夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

この世にオサラバするまで、心の友のひとりは読書かしら、と私は微笑んで・・。

2011-11-07 11:31:57 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、ネットを見ていて、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
中段に《 見方を工夫 => 読書楽しもう 》と見出しされた項目を見つけて、読書好きな私は、
どのようなことなの、と思いながらクリックした・・。

http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/20111104-OYT8T00516.htm?from=yoltop
☆【YOMIURI ONLINE】<==【新おとな総研】<==『見方を工夫、読書楽しもう』☆

私は読みながら、《・・加齢などによって視力が衰え、本から遠ざかってしまったというシニアは多い。
最近注目されている電子書籍端末などの機器を適切に活用すれば、読書を楽しむ助けになるという。

緑内障を患う京都市在住の男性(88歳)も、読書に困難を感じていた。
同市の吉田眼科医院院長の吉田雅子さんは男性の視野を診察した上で、
「残っている上半分の視野をうまく使ってみましょう。
目線を心持ち下げ、見やすい部分を使うように意識すれば、読みやすくなります」と話しかけた。

男性は、大きな活字で印刷された本を買い、眼鏡とルーペを併用して読んでいたが、目の疲れに悩んでいた。
そこで吉田さんは本のページに押し当てて使う棒状のルーペを紹介。
「これなら、行を間違えることもなくなります」とアドバイス。
早速試してみた男性は、「以前より楽に読めるようになった」と喜んでいた。

「まず、自分の見え方を理解すること。
見えやすいポイントを探した上で、視力低下を補う機器を使えば、
再び読書を楽しめるようになる人も多い」と吉田さんは話す。

「読書を通して新しい情報に触れることは、生きがいにつながる。
『高齢だから』と簡単にあきらめず、自分に適した機器などを工夫して使い、読書を楽しみ続けてほしい」
と山田さんは話している。
・・》
このような箇所を特に深く精読した後、
この世にサヨナラするまで、読書と親しめる、と微笑んだりした・・。


私は民間会社を35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎え、
年金生活を始めて8年生になる身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりし、ときおり駅前で買物をした時は本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
遅ればせながら高校生の時に、読書の底知れない魔力に取りつかれて、
年金生活の今でも本屋、ときには古本屋に行き、読みたい本を探し求めて購読し、
早や50数年過ぎている・・。

私は近眼であり少し老眼となっているので平素はメガネをかけて、
居間でソファに座り本を読んだりしているが、
大半はメガネを外して簡易ベット、和室の畳に横たわったり、
寒さを感じる時は布団にもぐり読んだりすることが多い。

何よりも困窮するのは、旅行先で持参した数冊の本を読み終えてしまった時である。
過ぎし2008〈平成20〉年の2月に、私たち夫婦は独り住まいの家内の母を誘い、
箱根・姥子温泉の観光ホテルに7泊8日で滞在した時である。

日中は家内たちの婦人の名所の観たい所と違い、
私は姥子温泉の付近の芦ノ湖周辺を散策したりし、夕方から深夜まで読書をしたりしていたが、
周辺には本屋がなく、コンビニは雑誌しかなく困惑したのである。

私は活字中毒のひとりなので、薬が切れた、と家内にこぼしたりしていた。
そして帰路の箱根湯本の本屋で寄り、佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。

このような私なので、この世にオサラバするまでは、本を読んでいたと思っているが、
目の衰え、病気などで本が読めなくなるのが、最悪なのである。

読書を何よりの友とされた経団連の会長まで栄達された平岩外四(ひらいわ・がいし)氏は、
お亡くなるまで、本を読まれていた、
と風の噂で聞いたりすると、思わず好感させられてしまうのである。

私は本が購入できなくなった時は図書館に通い続けると思い、
読書は貧富の差にかかわらず、この世の知力の求愛と確信しているので、活字に親しむ方に親近感を覚える。


今回のニュースを知り、私は確かな朗報と思いながら微笑んだりしている。
そして作家・水上勉(みなかみ・つとむ)さんは、晩年の時にバソコンの画面を拡大して、
綴られたり、読んだりしていた、ことを雑誌の『サライ』などで私は拝読していたことを思い重ねている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ツイッター派』、『フェイスブック派』、と問われても、齢ばかり重ねた私は遥かに遠い世界であり・・。

2011-11-06 16:53:20 | 時事【社会】
私は過ぎし3日の夜、ネットで『日経トレンディ』の「ヒット商品ベスト10」を読み、
無学な私は翌日の4日に、最寄りのコンビニに立ち寄り、
日経トレンディ12月号(11月4日発売)を購入し、先ほどまで読んだりしていた。

今回の12月号に於いては、特集内容の本年の【2011 ヒット商品ベスト30】、
そして来年の【2012 ヒット予測ランキング】掲載されている。

こうした心情の根底には、世の中の流行も知らず、せめてヒット商品を誌上で学び、教示され、
何事も好奇心をなくしたら、この人生は終わりだ、
という秘かに生活信条としている私は言動のひとつあるからである。


この中の記事のひとつに、【ヒットの裏側 ② ツイッター VS フェイスブック 】に於いて、
《・・
『ツイッター派』
        「本音、シンプル」

、『フェイスブック派』、
         「実名、身近」

・・》

好みで分かれる、大きく明記されて、詳細に丁重に綴られていた・・。


私は携帯電話さえ使えない国民ととして稀(まれ)なひとりであり、
まして『ツイッター派』、『フェイスブック派』、と問われても、大いに戸惑ったりしている。

何よりも国家の動乱時、或いは災害などのの緊急時ならともかく、
平穏時には、スマートフォン(多機能携帯電話)は、過剰な情報機器と思っているので、
世の中の時流から取り残され、世捨て人のひとりになったか、と微苦笑している。


このような偏屈者の私は、『ツイッター』で盛んに《 つぶやき 》などが流行っている昨今、
おかしな社会になっている、と苦笑している私である。

このような社会の時流に、私の心情を発露し、このサイトで今年の1月25日に於いて、
【 『ツイッター』は、まぎれなく日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』に最適と思い・・。】
と題して投稿したが、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の66歳の身であるが、
定年退職の2004(平成16)年の後、まもなく『ブログ』の世界を知り、
殆ど毎日、ブログの投稿文をしている。

そして確か2007(平成19)年の頃から、
急激に普及した『ツイッター』に関しては、私は発信できないでいる。

『ツイッター』は短い綴りで、つぶやくような文章と私は解釈しているので、
短い言葉で私の今の心情を発露するようなことは、無念ながら私には筆力がないので、
利用したことがないのである。

しかしながら、ある程度の長い文章の綴りであるならば、
つたない私なりに『ブログ』の投稿文として、
日常の思い、或いは思索したいることなどを心の発露として綴ったりし、
ここ6年ばかり投稿している。

昨今の日本の社会に於いて、『ツイッター』の利用される方の一部で、
少し心の礼節を失くした方の発信文が問題となっている、と風の噂で聞いたりしている。

昨夕、読売新聞の夕刊(2011年1月24日)に於いても、この問題の記事が掲載されている。
《・・
ツイッターに詳しい武田徹・恵泉女学園大学園教授(メディア論)は、
「ブログに比べて、ツイッターは公私の差があいまい」
と指摘する。

つぶやきは通常、自分の書き込みをチェックしている人(フォロワー)に向けられているため、
友人や家族に話す感覚に近くなる。

実際には自分のフォロワーの先には、さらにフォロワーがいて、
大きな波及力があることが忘れられがちだ。

ツイッターを使いやすくするスマートフォン用ソフトも出ており、
見たことをその場で書き込んでしまうことも、軽率なつぶやきを生みやすい。

武田教授は、
「書き込んだ本人が特定されれば、損害賠償を求められる可能性もある」
と注意する。
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


