、フィールド・ジャケットなどアウトドア専門店で買い求めることが多く、
デパートでの買い物額が減少している。
今回、デパートの郊外店の数多くの閉店、そしてデパート全般の衰退を学び、
時代の変貌、過ぎし自身を思い馳せ、あの頃は華やかで・・到来する明日にまぶしさを感じながら、
良き時を過ごせたよなぁ・・と愛惜を重ねたりしている。