夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

小林亜星さん、御自身の人生「なんでもアリの時代。テレビは文化だった」、私は学び・・。

2021-06-15 16:12:39 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住んでいる年金生活の76歳の身であるが、
昨夜、小林亜星(こばやし・あせい)さんが5月30日、
心不全のため東京都内で死去していたことが14日、分かった。88歳だった。
とテレビのニュースで報じていた。


私は小林亜星さんには、お逢いしたことはないが、
作曲家として都はるみさんが唄われた『北の宿から』など、
CMソングも日立の《・・♪この木なんの木・・》など、
多彩な作曲された御方であったりした・・。

その上、テレビの
ドラマ『寺内貫太郎一家』に主演され、
多彩に御活躍された御方であったりしたが、
私はこの御方の人生航路は、未知であったりした・・。

このような心情を秘めていた私は、
ときおり愛読している公式サイトの【 AERA dot. (アエラドット) 】に於いて、
『 「なんでもアリの時代。テレビは文化だった」と語る小林亜星の人生 』、
と題された見出しを見たりした。



この記事は、『週刊朝日』に於いて、
もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。
ひょんなことから運命は回り出します。
人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、
できたはずのことがあるのではないでしょうか。

昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、
「もう一つの自分史」を語ってもらいます。

このような連載記事で、2018年9月28日号に於いては、
作曲家の小林亜星さん・・聞き手/浅野裕見子さんの記事となっていた。

私は小林亜星さん御自身が発露された人生航路を学びたく、
精読してしまった。

この記事は、『週刊朝日』に2018年9月28日号に掲載され、
関連の【 AERA dot. (アエラドット) 】に於いて、



《・・小林亜星(こばやし・あせい)さん/作曲家。
1932年、東京生まれ。数々のCM曲、主題歌、流行歌の作曲、作詞を手掛ける。

72年、「ピンポンパン体操」(71年)が200万枚を超す大ヒット。日本レコード大賞童謡賞を受賞。
76年、都はるみ「北の宿から」(75年)で日本レコード大賞を受賞。
クラシックからジャズ、ロック、演歌まで多彩に活躍中。

*  *  *

高校(旧制慶応義塾普通部)の同じクラスに、
冨田勲君(作曲家)と林光君(作曲家)がいたんですよ。

作曲家になったやつが、同じクラスに3人もいたなんて。変なクラスだよね。
休み時間になると3人で音楽談議。

コーラスの曲を作って文化祭で発表もしました。結構評判がよくてね。
それが悪かったんだな。気分良くてね。味をしめちゃった。



――日本レコード大賞を受賞した都はるみの「北の宿から」をはじめ、
小林亜星の曲を一曲も知らないという人は、いないだろう。
意外なことに、作曲家になる一本道を歩んできたわけではなく、何度か横道にそれた。



うちは祖父が医者だったから、大学は医学部へ行けと。
ろくに勉強もしない落ちこぼれだったから、大変ですよ。

大学は高校3年のときの成績で進路が決まるんです。
それで1年間猛勉強。進学試験のとき、15分ぐらいで答案を書き上げて教室を出ちゃった。
勉強しすぎちゃったんだな。

背中に同級生のため息を聞きながらね。まったく嫌みなやつだよね(笑)。


それで医学部へ入ったはいいけど、もう俺はやることはやった、
っていう気になっちゃってね。

ところが、大学の医学部っていうのは、いろんなところから頭のいい人がきている。
まるで太刀打ちできない。


1、2年生の教養課程のうちは、医学的な授業もないし、
好きな音楽ばっかりやってました。

子どものころ、木琴を習ってましてね。
それを生かして、ビブラフォンを演奏して、ジャズバンドを組んだ。


そのころ、朝鮮戦争が勃発。
朝鮮半島で戦ってきた米軍兵たちが、休暇になると、日本の基地まで引き揚げてきて、
疲れを癒やすんですよ。

おかげで基地内のナイトクラブは、大忙し。
僕たちみたいなへたくそなバンドでさえ、引く手あまたでした。

横浜にWAC、Women’s Army Clubっていうのがあったんです。
軍属の女性専用のクラブで、お客さんのほとんどは従軍看護婦だったな。
あとは軍人の奥さん方ね。