私はこの記事から、『ツイッター』の世界を多々学び、
『フォロワー』という言葉も初めて教示され、スマートフォンも使えないひとりであり、
この社会の流れに困ったなぁ、とため息を重ねたりした。


日中のひととき、いつものように、近くに流れる野川の川沿いの遊歩道を散策した。
陽だまりの良い処で、白梅の純白の花が七分咲きとなり、
私は立ち止まり、見惚(みと)れたりしている。

こうした時、脳裏から『ツイッター』こそは、
まぎれなく日本人の古来から愛された『短歌』、『俳句』、『川柳』などに最適だ、
と思ったりしたのである・・。

短歌は、もとより五・七・五・七・七の三十一〔みそひと〕文字の世界であり、
万葉の時代から日本の人々に愛されてきた叙情詩であり、
この内容も恋の歌・日常生活の描写・社会問題・子供の成長・物語や幻想まで、
どんなテーマでも自在である、と受け継がれている。

俳句は、五・七・五の三句十七音から成る定型詩であり、
「季語」さえ含めば、内容も自在であり、江戸時代から多くの方に愛されてきている。

そして川柳は、五・七・五の十七音の定型で、
ユーモアに富んだ言葉使い、或いは世の中を風刺した作風で、
江戸時代に発生し、明治時代の頃から、多くの方たち慕われてきた。


このように私は思いながら、『ツイッター』を利用される方たちは、
短歌や俳句の一句を詠まれたり、或いは川柳の一句でも吐くことをされれば、
この上なく日本文化は隆盛し、何よりも当人は更に心が豊かになる、と確信を深めたりした。

尚、私は無念ながら短歌や俳句を詠む素養はなく、
『ブログ』の世界で散文のようなつたない綴りを殆ど毎日投稿をしている。
・・】

このように投稿しているが、若い方たちが、つぶやき、など安易な言葉よりも、
ご自身の心情の発露、或いは思考していることの表現は、
短歌、俳句の一句を詠むか、川柳の一句でも吐くことをされれば、或いは散文をブログで綴られれば、
貴重な時間の浪費にならないのに・・妄想を重ねている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』、私の若き彷徨期に於いて、思いでのひとつの歌・・。

2011-11-05 21:22:53 | 青年時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昼下がりのひととき、ラジオからパティ・ペイジの唄歌が聴こえ、『テネシー・ワルツ』の歌だと気付いた・・。

そして、しばらくすると、私の若き日々の頃が想いだされた・・。


私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
二十歳になった私は大学を中退して、映画・文学青年の真似事をした。

まもなく銀座の松屋の裏手にあった俳優・演出・シナリオ等の養成所があり、
私はシナリオライターを目指していたので、
確か俳優コース、演出コースの中で、演出コースに所属し、シナリオの習作を学んでいたのである。

この養成所からの斡旋で、アメリカのテレビ劇の出演のアルバイトをしたり、
講師がある大手の月刊誌の連載を契約していたので、
私は取材をして下書きして、講師からいくばくかのお金を頂いたり、
新劇のある劇団の人たちの紹介も受けたりしていた。

この中の60歳前後で新劇の著名な方で、映画にときおり準主役に出演される方から、
映画の製作は縮小される昨今、ますます君のようなシナリオライター希望は厳しいょ、
同じ創作されるのであるならば、小説もひとつの方向だね、
と教示されたことがあった。

確かに映画の製作は縮小されるし、企画が通っても共同作業だし、
その上、何かと制約もあることだしと思いながら、小説の習作をはじめ、
これまでの交流関係の人たちから私は絶ったのである。


そして新聞の人事募集を見て、ある警備会社に契約社員として採用されたのは、
1968(昭和43)年の初春であった。

この警備会社の派遣先は、新宿から10分たらず駅に隣接した大きなショピング・センターであった。
商店街の再開発の一端で、時計・宝石店、本屋、レコード店、毛糸・手芸屋、紳士服店、婦人服店、
パン屋、お菓子屋、魚屋、肉屋など昭和40年の初めの頃に大きな商店街に観られる状態を
小奇麗なビルの場所に移転集約したようなショピング・センターであった。

私の勤務体制は朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そしてショピング・センターの営業時間は、朝の10時に開店し、
夜の8時に閉店していた。

私が朝の9時に警備室に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

こうした心情があったりしたが、私は勤務時間の表面上は明るく振舞っていた。

こうした間、私が勤めて半年過ぎた頃、閉店まぎわに『テネシー・ワルツ』が流れてきたのに、
気付いたのである。
レコード屋であり、日中はこの頃流行っていた千昌夫の『星影のワルツ』が盛んに流れていたが、
10数年前の小学生だった私がラジオから盛んに流れていた『テネシー・ワルツ』を、
今頃に、どうしてなの、と私は不思議に思ったりしたのである。


このレコード屋さんは40代の男性が経営者であり、
35歳前後の女性が常駐し、ときおり経営者が来店して、お客さんが居ない時、
この店員さんである35歳前後の女性と談笑をしたりしていた。

この35歳前後の女性は、背の高い理知的な人で、
私に明るい笑顔を見せながら、挨拶をされる方であった。

閉店まぎわになると、店の周囲をカーテンで閉めながら、
少し沈んだような表情で『テネシー・ワルツ』をプレイヤーでかけていたのである。


この間、私はこのビルの上階にある名の知れた大手の民間会社の女事務員の方と顔なじみとなり、
交際をはじめて数ヶ月頃、この女事務員のお宅に招待されたのである。

結果としては、この方の父はある官庁の課長をされている方であり、
大学中退でフラフラした挙句、警備員などで契約社員のくせに、
将来性が全く見込めない私に娘との交際は許さない、
と後日にこのような意味合いの電話を頂き、そして私達はきまづくなり、私は失恋したのである。


このような状況の時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
私は民間会社に中途入社する為、コンピューターの専門学校で一年ばかり学んだ後、
知人のご尽力もあり、ある大企業に中途入社ができたのである。

この後、2年後にあるレコード会社の本社で情報畑に勤務し、
夜の8時過ぎに隣席に近い販売促進の人が、
たまたまパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いていたのである。

私は微苦笑しながら、警備員の時代で知り合ったレコード店の女性を思い浮かべたのである。
『上の階の女性との貴方の交際・・偶然に見かけてしまったの・・
あの方は気付いて、過日、私に事情を話されたのょ・・
私・・人生経験あなたより豊富でしょう・・ご免なさい、生意気言って・・
あなたはお若かいのだから・・警備員などでくすぶっては駄目ょ・・
もっと社会の第一線に出て・・溌剌としてほしいわ・・
あなたの齢だったら、充分やり直しができるわ・・』
と閉店した後のレコード店の少し暗くなった店先で、私は言われたのである。

私はこうした人生の激励を受けたりし、何とか社会人のひとりなり正社員で奮闘し勤務していたが、
煙草を取りだし喫いながら、この人を思い浮かべると、煙が目にしみたようになった。


こうして私は綴っているが、パティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』を聴いたりすると、
今だに私はこの人の表情が浮かぶのである。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ワンピース』の第64巻、書籍史上初めて400万部に、読書好きな私は驚きながら、そして・・。

2011-11-05 09:21:54 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
昨夜、読売新聞の夕刊を読んでいたら、14面にある記事のひとつに動顚させられた・・。

