先程、ヤフー・ジャパンより配信されたニュースの中で、
『 松田聖子 あの日は一睡もせず沙也加さんに寄り添った 』、
と題された見出しを見たりした。
私は東京の調布市の住んでいる年金生活の77歳の身であるが、
過ぎし18日、神田沙也加さんが宿泊先で急逝したことは、
テレビのニュースで知り、動顛したりした・・。
私は過ぎし現役サラリーマン時代は、たまたまレコード会社に35年近く勤め、
松田聖子さんがソニーより私の勤めた会社に移籍されて、
この当時の私は、制作に直接関係のない管理畑に勤めいたが、
偶然に松田聖子さんにお逢いして、しぐさ、言葉遣いに瞬時に魅了されたりした。
たった一度だけだったが、数多くの歌い手を見かけてきた中で、
たぐいまれなスターであり、謙虚さもあり、私なりに好感してきた歌い手である。
このような心情のある私は、今回の記事を読んでしまった・・。
この記事は、【 スポニチアネックス 】に於いて、25日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。
《・・神田沙也加さん(享年35)が18日に急逝して、1週間になる。
出演していた舞台が25日から再開され、母の松田聖子(59歳)は、
出場予定だったNHK紅白歌合戦担当者との話し合いを再開させた。
最愛の娘を亡くした悲しみは深く
「一睡もせずに、ご遺体に寄り添い続けていた」(関係者)という聖子は、
立っているのもままならない状態なのに、
元夫の神田正輝(71歳)とツーショットで会見した。
なぜ自ら報道陣に対応し、紅白に向けた話し合いも始めたのか――。
まだ見えぬ悲しみの向こう側へ、聖子は歩き始めようとしている。
【写真】松田聖子と神田沙也加さん
スポニチ本紙の取材では、聖子は沙也加さんの遺体が
警察から葬儀場に搬送される20日昼すぎに札幌入り。
「沙也加さんは、降り積もる雪のおかげなのか、外傷は見当たらず、
本当に穏やかな表情でまるで眠っているようでした」(関係者)。
無言の愛娘の冷たくなった頬に、何度も自分の頬をすり寄せ、
覆いかぶさるように両手で何度も撫でながら、泣き叫ぶ母親の姿は
「筆舌に尽くし難い、これまで見たことのない聖子さんの姿だった」という。
悲報が伝えられたのは18日深夜。
毎年恒例の都内でのディナーショー終演後で、知らせが遅かったのは
沙也加さんの事務所社長を務める実兄の配慮。
「もし、先に重体が伝えられていたら、とてもステージには立てなかった」と関係者。
20日の通夜後も聖子は一人、ホテルに帰らず、
次の日の葬儀・告別式の準備に取りかかるまでの
「20時間以上、一睡もしないまま沙也加さんのそばから離れようとしなかった」という。
泣き腫らした目は、翌21日午後、荼毘(だび)に付された際に
再び大粒の涙であふれ、正輝の胸で泣く場面もあった。
それが午後6時の日航機で帰京する直前の午後5時すぎ、
斎場で正輝と会見することを決意する。
それはなぜか――。
「この後のことを考えると、親子3人が一緒にいる姿を
皆さんにお見せできる機会は、これが最後だった。
最愛の子供を亡くした悲しみに暮れているのに、
世の中の皆さんの応援があって生きてきた芸能人一家として、
果たすべきことがあると考えるのが、聖子さんの凄いところ。
だからあれは夫婦ツーショットではなく、
沙也加ちゃんとの親子最後のスリーショットの会見だったんです」(関係者)
ピンクの位牌と骨箱は「一卵性」と言われた母娘を象徴する、ともに大好きな色。
帰りの機内で聖子は、その骨箱を胸に抱きしめたまま「決して離そうとはしなかった」という。
大みそかの紅白歌合戦。
当初は財津和夫作詞作曲の新曲「私の愛」を歌う予定だったが、
沙也加さんと2人で出場した思い出が深い紅白のステージで、どの歌をどんな演出でなら歌えるのか。
聖子と沙也加さんの思いを考えながら、紅白担当者は答えを探している。
≪89歳祖母も札幌入り≫聖子の母で、
沙也加さんを幼い頃から厳しくしつけてきたことで知られる祖母・一子さん(89歳)も札幌入りしていた。
幼い頃からおもちゃのマイクを手に歌うのが大好きだった孫に
「歌手になるのだけはやめなさい」と言い続けた一子さん。
それは“偉大すぎる母”と比較され、つらい思いをしないようにとの思いから。
母娘で溝ができても常に沙也加さんを見守っていた。
≪気遣いの人「チーム聖子」に心打たれる≫気遣いの人だと言われている聖子。
ディナーショーの19日の東京最終公演に続き、
23~26日のホテルニューオータニ大阪での全4公演が中止となったことに
「申し訳ない」という言葉を繰り返していたという。
中止の判断を受けた同ホテル側は「大丈夫です。チーム聖子ですから」と快く対応したという。
関係者は「毎年のようにディナーショーをやっている聖子さんは、
普段からホテル側と良い関係を築いている。
チーム聖子という言葉に、聖子さんも心を打たれたのでは」と話した。・・》
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注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は山桜を見かけると、 私が若き34歳の時、
自営業をしていた次兄が、資金繰りが破綻して、
突然に自室で睡眠薬を多量に飲み、自裁した・・。
この当時の私は、新築した家で住宅ローン返済で苦慮していた時期で、
次兄から私を資金に関しては無力と感じとられて、
結果的には私としては何の役にも立てずにいたことに、つらい日々を過ごしたりした。
私はこの山桜に心を託して、山桜の咲く時になると、次兄の言葉、しぐさを思い浮かべたりし、
何かとお世話になった次兄を思い馳せたりし、43年過ぎている。
私は何よりも困苦したのは、次兄が自裁された後、
私の母親は、殆ど毎日のように次兄のお墓に通われたことであった・・。
やはり母にしてみれば、自分のお腹を痛めて生んだ我が子が、
親の私より先に逝くことは、想像もできず、混とんとした心痛な思いで、
過ごされた・・・。
時が過ぎ・・やがて死後満一年めの祥月命日に、
一周忌の法要を終えた後、母は平常心に戻った・・と私は感じたりした。
このような私のつらい思いもあったりして、何よりも私は母の動揺したしぐさを
私なりに見てきたので、今回の松田聖子さんの《・・あの日は一睡もせず沙也加さんに寄り添った・・》、
私は痛いほど理解でき、涙を浮かべたりした・・。