そこの専属バンドになっちゃって。
サラリーマンの初任給が8500円ぐらいの時代に、
一晩で3千円もらえたんですよ。


結局、途中で学部を変わってね。
経済学部に移って、卒業するまで親にはバレなかったな。



――やがて朝鮮戦争は休戦。バンドもジャズも、廃れていったという。
  世の中の景気は後退し始めていた。


すごい就職難でね。
一度は入れるところに、就職したんです。
製紙会社の営業マンになりました。


営業っていったって、何の苦労もなかったんです。
1950年代は、三白景気っていってね。
三つの白いもの、硫安(硫酸アンモニウム=肥料)、砂糖、そして紙。

これが不足していて、何しろ作るそばから奪い合い。
営業は「ちょっと待ってください」っていうのが、仕事だったんです。

楽だったからってわけじゃないけど、営業の仕事は意外と向いてましたね。
やってみて、あ、この仕事好きだなぁって思った。


でもね、どこか自分の人生じゃない気もしていた。
仕事をしながら、頭の中は音楽のことばっかりなんです。
まったく失礼な話だよね。



――結局、ひと月も続かず、会社を辞めた。
  音楽のプロになるため、国立音楽大学教授を務めた服部正氏の門をたたいた。


服部先生は当時、ダークダックスの曲を作曲・編曲してらっしゃって、
僕たち弟子も、そのお手伝いであちこちの放送局へ出入りするようになったんです。
最初はNHKだったな。


今と違って、外部の人間が、いつでもふらっと入っていけましたからね。
「こんちはー! 何かお仕事、ないですか?」って。

そうすると「あ、頼みたい!」とか「おーい、回せる仕事ない?」なんてね。
当時は、まだラジオが主流で、音楽番組は大人気でした。
音楽番組をアレンジャーとして、担当するようになりました。


NHKテレビの実験放送で、
藤城清治さんの影絵のバックで演奏したこともあります。

当時は収録なんてありませんから、影絵も演奏もすべて生。
一度なんて、木の上の妖精がラッパを吹くシーンで、
トランペッターがミスって、音が出なかったんですよ。

そしたら藤城さんが怒って裏へやってきて、そいつの頭をぽかっ! 
今度は楽団みんなが怒って、仕事をボイコットして帰っちゃった。
無音になっちゃってね。
実験放送とはいえ、立派な放送事故だよね。




――テレビの普及とともに、アレンジ(編曲)の仕事は、
  民放からも舞い込むようになり、多忙を極めた。

だが、そこでアレンジの仕事をやめるという大英断を下す。
それが、作曲家の道への転機となった。


仕事はたくさんあるけれど、どれもこれもアレンジの仕事。
日本は音楽に飢えていたんです。

海外からはどんどん、オペラもクラシックも流行歌も入ってくる。
それを日本人がカバーするには、編曲が必要でした。


アレンジばっかりやっていると、ものすごく安いんですよ。
ギャラが。

それにね、アレンジは、人の作ったものを編曲するわけですから、
「左脳」の仕事なんですよ。

作曲は「右脳」。
似ているようで、まったく違う。

左脳ばっかり使ってるとね、作曲が下手になるんです。
これじゃやばいなと思ってね。

よし、編曲をやめようと。
何のあてもないのに、来る仕事来る仕事すべて友達や後輩に振り分けて断っちゃった。


さてどうしようかと思っていたら、助けてくれたのが妹だったんです。
妹は当時、アパレルメーカーのレナウンの宣伝部にいましてね。
美大を出てイラストレーターをしてた。

新しいコマーシャルを作るスタッフになったとき
「兄貴が作曲できるらしいです」って言ってくれた。



――初めて世に出したのが「ワンサカ娘」。
  そのヒットを皮切りに、アニメ主題歌「魔法使いサリー」や
  「ひみつのアッコちゃん」も手掛けた。

  あの、「狼少年ケン」の「ボバンボバンボン ブンバボン」も
  「魔法使いサリー」の「マハリクマハリタ」も小林の作。
  作曲には、学生時代のジャズバンドが肥やしになったという。


「ワンサカ娘」は、作詞も僕。
「ワンサカワンサ、ワンサカワンサ、イェーイイェーイ、イェイェイ」って。
意味というより、語感。

ああいうのが好きでね。頭に浮かぶんですよ。


やっぱりなんか、音が出てくるんだな。
それまでのアニメソングって、オーケストラとか児童合唱団が主流だったんです。
ジャズっぽい音楽を作る人間が、僕ぐらいしかいなかったんじゃないかな。