《 ワンピース 初版400万部
                第64巻、書籍史上最多 》

という見出し記事であり、ここ10数年に出版業界は不況と学んだりしている私は、
ほんと~う、どうして、と読書好きな私は思いながら記事を精読したのである。

無断ながら、この記事を転載させて頂く。

《・・
4日に発売された尾田栄一郎さんの漫画単行本「ONE PIECE」第64巻(集英社)の初版発行部数が、
日本の書籍史上初めて400万部に達したことが分かった。

同作は、2010年3月の第57巻で、
「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」(静山社、上下巻)の持つ初版部数記録290万セットを抜く300万部台に到達。

東日本大震災後の今年5月を除き新刊発売のたびに初版部数をアップさせ、
1年8か月で100万部上積みした。

集英社によると、1巻からの累計発行部数は2億5000万部以上。

2011年11月4日 読売新聞の夕刊 
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は遅ればせながら高校生の初めに、読書の底知れぬ魔力に取りつかれて小説、随筆など乱読し、
年金生活の今でも、日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
本屋に寄ったり、ときには古本屋に行き買い求めている。

そして出版業界は長年に不況であると学ぶと、
数多くの人たちが携帯電話でたわむれ時間があったならば、
もっと読書をされる方が、遥かに後年に自身を高められる、と余計なお節介を感じている。

こうした中で、たとえ漫画単行本であっても、初版発行部数の400万部は驚異である。
デフレ経済が続くと、何かと人々は一極集中になる、
と35年近く音楽業界のあるレコード会社の管理、情報畑に勤めた私の哲学のひとつであるが、
少しでも出版業界の売上に貢献できる作品で良かった、と喜んでいる。


恥ずかしながら私が漫画単行本『ONE PIECE』の名を知ったのは、
昨年の2010年11月1日であり、この時の心情は、
【 『ONE PIECE』・・何なの、と高齢者の私は心の中で呟(つぶや)き・・。】
と題して、このサイトに投稿し、発露している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の66歳の身であるが、
朝のひととき、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、

《 ONE PIECE 累計2億部突破へ 》

と題された見出しを見て、恥ずかしながらONE PIECE、という言葉は知らなかったのである。

私は何事も好奇心を失くしたら、この人生は終わりだ、という信念の持ち主であるので、
こっそりとクリックした。

無断ながら、記事の大部分を転載させて頂く。

《・・
        <ワンピース>60巻で累計2億部突破 初版340万部は5度目の日本記録更新
                         
                               まんたんウェブ 11月1日(月)4時1分配信

「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載中の尾田栄一郎さんのマンガ「ONE PIECE(ワンピース)」の
コミックス60巻(4日発売)の初版発行部数が340万部となり、
シリーズ累計で2億部を突破することが11月1日、明らかになった。
初版発行部数でも自身の持つ日本記録を5巻連続で更新する。

「ワンピース」は、手足が伸びるゴムのような体になってしまった少年ルフィが、
海賊王になるため、3本の刀を使う剣士ゾロや、女航海士のナミらと大海原を冒険する……という物語。

1997年の「週刊少年ジャンプ」34号から連載、1999年からアニメも放送され、世界的な人気作となった。
今年10月から完結へ向けた「最後の海 新世界編」がスタートしている。

60巻は、ルフィの義兄エースを失った「頂上戦争」と、
エース、サボ、ルフィの少年時代のエピソードが描かれる。

(略)

(毎日新聞デジタル)最終更新:11月1日(月)4時1分
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は「ワンピース」というのは、漫画の作品のひとつかょ、と思ったりしながら初めて学んだのである。

私は昨今は漫画は見ないし、確か漫画を読んだのは、
小学生の5年生の1956(昭和31)年の頃、漫画の月刊誌の『少年画報』を購入して愛読した。

その後は、1970年(昭和45年)前後に、散髪屋(理容店)に行って、待合室で待機している時に、
漫画の月刊誌名は忘れたが、『あしたのジョー』だけは、読んだりしていた。

そして、1990(平成2)年の前後に、
『美味(おい)しんぼ』の漫画の単行本を少なくとも20数冊は買い求めて、熱読した。

この程度が私の漫画のささやかな軌跡であり、
『ワンピース』は漫画の作品で大ヒットを重ね、アニメも放送され、世界的な人気作となった、
と学んだのである。

そして日本が世界に発信する創作分野としては、もとより小説、映画などがあるが、
漫画はアジアをはじめ、欧米の一部でも、言葉は翻訳され愛読されている、
と私は少し知っているので、今回のニュースは喜ばしい限りである、と私は感じたりしている。
・・】

このように短かな私の心情を発露していて、今の私は微苦笑をしている。

余談であるが、このような驚異的な発行部数は、できうれば、
作家・塩野七生(しおの・ななみ)さんが渾身された作品のひとつ『ローマ人の物語』があるが、
この作品は1992〈平成4〉年より、年一冊のペースで執筆し、
2006〈平成18〉年に『第15巻 ローマ世界の終焉』にて完結した名作がある。

或いは文庫版に於いても、2002〈平成14〉年から2011(平成23)年にかけ、
新潮文庫で単行本1巻を2冊から4冊に分け刊行され、文庫版全43巻が完結した巨編である。

こうした『ローマ人の物語』の作品が、『ワンピース』のように多くの方が購読したならば、
少なくとも日本の政治、外交、軍事、経済に大きく変貌できるのに、
と私は秘かに願ったりしている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リストラ烈風の中、私は出向となった後、『おじさ~ん・・イェ~イ!!』と私は励まされて・・。

2011-11-04 16:51:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
民間会社のサラリーマンを卒業した身であり、
現役時代を振り返る時、どなたも体験されたと思うが、
思いも寄らない人たちから、激励の言葉を受けたりしたと思ったりしている。


私は1964(昭和39)年に東京オリンピックが開催された時に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、先行きの見えないような彷徨(ほうこう)した5年を過ごした後、
この当時は大手企業のある音響・映像メーカーに何とか中途入社した。

まもなく外資の要請でレコード会社が新設され、私は新たなレコード会社に転籍させられた。
もとより音楽業界のレコード会社は、中小業であり、管理畑、情報畑などを35年近く勤め、
定年退職を迎えたが、
最後の5年間の職場が決まった時、私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。


音楽業界の各レコード会社全般として、1998(平成10)年にCDを中核とする売上げのピークとなり、
この前後から、違法な音楽配信、社会の趣味の多様化の中、CDの売上も急速に下降した。
そしてこの前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
或いは資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。


私は1970(昭和45)年の中途入社であったが、
この当時のサラリーマンの風潮としては、定年の60歳まで勤め上げる、
と数多くの方が念願していたし、遅ればせながら社会人となった私も、それなりに人生設計を持っていた。

そして激動の1998(平成10)年の前後、
私の勤めていた会社も先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、1999(平成11)年の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあった。

周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
私はある程度の人事の異動が覚悟していたが、
出向とは予期していなかったのが本音であった・・。


私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
つたない私でも屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があった。

出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要基点に物流センターを配置し、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。

私はこの中のひとつの物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの100名前後の職場であった。

それまでの私は、殆ど30年近く都心の本社勤めで、
いろいろな部門を異動してきたが、もとより男性社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には戸惑ったりした。

そして通勤時間帯も大幅に変貌したのである。
それまでの都心の本社は、9時半が始業時であり、私は8時過ぎに自宅を出て、
45分前後の通勤時間で出社していた。

物流センターは原則として9時の始業時であったが、
曜日によっては変動するが実質8時からであり、その前の事前準備などを配慮すると7時半過ぎとなっていた。
退社できるのも曜日によって異なり、大半は夜の7時前後であり、
私の通勤時間は1時間半は要していた。

私の通勤の最寄り駅は、小田急線の『成城学園前』で、
自宅から始発のバスに乗り、この駅から下りの電車で『本厚木』まで利用した後、
バスに乗り継いで、各諸業種の物流倉庫が建ち並ぶ場所へと通ったのである。

都心の本社に通っていた時代からすれば、まさに都落ちの心情であった。


通勤を始めて3か月ぐらいは、センター長のご厚意で、私の出社は8時半となった。
最初の頃、現場を学ぶために、倉庫の中を歩き商品配列を覚えたり、
急ぎの商品を手配したり、移動させたりすると、
不慣れとそれまでの本社はデスク・ワークばかりしてきた私は、
退社後は疲労困憊となっていた。

こうした時、確か週末の金曜日、ときには土曜日になると、
明日は休みだ、と思いながら、『本厚木』の駅近くのバス・ターミナルでバスを下車した後、
小田急線の『本厚木』の駅に向う途中に長いアーケード街を歩き、
この中のある居酒屋に寄ったのである。


確か物流センターに通い始めて数週間過ぎた頃と記憶している。
一軒の小さな居酒屋に夜の9時過ぎに入っていたのであるが、
お客さんが2人の男性客が、差し向かいとなっているだけであった。

私は片隅の席に座り、注文に取りに若い女性に、
地酒を弐合とおつまみとして2品をお願いした。
私は弐合徳利を傾け、ぐい呑みに注(そそ)ぎ、少し呑んだ後、
おつまみの焼き魚を食べたり、煙草を喫ったりした。

そして、心身共々の一週間の悪戦苦闘が終った、と疲労困憊となったりしていたが、
安堵したりした。
この後、私は通勤のアタシュ・ケースの中から、
持参しているCDアルバムの五枚から、一枚を選定した後、
CDウォークマンをセットし、聴きはじめた・・。

この後、私は弐合徳利のお代わりを注文し、
運ばれてきた若い女性から、
『何を聴いて・・いらしゃいますの・・』
と私は訊(たず)ねられた。

私はイヤホーンを外して、
『ここ一年は「X-JAPAN」が多いけれど・・「中島みゆき」さんの歌もよく聴くよ・・』

確かこのように私は云ったりし、
たまたまこの若い女性が中島みゆきのファンであったので、
お客さんが少なかったせいか、私達は10分ぐらい談笑した・・。

この若い女性は、小田急沿線にある大学に通学され、
アルバイトとして、友人と共にこの居酒屋に週三回勤務している、
と私は教えられた。

私の疲労困憊の疲れきった表情、そして落胆している表情も隠し切れず、
『都落ちで・・この本厚木も不慣れでねぇ・・』
とこのような意味合いのことを私は云ったりしたと思われる・・。


この後、終電の一時間前に私はこの居酒屋を辞して、
駅の改札口に向かい歩き出した。

この直後、後ろから、
『おじさ~ん・・イェ~イ!!』
と先程の大学生が友人と共に、右手を高く掲げて、私に大声で云った。

私は驚きながら、右手を少し振りかざして、応(こた)えた。


その後、この居酒屋は店じまいされて、新たな店となり、
ふたたびこの大学生の女性とは逢うことはなかった・・。

まもなく私は、この出向先の物流センターに馴染み、精進しながら、
定年退職する2004〈平成16〉年の秋までの5年間を勤めた。

この間、このアーケードを通り過ぎると、
ときおり私は励まされた大学生の女性の表情と
しぐさを思い出されることがあった。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日経トレンディの今年の「ヒット商品ベスト10」を学び、年金生活の私は驚き、ため息を重ね・・。

2011-11-04 08:34:36 | 時事【社会】
私は昨夜、パソコンを開き、【YAHOO! JAPAN】の【雑誌】コーナーに於いて、
ひとつの見出し記事を見て、どのような商品か今年ヒットしたの、とクリックした。

《 2011年債大のヒットは「スマホ」、日経トレンディ「ヒット商品ベスト30」発表 》

と見出しされた記事であり、私は齢ばかり重ねた67歳の年金生活している身であるが、
好奇心をなくしたら、この人生は終わりだ、という秘かに生活信条としているのて、
この記事に掲載されている『ベスト10』を、こっそりと見た・・。

1位 スマートフォン
2位 Facebook
3位 “節電”扇風機
4位 GOPAN
5位 日清カップヌードルごはん
6位 ミラ イース &デミオ 13-スカイアクティブ
7位 マッコリ
8位 だれとでも定額
9位 ロキソニンS
10位 仮面ライダーオーズ 変身ベルト DXオーズドライバー
を心情

包み隠さずに発露すれば、『スマートフォン』、『Facebook』は携帯電話が使えない私でも、
新聞、雑誌などで見たりしている程度である。
そして『GOPAN』は新聞の記事で読んで、商品企画に好感したが、
恥ずかしながら現物も知らない。

この他の7商品は、無念ながら何のことか知らず、驚きながら、溜息〈ためいき〉を重ねた・・。


私の現役時代は、音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
制作畑でなく裏方の管理畑、情報畑などで私なりに奮闘していたので、
もとより音楽業界、コンピューター業界は、多少は知っていた。

そして、週刊誌の音楽専門誌の『オリコン』、ビジネス全般として『日経ビジネス』、
月刊誌の『日経トレンディ』、そしてテレビ・CM・音楽・映画界などの『日経エンタテイメント』を購入し、精読していた。
当然の責務として、音楽の業界紙も読んでいた・・。

こうした中で、『日経トレンディ』の誌上に於いて、
毎年「ヒット商品ベスト30」を発表されているのを長らく見たりし、
多々教示されたりしてきたが、殆どのヒット商品は理解していた。


私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、年金生活をしている身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして東京郊外の調布市の片隅で、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように最寄りのスーパー、専門店に行ったりし、ときおり駅前で買物をした時は本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
現役のサラリーマン時代に愛読していた情報誌『日経トレンディ』は、
年に数回買い求めるくらいとなっている。

今回、『日経トレンディ』の「ヒット商品ベスト10」を学び、無念ながら殆ど無知であるので、
本日の日中に最寄りのコンビニに立ち寄り、
日経トレンディ12月号(11月4日発売)を購入しょうと決意したのである。

12月号に於いては、特集内容の本年の【2011 ヒット商品ベスト30】、
そして来年の【2012 ヒット予測ランキング】掲載されているので、精読しょうと固く決意した。

こうした心情の根底には、世の中の流行も知らず、せめてヒット商品を誌上で学び、教示され、
何事も好奇心をなくしたら、この人生は終わりだ、
という秘かに生活信条としている私は言動のひとつあるからである。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『文化の日』、過ぎ去りし私の定年後、その年のこの日の思いは・・。《下》

2011-11-03 18:13:02 | 定年後の思い
2007(平成19)年11月3日に於いては、たまたま沖縄本島に旅行中であった。
家内の母が、『ひめゆりの塔』を死ぬ前に一度は参拝したい、念願に基づいて、
私たち夫婦との三人の旅路で、
高齢者に見合った日程の沖縄本島を8泊9日間で周遊した。

このことについては、このサイトに【沖縄本島滞在記】と題して紀行文のように投稿しているが、
私達夫婦は家内の母を誘い、3人で沖縄本島を8泊9日で訪れている。
那覇のシティホテルで連泊しながら南部観光をした後、
中北部のリゾートホテルで6泊し、中北部の観光を周遊している日であった。