大学時代、米軍基地へ行ってたでしょ。そこで鍛えられましたね。
誰がどこから手に入れたんだか『1001』(センイチ)っていう本があって、
そこにスタンダードジャズの譜面が1001曲分、載ってるの。

それをみんな暗記してね。
なにしろいつ、何をリクエストされても、弾かなきゃなんないから。
「A列車で行こう」、「イン・ザ・ムード」、「枯葉」・・・
いまだに頭に入ってますよ。


私にとって音楽のルーツは、ジャズ。
基礎としてのクラシックを服部先生に学んだことも大きかった。
それが混ざって、肥やしになりましたね。


本格的に作曲に乗り出さなかったら、人生違ってたでしょうね。
でも、たくさんの曲をアレンジしたことは、
作曲の仕事に、ものすごく役に立ってます。

アレンジャー時代に培った人脈だとか、仕事の流儀みたいなものは、
間違いなく作曲家としての仕事の基礎になりましたから。
その意味では、岐路というよりは、蓄積といったほうがいいかもしれません。




――その後、テレビは黄金期を迎える。
  数々の音楽番組、アニメ、ドラマ、CMに携わってきた。
  人気ドラマに役者としても参加し、お茶の間を沸かせた。


テレビドラマにもね、役者でもないのに、僕まで出るようになっちゃって。
「寺内貫太郎一家」の貫太郎は、原作者・向田邦子さんのお父さんがモデル。

当時私は長髪だったんですが、配役を決めるときに
プロデューサーの久世光彦さんに「丸刈りにしてこい!」って言われて。


テレビ局は、クライアントですから逆らえません。
仕方なく髪をばっさり切って戻ったら、
向田先生が「イメージにぴったりよ!」って。それで決まっちゃった。

何でもありの時代でしたねえ。
まさか続編までできて、新橋演舞場で舞台になるまで続くとは、思ってもいませんでした。


われわれ世代の人間は、テレビっていうのは、
これからの時代を代表する文化だと思っていました。

テレビなら、今までできなかったことができる!と、そりゃエキサイティングでしたよ。
挑戦の連続ですから。



――時代は変わって今、テレビも、音楽業界も苦境に立たされている。
  テレビ文化を創り出した者の目には、どのように映るのか。


昔はどのレコード会社にも、カリスマプロデューサーがいて、
会議で、みんなが反対しても「これは売れる!」って言った曲や歌手はヒットした。

今は合議制なんです。全員が70点をつけないと世に出せない。
そんなやり方で、大ヒットは出ませんよ。
そこそこの評価で出てきたものは、そこそこで終わるんです。


この時代の音楽が、エンターテインメントがどうなっていくのか、
見届けて、向こうにいる盟友たちに報告しなくちゃと思ってます。

「寺内貫太郎一家」に出ていた男性陣なんて、もうほとんど残ってないですよ。
僕たち世代は、テレビと共に大きくなって、テレビと共に終わっていくのかな。


レコード大賞の盾の前で写真とか、いやですよ。
どうも過去の栄光みたいでね。

              (聞き手/浅野裕見子) ・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 
 
 
今回、小林亜星さんが、御自身の人生航路を発露されて、
「なんでもアリの時代・・テレビは文化だった」と表現されて、
テレビ業界、音楽業界に御活躍された小林亜星さん・・、
まぎれもなく黄金時代に足跡を残された御方だった・・と改めて私は学んだりした・・。


私は東京オリンピックが開催された1964年に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退し、アルバイトをしながら、
養成所に通い映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を喰(た)べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

                       

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしたりした。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。



この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970年(昭和45年)の春であった。


                                                                 

この間、何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年(昭和45年)の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。

こうした中、出向先は遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。


           
このようなつたない人生航路を歩んだ私でも、
テレビ業界、音楽業界は、私たちより10年先輩が中核として御活躍された結果、
黄金時代の基盤を構築されたと実感している。

余談であるが、私が新婚時代、
千葉県の京成線の『国府台』駅の近くの賃貸マンションで過ごす中で、
駅までの商店街・・都はるみさんが唄われた『北の宿から』が幾たびに流れて、
初めて作曲は小林亜星さん・・と遅ればせながら知ったりした。
コメント (4)
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