もとより私は家内の母と温泉滞在旅行を含めて3人で旅行をする際は、
私は出来る限り、家内達と日中は別行動をしている。

婦女子の周遊する所と私は殆ど別要望であり、
家内達もそれぞれの思いで、母と娘の2人で好きなところを廻れば良い、
と思っているからである。

今回、この旅先の11月3日の出来事などを異例であるが、抜粋する。
【・・
   特別第7章  『美ら海(ちゅらうみ)桔梗(ききょう)』に魅了され

11月3日
私達3人は、『海洋博公園』に行き、
家内達は『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。

私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉が好きである上、
植物を愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。

国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、
私の目を楽しませてくれた。

遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。

空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。

このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。

植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。

私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。
いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。

私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と名付けた。

園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・べンガル・ベヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。

今回、本島を8泊9日で旅をしている身であるが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。


     特別第8章  旅先で投稿するには

私はこのサイトで、10月31日~11月4日に於いて、
第1章から第7章まで投稿した場所は、りゾート・ホテルの一角からであった。

http://www.kariyushi.co.jp/beach/
☆ 『沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ』ホームページ  ☆

昨夜、沖縄本島から帰宅し、今こうして自宅で綴っているが、
滞在先のホテルのインフォーメション・センターと称された観光遊覧の相談所で投稿していた。

この相談所は20代の女性が3人いて、常時2名で対応している。
机上にはパソコン等があり、ある程度はお客様の相談事を笑顔で応じている。

このルームは15坪前後の広さがあり、
壁際にインターネットが対応されたパソコンが2台あった。
お客様自身が観光先などを検索されるのに設置されていると思われる。

私はこの中で1台を使わして貰い、ホテル内の滞在客の多い中、ときおり投稿したのであった。

この相談所の女性たちと、私は良くお話をした・・。

こぼれ話のひとつとしては、
モンゴル800の『あなたに』のことで、
『・・モンパチの『あなたに』に魅了され・・ベランダで鼻歌を唄ったり・・していますよ』
と私は云ったりしていた。

『好い歌ですよね・・私が中学3年の時・・大ヒットし・・私も大好きな歌のひとつです・・』
と微笑みながら答えてくれたりしていた。

私は齢を重ねた63歳のお客の身であるので、、
相手のお方は私よりは40歳以上確実にお若い20代の沖縄美人は、さりげなく応じてくれる。

この後、私は沖縄出身のモンパチの件で、お互いに微笑みながら話し合ったりしていた。

http://www.youtube.com/watch?v=G2mRUU8WI8w
☆【『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲・モンゴル800】☆


   特別第9章  乙女たちのエメラルド・ビーチ

『海洋博公園』で私が散策した樹木、草花園のもう一方の反対側には、エメラルド・ビーチがある。

白いペンキの大きな休憩所が二つほど並びあり、
その先端には憩いの浜、眺めの浜、そして遊びの浜と称された浜は、
白い砂浜が拡がり、椰子(やし)の樹木、空の青さ、海は蒼く、彼方の海上は解けてしまうような光景である。

こうした中で、波が白い砂浜に押し寄せ、
数多くの白いサンデッキが並び、そして色鮮やかなパラソルがある・・。


今回の旅の初め頃から、首里の王陵、首里城、南部のひめゆりの塔、平和祈念公園、玉泉洞を私達3人は観て廻ったが、
幾つかの高校の修学旅行の生徒と出会ったりした。

タクシーのドライバーの方から教えて頂いた話であるが、
生徒たちの3、4人でタクシーで好きな場所を周遊するのが昨今の傾向となっている、とのこと。
事前に先生の了解を得て、各観光の周遊プランをタクシー・ドライバーと再調整しながら、
あちらこちらに観たりしているのが多い、と教えてくれた。


エメラルド・ビーチを私は散策していると、
高校生の女学生の4人は歓声をあげて、お互いに携帯電話で写真を撮ったりしていた・・。

『よかったら・・小父さん・・みんなの記念写真・・撮ってあげるよ・・』
と私は女学生のひとりに大声で云った・・。

ひとりの女学生が、もじもじと家内と同様の写ルンを取り出して、
『嬉しい・・小父さん・・お願い・・』
と私に簡易カメラを手渡した。

4人の女学生は、それぞれのポーズを取りながら、右手はVサインであり、
私は微苦笑しながら、シャッターを押した・・。

『小父さん・・有難うございました・・』
と2人の女学生が大声で云われ、私は照れた。

その後、4人の女学生は波打ち際に歩き出して行き、微風の吹く中、スカートの裾が揺れていた。

私は南国の白い砂浜と陽射しのまぶしさ、そして海の蒼さの光景は、
乙女たちの夢のひとつ、あこがれが、目の前に拡がっていることを了解できた。
・・】

このようなことが2007(平成19)年11月3日の出来事であり、
『べンガル・ベヤハズ・カズラ』の薄紫色の花を、この年の文化の日に初めて見て、
瞬時に圧倒的に魅了させられ、私は秘かに『美ら海桔梗』と名付けた花を思い浮かべ、
今の私は微苦笑しながら、まぎれない美のひとつ、と今でも確信を深めたりしている。



そして2006(平成18)年11月3日に於いては、
この日は3通ばんり投稿しているが、
この中のひとつ【 読書から文化のひとつを教示・・♪ 】を掲載する。

【・・
ここ数日、嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫)を読んでいる。

特にこの中で教えを受けたのは、宮沢賢治は追悼によって世に出た、と読んだ時は驚いたりした。

著作者の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)氏の格調たかい名文を引用させて頂く。

《・・
昭和8年、花巻で無名の詩人が急性肺炎で死んだ。
・・・
(宮沢)賢治の死は、詩人仲間の草野心平の手で友人たちに知らされたのみであった。
・・・
没後、唯一、次郎社より「宮沢賢治追悼」雑誌が出た。
草野心平が逸見猶吉と企画した同人雑誌「次郎」が形を変えて出版された追悼集で・・・

この薄い一冊の追悼文集に寄り、宮沢賢治への評価の起爆剤となった・・・


そして、著作者の嵐山光三郎は、
いまの日本詩壇に、無名詩人を発掘する第二の草野心平がいるだろうか・・
と結びの文として綴っている。
・・》

私は宮沢賢治に関しては、無知なほうである。
数年前、雪の降る時節に、花巻温泉に滞在して、
その折、宮沢賢治記念会館に行き、見学し、多少学んだ程度である。

東北地方の観光面に携わる関係者は、何かと松尾芭蕉、宮沢賢治の両名を活用し、
知名度の向上を果たしたりしているのが、昨今の実態である。

いずれにしろ、無名で亡くなった詩人が詩人達の好意により薄い追悼文集が起爆剤となり、
詩壇はもとより文化のひとつまで足跡を残させた史実に驚いている。
・・】



そして、初めて定年退職の一年を過ぎた2005(平成17)年11月3日に於いては、
やはり3通の投稿文の中から、
【 改めて、文化の日とは・・♪ 】と題したのを掲載する。

【・・
今朝、インターネットの検索をした所、
この日は戦前に於いて、『明治節』と呼ばれ、明治天皇の誕生日を寿(ことほ)ぎ、偲(しの)ぶ日とあった。

1948〈昭和23)年7月20日に『祝日法』が公布され、
《 自由と平和を愛し、文化をすすめる 》趣旨により、『文化の日』となった。

私は1944(昭和19)年9月に生を受けたが、このような由来は無知であった。

私は、この日に関しては簡潔に解釈している。

人々の営みの集積が文明であり、その一端に文化がある、と思っている。

山川草木の美しい日本の風土を秋の或る日、
その人となりに思いめぐらせ感謝すれば良い、と信じている。
・・】


このように定年退職後、毎年『文化の日』を過ごしているが、
この時の私の思いを投稿文をしてきたが、
過ぎてしまえば少しはかなくも、やはり私の心には微苦笑を重ねながらも、愛惜がある。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『文化の日』、過ぎ去りし私の定年後、その年のこの日の思いは・・。《中》

2011-11-03 15:21:18 | 定年後の思い
一昨年の2009〈平成21〉年のこの日のひとつの投稿文として、
【 私なりの定年後の『文化の日』の思いは・・。 】
と題して投稿していた。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、どんよりとした曇り空でときおり霧雨が降り、その上に風が吹く寒い日となり、
私は木枯らしかしら、と思ったりした。

今朝5時過ぎに目覚め、薄暗い中、玄関の軒下で煙草を喫いながら、
空を眺めたりした。
月が煌々と光を帯びて、空一帯は10数の星が見られ、快晴の日中かしら、
と微笑み、居間に戻った。

ガスファンヒーターで暖房にセットした後、
地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は7度で、日中は快晴となり13度前後、夕暮れ後の6時には10度前後、と報じていた。

私としては平年より5度前後低いので12月中旬ぐらいかしら思い、
秋晴れより冬晴れに相応しい、と微苦笑したのである。

そして、『文化の日』を迎えたので、少しばかり心身緊張して、と心の中で呟(つぶ)きながら、
昨年の時はと思いながら、このサイトを開き、読み返したりした・・。


昨年の2008〈平成20〉年の今頃とは、殆ど最近も変わらないでいる。
ただ、無念ながら、日本酒からビールに変わったことである。

本年の2009〈平成21〉年2月に私の住む調布市の斡旋で、メタボの研修を受講した時、
保健医の若き美麗な女医さんより、
日本酒の弐合をお止めになって、缶ビール350mlを2本までね、と優しく云われて、
指切りまでしてしまい、私は忠実に約束を守り、確かに体重は減ったのである。

そして私は旅行先、冠婚葬祭以外は、原則として自制している。
弐合徳利、ぐい呑みは、寂しそうにしているが、止む得ないと苦笑している。



これ以前の2008〈平成20〉年のこの日のひとつの投稿文として、
【 改めて、『文化の日』を迎えて・・♪ 】
と題して投稿していた。

【・・
私は齢を重ねた64歳の身であり、日頃はネットで【日本文化いろは事典】をこよなく愛用している。

『文化の日』を迎え、先ほどから、『祝日・休日』の項目より、『文化の日』を開き、
読んだりしているが、少し漠然としたのである。

http://iroha-japan.net/iroha/A02_holiday/13_bunka.html
☆【日本文化いろは事典】<==『文化の日』☆

そして私は、具体的に知りたくなり、
フリー百科事典として知られている『ウィキペディア(Wikipedia)』で、
『日本の文化』を開き、ここ1時間ばかり読んでいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96
☆『ウィキペディア(Wikipedia)』<==『日本の文化』☆

私は年金生活の5年生となり、
日頃の多くは、小説、随筆、歴史書、現代史などを読み、
新聞、月刊総合雑誌を読んだりして、活字文化をこよなく愛している。
そして、このサイトに散文を綴り、ほぼ毎日投稿したりしている。

ときおり、映画も居間で鑑賞したり、音楽も聴いたりしている。

外出は年金生活後に日常の買物は私の専任となり、
最寄のスーパーの数軒、ドラック・ストアーに行くことが多い。
そして駅前に出る時は、本屋に寄ったりして、店頭の本を眺めたりして、数冊を買い求めることが多く、
古本屋に行き、買いそびれた本にめぐり逢えた時は、小躍(こおど)りしながら購入し、帰宅したりしている。

そして、こうした買物、散策の時、
樹木や草花を眺めて、季節のうつろいを享受し、
すれ違う女性の何気ないしぐさ、表情から人生の微笑みを感じたり、
或いはご近所の奥様と立ち話をしたりしている。

ときおり庭の手入れをしたりし、季節に応じた樹木や草花に心を寄せたりしている。
そして、私は玄関の軒下、主庭のテラスで、煙草を喫ったり眺めたりしている。

夜になると、晩酌をするので、
その日に応じた弐合徳利とぐい呑みを選び、純米酒の辛口を呑んだりしている。
そして、今の時節は、伊予産の柚子(ユズ)などを齧(かじ)りながら、呑んだりし、
寝る前には玄関の軒下で月を眺め、誉(ほ)めたりしていることが多い。

私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味なので、
ときおり各地に訪れて、その地の風土、文化を学んだりしているのである。
そして、その地の料理を頂きながら地酒を呑んだり、和菓子などの食べ物も賞味したりしている。

このように日々を送っているが、拙(つたな)い私さえ、
さりげなく文化を学び過ごしているのである。
・・】

                               《つづく》
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『文化の日』、過ぎ去りし私の定年後、その年のこの日の思いは・・。《上》

2011-11-03 08:23:36 | 定年後の思い
いつものように購読している読売新聞の朝刊を見ていたら、『文化の日』なのに、
社説とか一般記事に直接に、『文化の日』に関しての記事はないと私は苦笑した。

この後、地元の天気情報をネットで検索していたら、
朝の6時は14度、昼下がり23度前後、そして夕暮れの後の6時に20度前後、と表示され、
午前中は曇りマーク、午後より晴れマークが並んでいた。

この時節としては暖かな朝を迎え、10月初旬のような感じ、と思ったりしたが、
午後より秋晴れに恵まれ、天上の気候の神々も、『文化の日』に際して、
先憂後楽のような采配をして下さり、私のこれまでの人生の歩みと同じようだ、と微笑んだりした。


この後、ばんやりと私の定年退職後の年金生活に於いて、
毎年『文化の日』を迎えて過ごしてきたが、どのような心情であったのか、
と私のブログサイトを読みはじめた・・。

私は2004〈平成16〉年の秋に民間会社を定年退職後、
まもなくブログの世界を知り、幾つかのブログサイトに迷いながら加入し、
パソコンの故障、国内旅行などで投稿できないことを除き、毎日投稿していたので、
昨年までの11月3日の投稿文を読み返していたのである。


昨年の2010(平成22)年のこの日の投稿文のひとつとして、
【 『文化の日』、私は錦繍(きんしゅう)の情景を求めて散策し・・。】
と題して投稿していた。

【・・
私は年金生活7年生の66歳の身であるが、
今朝、カレンダーを見ると、『文化の日』と朱記されていたので、微笑んだりした。

私の住む所は東京郊外の調布市であるが、世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれにあり、
付近には霞嶺神社、明照院があり、私の実家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60年ばかり過ごしているので、
心のふるさとの原景も我が家の周辺にある。

毎年、11月3日の『文化の日』の頃から、数多くの落葉樹の葉は、紅色、朱色、黄色などに染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは紅色、朱色、黄色などに染められている。
この後は公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が主役となり、彩(いろど)りを見せ、
舞い散る頃に12月の『師走(しわす)』を迎えている。

このような情景を毎年この時節の錦繍の情景の移ろいに、日々に心寄せられているので、
私はこの11月は『霜月』とか『雪見月』と古来より称せられているが、
私としては、秘かに『錦繍月(きんしゅうづき)』と命名している。


朝のひととき、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は10度で、日中は晴れ間となり16度前後、夕暮れ後の6時には11度前後が予測され、
さわやかな秋日和に恵まれます、
と報じていた。

私は、このような移ろう錦繍の情景に、ときめきを感じながら見惚(みと)れ、
日頃の運動不足を兼ねて、独りで付近の遊歩道、公園などに出掛けることが圧倒的に多くなり、
歩き廻っているのは、定年退職後の習性でとなっている。


私は定年後は日常の買物の担当となっているので、
午前中にスーパーに2店ばかり買物をした後、昼過ぎに散策した・・。

私の住む近くには野川が流れていて、少なくとも40年前に、
護岸工事のされて整備され、川沿いに遊歩道や小公園も新たに設けられたりしている。

私はさわやかな秋日和の中、この野川の遊歩道を歩きだした・・。

澄み切った青空で風もなく、『文化の日』の祭日の為か、
家族連れの方たちの散策されたり、ジョキングをされる若い人たちを見かけたりした。

川の流れも清流で音もなくゆるやかに流れ、水面は昼下がりの陽射しを受けてきらめいて、
水辺の近くには薄(ススキ)が所々散乱したようにあるが、白い穂となり、
鷺(サギ)、鴨(カモ)、鶺鴒(セキレイ)、椋鳥(ムクドリ)なども見られた。
そして、児童3人が、水遊びしているのを見かけたりした。

この後、桜並木のような数多くの桜を眺めたのであるが、
たわわな葉の中、ほんの一部が朱紅色に染められて、私は微笑んだりしたが、
小公園にある欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、ハクウンボク、ヒメシャラ、
イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどは、
色合いは初秋の余情であり、晩秋の錦繍には程遠かったのである。

帰路、野川の遊歩道からはずれ、団地の近くを歩いていたら、
花水木(ハナミズキ)が朱紅色に染まり、陽射しを受けて光帯びていたので、
しばらく私は見惚(みと)れたりした。

そしてこの中の一本の樹は、散りはじめて、小枝にたわわな朱色の実を付けていた。


帰宅後、庭にある無花果(イチジク)、紫木蓮(シモクレン)の多くの葉が、黄色く染めはじめ、
紫式部(ムラサキシキブ)のたわわな実は、紫色に染められたのを、
私は眺めたりし、一時間半ばかりの散策、
少しは錦繍の情景の初めとしては、確かに受容できたと思ったりしている。
・・】

このように投稿していたが、昨年までの私と今年は、だいぶ変貌した、
と思ったりしている。
もとより3月11日の東日本大震災で各地が甚大な被災となり、
私たち夫婦は、訪れてきた各地の余りにも痛々しい被害に唖然とし、
旅行の予定も中止し、私たち夫婦は日常生活も変貌したのである。

そして巨大な大津波で余りにも多くの人たちが亡くなわれ、
被災された方たちが、そして福島原発で避難されている方たちは明日の見えない生活を過ごされている。

こうした方たちの前では、無力な私は言葉もなく、
被害の甚大を知るたびに茫然と過ごしながら、平常心こそが大切である、
と自身に言い聞かせてきた・・。

昨今は、ヨーロッパの各国で混迷、タイの大洪水、そして円高、株安などで、
肝要な日本経済が大きく揺すぶられ、無力な私でも、
ハラハラしながらニュースを見たりしてきた。

この後、私は平穏な状況にと思いを深めたりし、
過ぎ去った一昨年の2009〈平成21〉年を読み返しをした。

                             《つづく》

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『自己顕示、自己嫌悪・・』、齢を重ねた私は、幾つになっても懲(こ)りない性格、と苦笑し・・。

2011-11-02 16:04:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
殆ど日の出と共に起床し、洗面した後は煎茶を淹れたりし、新聞を取り込んでいるが、
この後に真っ先にすることは、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に向かうのである。

そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。

たまたまある日には、
《・・
   自己顕示

   自己嫌悪
   
   わたしの

    こころ

     うらおもて

             みつを
・・》
このように氏の特有の書体で明記されたりしている。

私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように、
ここ15数年を学んでいるひとりであるが、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中の人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。

私の生家は数多くの一般家庭にある曹洞宗であるが、
私は宗教にも関心がなく、ただ相田みつを氏の遺された名言を、何よりも信愛しているひとりである。

定年退職後の年金生活の私は、このサイトに心の発露を日々綴ったり、
日常の言動は、家内はもとより、ご近所の方たち、
そしてタクシー、バスを待機している時などで、見知らぬ人に話しかけ談笑したりしている。

ともかく明るく振舞い、よくしゃべるので、
家内はときおり、貴方少し静かにして下さい、と言われたりしている。


幼年期から小学生時代までの私は、兄ふたりは学校の成績も良く、
日頃の言動も明るくふるまった優等生があったが、私は何かといじけた無口の劣等生であった。

地元の中学を卒業し、兄ふたりの影響のない都心の私立高校の入学後から、
私は変貌したのである。
都心の中学を卒業した多くの同級生などに授業はもとより、興味ある分野に刺激されて、
私なりに読書が好きになり、文学に目覚めたり、
歴史も好きになり、現代史を学び、そして時事のことも深めたりした。
そして写真の風景画に魅了されたりした。

こうした中で、小学高学年から独りで映画館に通ったことだけは、相変わらず持続していた。


現役だった民間会社のサラリーマンの若き頃は、
上司から、ひとこと多いよ、人に対しお節介だよ、と注意されたくらいである。

私は何事も言ったり態度で示しないと、相手方に理解してもらえない
と信じているので、
定年退職後の今日まで余り変わらないのである。

しかし、ときおり自己主張が強すぎたかしら、このサイトで綴ることが行き過ぎたかしら、
或いは心を整理しないまま発言したり、幼い知識で平然と綴ったりし、
と後になって反省したりし、しばらくの間、心が落胆し沈黙する時もある。

こうしたことが幾たびか、私は重ねたりしている。

たとえば、心を整理しないまま発言したのは、
たまたま衆院選の投票をした時、初めてNHKの『出口調査』を受けたのである。

【・・
(略)
私は投票を終えて、中央道路の両側の樹木を眺めながら正門に出た時、
30代の男性が2人いて、この中の独りが私に近づいてきたのである・・。

『NHKですが・・『出口調査』をしていまして・・ご協力をお願いできますか?』
と目礼をしながら私に云った。

私は30代の男性の右手のNHK腕章を確認した後、
『いいですよ・・』
と私は言ったら、バインダーに載せられた『出口調査表』とポールペンを渡された。

投票された小選挙区の氏名、比例代表の党名、そして支持している党名、
投票した人の年代が羅列されていて、該当に○印を付けるだけであった。

私が○印を付けながら、
『大変ですね・・』
と私は労(ねぎら)いの言葉を30代の男性に言った。

『出口調査にご協力頂けまして・・助かります。
早々と投票をされていますね・・』
と30代の男性は私に微笑みながら言った。

『投票するのは・・国民のひとりとしての・・責任を果たしただけですよ』
と私はさりげなく30代の男性に言った。

『それはご立派なお考えで・・』
と30代の男性は真摯な表情て私に言った。

私は『出口調査表』の○印を終え、30代の男性に手渡し、
お互いに目礼した後、帰路に向った。

途中の坂道を下る時、
『国民のひとりとしての・・責任を果たしただけですよ』
と私は云ったのは、間違いだったと気付いたのである。

『有権者のひとりとしての責務です』
と私は発言すべきだった、と後悔しながら自宅に向ったのである。
・・】

このように私はそそかしい悪い癖があり、少し心の整理をしないと、
こうしたようになり、恥ずかしながら事実ありままをこのサイトに投稿したのである。

古人の人たちより、ケガは治(なお)ってもクセは直(なお)らない、と名言があるが、
こうした名言の前に、齢ばかり重ねた67歳の私は、思わず微苦笑したりしている。

恥ずかしながら思い込みが激しい私は、
余り考えすぎる、と何事も発言も出来なくなったりすることが多いのである。

或いは心の発露として、このサイトにためらったりすると綴れなく、
たとえ書き綴っても平坦な散文になると思い、やむなく思い込んでいることを素直に綴っている。

このように齢を重ね幾つになっても、相変わらず懲(こ)りない性格の私である。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「秋なのに、どうして『小春日和』なんて、言うの・・」と、近所の女の子に問われ、私はうろたえ・・。

2011-11-01 23:19:13 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活67歳の身であるが、
昼下がり川沿いの遊歩道を歩いた。

秋日和の中、陽射しを受けながら歩いていて身も心も爽快であった。

こうした時に、
《 学童が下校の時となりました・・みんなで~学童を・・護(まも)りましょう・・》
と私の住む街の調布警察署から、小学校の下校時に、街中に聞こえるように広報されている。

まもなく学童が数人グループ、或いは10人ぐらい群れて歩いてくるのが見えて、
それぞれ談笑を重ねながら、ときおり歓声もまじえて、歩いている。

そして3人グループの女の子が来て、この中のひとりが知人宅の孫娘さんと私は気づき、
『こんにち~は』
と私は挨拶をした。

この孫娘さんが目礼しながら私に近づいてきて、
『おじさん・・少し教えて下さい・・
先ほど、先生たちが小春日和(こはるびより)で気持ちが良いですねえ・・と言っていたの・・
先ほど私たち6年生なのですが・・秋なのに、どうして小春日和なんて、言ったりしているのが解らなくて・・
お互いに話し合っていたのよ・・
おじさん・・どうしてなの』
と私に問われた。

私は突然に問われて、返事にうろたえながら、
『冬を迎える前の暖かい日を・・小春日和と何気なく言ったりしているが・・
詳しいことは解らないよ・・ご免ねぇ・・』
と私は苦し紛れに孫娘さんに言ったりした。


私は帰宅後、ご近所の自治会の回覧で知り得た碩学(せきがく)の方に電話をして、
ご教示をお願いすることにした。
この方は、ある国立大学の教授をし、近代日本文学を専任され、
退官されて20年ぐらいで、75歳を過ぎた人であるが、
心身健やかに隠居生活を過ごされ、私は敬愛をしている人である。


『君ねぇ・・俳句を詠(よ)まれたことはないねぇ・・』
と碩学は私に言った。

『素養がなくて、詠んだり出来ません』
と私は電話の前で、緊張しながら言ったりした。

『俳句の世界では、冬の季語として小春日和が用いられている・・
しかし旧暦では、もとより冬が10月から始まったが・・
新暦の現代では11月から12月に相当するのょ・・

本格的に寒さを迎える前に、暖かな時期があるので、
こうした陽気に恵まれた日を小春日和として称してきたのょ』
と碩学は優(やさ)しく私に言った。


このような会話を重ねたりし、私は丁重に教示され、
感謝をしながら、御礼の言葉を重ねた。

この後、小春日和は何となく紛(まぎ)らわしく、
私の住む地域では、秋麗(あきうらら)、菊日和(きくびより)、秋日和(あきびより)の方が、
つたない私としては、心にぴったり、と思ったりしたことは本心であった。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『神無月(かんなづき)』に別れを告げて、『錦繍月(きんしゅうづき)』を迎え、私は微笑んで・・。

2011-11-01 07:24:20 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨夜、私は居間にあるカレンダーを見つめながら、
10月の『神無月(かんなづき)』に別れを告げて、カレンダーを破いたのである。
そして、11月の『霜月(しもつき)』に、こんにち~は、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた。

私達夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であるが、
家内は過ぎし25日より独り住まいとなっている家内の母宅に、
冬支度に伴い孤軍奮闘しながら6泊7日で行っていたので、昨夕帰宅した。

この間、私としては『おひとりさま』の生活となっているが、
ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけると、仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるので、特別演習かしら、と私は過ごしてきた。


この間の私の『おひとりさま』は、最初には台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
指定された道路に面した門扉に置く。

そして、読売新聞の朝刊を読みながら、煎茶とアイスコーヒーを飲みながら、
レーズンロールのパンを5つ頂く。

昼食は少し肥満体の私は、この季節は青森産のリンゴ一つ、そして福島産の柿を二つを食べていた。
各種のリンゴ、柿を頂きながら、旅先の情景に思いを重ねて、
婦女子のようなフルーツのランチを享受していた。

夕食はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
煎茶を飲みながら食べたりしている。
そして、たった一夜だけ、純米酒の辛口を4合ばかりの吞みながら、
恥ずかしながら、たった独りだけの宴会をしたりした。

洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機をオール自動セットにすがり、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたり、台所で皿洗いをしたり、
夜の入浴の時間も、原則として7時としてきた。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、家内のいる平素から落第生となっている。

そして作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、
私は叱咤激励されながら、小・中学生の時は劣等生であった私は、
やはり年金生活の劣等生かしら、と苦笑を重ねてきた。


昨夕、家内は帰宅し、近所のお寿司屋さんから配達して頂き、
私は純米酒の辛口、家内はビールを吞みながら、食べたりして、久々の談笑をした。
そして、呑兵衛だった私は、この後も吞みながら、家内の話を聞いたりしていると、
9時過ぎになり、眠気を感じたのである。


今朝、目覚めたのは朝の4時半であり、日の出前より早い、と微苦笑した。
そして6時半過ぎに、雨戸を開けたら、樹木の枝葉は夜露をたたえて、
まばゆい陽射しを受けたキラキラを光帯びて、まぎれなく確かな美のひとつ、
と長らく見惚(みと)れたりしていた・・。

この後、私は小庭にある無花果(イチジク)、紫木蓮(シモクレン)の数多い葉が、
黄色く染めはじめの見つめたり、
昨日に買物から帰宅した時、玄関庭にある紫式部(ムラサキシクブ)のたわわな実が、
紫色を深く染め、昼下がりの陽射しを受けていた。

このような情景を思い重ねたりしていると、
この11月は『霜月』とか『雪見月』と古来より称せられているが、
私としては、秘かに『錦繍月(きんしゅうづき)』と命名している。

私の住む所は調布市の外れにあり、世田谷区、狛江市に隣接している地域で、
毎年、11月3日の『文化の日』の頃から、数多くの落葉樹の葉は、紅色、朱色、黄色などに染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは紅色、朱色、黄色などに染められている。
この後は公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が主役となり、彩(いろど)りを見せ、
舞い散る頃に12月の『師走(しわす)』の初旬を迎えている。

私は毎年この時節の錦繍の情景の移ろいに、日々に心寄せられている。


先ほど、地元の天気情報を見ていたら、
朝の6時は13度で、日中は晴れ間となり21度前後、夕暮れ後の6時には16度前後が予測され、
これからの一週間は晴れマークとなり、秋日和となる。

私は、このような移ろう錦繍の情景に、ときめきを感じながら見惚(みと)れ、
日頃の運動不足を兼ねて、独りで付近の遊歩道、公園などに出掛けることが圧倒的に多くなり、
歩き廻っているのは、定年退職後の習性となっている。

私は早春の芽吹き、この時節の錦繍の情景が、つたない私の無上の喜びとなり、
心の中は小躍(こおど)りするような時節となっている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする