夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『夏ズイセン』の花を初めて学び、やがて私は沖縄『ずゐせん学徒隊』に思いを重ねて・・。

2012-08-16 10:52:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
過ぎし9日のひととき、ブログランキング・サイトのひとつ『ブログ村』に加入しているので、
この中の数多くの方の投稿文を読んだりしている中で、
ひとつの投稿された写真の花に瞬時に見惚(みとれ)れてしまった・・。
http://plaza.rakuten.co.jp/kobaruto4105/diary/201208090001/
☆【 気ままな生活 】<==8月9日:『夏ズイセン(裸百合)』☆

私は夏ズイセン・・夏水仙とも明記された写真を見ながら、
私の幼年期の頃に、父の妹の叔母たちが花好きで、畑の外れに草花を植えたりし、
百合の花も各種あり、私は幼児ながら見たり、その後の私は特に白百合などを植えたりしてきた。

この『夏ズイセン(裸百合)』の写真を拝見し、解説文を読ませて頂きながら、
圧倒的に魅了され、投稿して下さった未知の方に感謝した。

その後、私は庭のテラスに下り立ち、モミジの樹の下の緑陰に身を寄せながら、
燦々と照らす庭を眺めたりした。
こうした時、あの『夏ズイセン(裸百合)』の花は、
もしかしたら『ずゐせん学徒隊』の花と関連があるのかしら、と私は思い重ねてしまった。

その後、昨夜も夢に出でしてきまい、やはり現(うつつ)に私の思いを発露しなければ、という思いで拙文を綴る。


私が『ずゐせん学徒隊』のことを初めて知ったのは、
2007〈平成19〉年10月15日であった。
購読している総合月刊誌の『文藝春秋』の読み残した記事を読みはじめた・・。

ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿され、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、 副題が【沖縄の悲劇を胸に】と題されていた。

私は沖縄に関しては、高校生以来、真摯な思いで関心はあるが、
かの大戦の過酷な沖縄地上戦に於いて、看護要員として『ひめゆり学徒隊』は知識として少しは知っていたが、
恥ずかしながら『ずゐせん学徒隊』は全くの無知であった。

作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの綴られた記事を引用させて頂ければ、
《・・
沖縄戦で犠牲になった沖縄県出身者は約12万人、うち軍人・軍属は約2万8000人で、
残りの10万人近くが民間人である。
すべての中学校、高等女学校で学徒隊が編成され、男子は鉄血勤皇隊、女子は看護隊として戦場に動員された。
男子は14歳から19歳、女子は15歳から19歳である。
そのうち、男子1559名、女子446名が戦場で亡くなっている。
・・》

私が無知で、想像力が欠けていたのは、すべての中学校、高等女学校・・
と明記された内容であった。

作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんのこの寄稿された全文の中で、
『ずゐせん学徒隊』に関しては最初のほんの一部に過ぎないが、
長年の歳月の熱い心情で、淡々した基調で綴られている・・。

首里高等女学校の学徒隊は『ずゐせん学徒隊』と命名されて、61名で構成され、
33名の方が亡くなわれ、ずゐせんの塔として、まつった慰霊塔である。
この中で生き残られたひとりの方の証言と念願された言動を記載されている。

作家が取材で訪れた時、
『ひめゆり塔』には大きな献花台からこぼれ落ちるほどの花束が供え、
数百メートルしか離れていない『ずゐせん塔』には一輪の花もなく、
と記載されている。

『ずゐせん学徒隊』の生き残られたひとりの大正15年生まれのお方が、
「・・ひめゆりばかりが有名になって、
同じように戦場で亡くなったずゐせん学徒のことは、
誰も知らないし追悼もされてない。
それがずっと悲しくて、悔しくて・・」
と証言されて、
1993〈平成5)年4月、両陛下が出席する植樹祭の会場の近くに『ずゐせん塔』があるので、
両陛下に塔を見て頂きたく直訴した。

県知事に嘆願書を提出し、知事が不在だったので、副知事の前で嘆願書を読み上げた・・。

『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
女性でも戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わず・・
衛生兵とともに奮闘致しました』

『生き証人は黙っている事が出来ません。
33名の代わりに声を大にして、「ずゐせん隊はかく戦えり」
と叫びたいのであります』

この後、副知事から宮内庁を通し、陛下に伝えられた。

そして陛下のご希望に寄り、植樹祭の前に、両陛下から、ずゐせん塔に供える花束を託され、
『・・天皇陛下が私に、戦争の時はこのあたりにも来ましたか、
とおっしゃった。
・・
このあたりは、飛び交う弾の中をさまよい歩いたところです。
たくさんの友達が死にました・・。
陛下は、苦労なされましたね、
と言ってくださった』

そして、両陛下に自作の琉歌を披露され、
沖縄の文化に造詣が深く、みずからも琉歌をつくる天皇はご理解され、
翌日、所望された陛下に清書され届けられた。

そして、両陛下の車は、
ずゐせんの塔の前を、ほとんど停止に近い最徐行でゆっくりと進み、
お2人は窓を開けて、じっと瞑目(めいもく)された。

このような概要であるが、かの大戦で日本本土で沖縄諸島だけが地上の戦場となり果て、
民間人の老幼婦女子、そして若き学生まで巻き込まれ悲惨と過酷を思い浮かべる時、
敗戦の一年前に生を受けた私さえ、胸は熱くなり、やがて深夜ひとり涙を流した。


この数か月の前、独り住まいの家内の母が、『ひめゆりの塔』を死ぬ前に一度は観たい、
と家内に言ったりしていたので、私たち夫婦は家内の母を誘い、
高齢者に見合った日程の沖縄本島を2007〈平成19〉年の10月29日より8泊9日で訪れた。

羽田空港を20分ばかり遅れて、那覇行きの航空便は離陸した。

私は2時間半ばかりの機中の時間は、煙草も喫えず、退屈きわまりない時であったので、
過日知った『ずゐせん学徒隊』のことを思い浮かべてた・・。

そして、このことを私は別ブログに綴って投稿し、
この私の掲示板に、沖縄の男性より、
『友の碑~白梅学徒の沖縄戦~』のサイトを教示して下さり、
私は初めてこのことも知り、感銘を受けた後、資料として印刷した。

この資料を今回の旅に持参し、機中で再読した。
改めて、監督のメッセージ、企画制作意図を精読し、あの時代に思い馳せると、
心は高まり、そして瞼(まぶた)が熱く、やがて涙があふれてきた・・。

私達夫婦は15年前に来ていた『ひめゆりの塔』を行く前に、
『ずゐせんの塔』に花をささげたいと、私は家内たちに言った・・。

家内たちには、ずゐせん学徒隊に関しては、旅行の合間に話していたのである。

『ずゐせんの塔』は、主要道路から脇道を少し奥まった地にあり、
午前の陽射しを受け、さわやかな風が吹き、静寂な墓地であった。
私達は花をささげて、両手を合わした後、しばらく黙祷をした・・。


このような旅路の中のひとときであったが、私は今でも心の片隅には『ずゐせんの塔』が残っているので、
今回、偶然に『夏ズイセン(裸百合)』を掲載されたサイトにめぐり逢い、
このような心情を思い重ねたのである。

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8月15日『終戦記念日』、無力な私でも、皇居に向い、黙祷を終えて・・。

2012-08-15 07:30:31 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
洗面した後、まばゆい朝の陽差しの中、主庭のテラスに下り立ったのは、朝の5時50分過ぎであった。

そして襟を正して、皇居の方面に向かい、黙祷した・・。

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、黙祷をしてきた。

そして本日の15日の敗戦なのに『終戦記念日』称しているこの日には皇居に向かい、
黙祷をして、少なくとも36年になる。

かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、 黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。

本日の15日、67回目の終戦記念日を迎え、
政府主催の『全国戦没者追悼式』が東京都千代田区の日本武道館で開かれる。
こうした中で、天皇、皇后両陛下をはじめ、野田佳彦首相、遺族代表ら約7000人が参列される予定で、
日中戦争と第二次大戦で犠牲となった約310万人のご冥福を祈り、平和への誓いを新たにし、
そして正午に全員で黙祷を捧げることとなっている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。

私は、皇居に向って黙祷をする真情は、 かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の時代の現実に生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。

いずれにしても、戦争は多くの場合は外交の破綻から発生し、
最悪の場合は戦争となるが、勝戦国となる国民も敗戦国となる国民も余りにも過酷で悲惨である。


私はここ6年ばかり、この15日に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌を重ねたりしている。

   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         
                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
                       平成天皇

私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代を少し学んできた歳月に思いを馳せ、まぎれない鎮魂曲のような感じている。

この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、 詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、
と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17)年の9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と確か読売新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを馳せたりしているのである。


私は毎年、『全国戦没者追悼式』が執り行われている中、
テレビの実況中継を視聴し、国歌斉唱の後に時の首相が式辞を述べ、正午に全員で黙祷が行われる。
『黙祷・・!』の声を聴くと、
思わず襟を正して黙祷をした後、天皇陛下のお言葉に姿勢を正して拝聴し、
この後に、このふたつの歌を思い重ねている。


尚、私は8月15日は、『終戦記念日』と、どなたが名付けたかは無知であるが、
国際間の主要国の怜悧な視線からは、まぎれなく敗戦であり、
都合よく『終戦』と命名された方たちは、
国際各国から観た場合は、国家としての信義にかかわることなのである。

そして、命名された方たちは、余りにも恥知らずと思ったりしながら、
私は無力ながら『敗戦記念日』と確信しているひとりである。

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たかが『お盆提灯』されど『お盆提灯』、つたない私でも、なぜかしら圧倒的に魅せられて・・。【下】

2012-08-14 12:31:38 | 定年後の思い
やがて私が高校に入学した1960(昭和35)年の春、
私たち子供は中学、高校、そして大学が進むあいだ、
入学金や授業料はもとより、何よりも育ち盛りで家計が多くなった。

そして母は、ラブホテルのような旅館を小田急線とJRの南武線の交差する『登戸駅』の多摩川沿いに建て、
仲居さんのふたりの手を借りて、住み込み奮闘して働いた・・。
やがて、私達の生活は何とか普通の生活になった。

この当時の母は、里子として農家に貰われ、やがて跡取りの父と結婚し、
これといった技量といったものはなく、素人の範囲で何とか子供の五人を育ちあげようと、
なりふりかまわず連れ込み旅館を経営までするようになった、と後年の私は思ったりしたのである。

確かに母の念願したとおり、兄ふたりと私は大学を入学し、
妹ふたりは高校を出たあとは専門学校に学ぶことができたのである。

この間の母は、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
子供たちを何とか世間並みの生活に、と働らいたくれた成果として、
ふつうの生活ができた上、私たち五人の子供は成人したのである。


まもなく、この地域で10数件あったラブホテル、連れ込み旅館は、
世情が変貌して衰退する中、母もアパートに改築した。

そして私達はお互いに独立して、社会に巣立ち、
私も25歳で遅ればせながら、民間会社に中途入社した後、
結婚する前の3年足らず、母が住んでいるアパートの別棟に同居したりした。

この後、私は結婚して、千葉県の市川市の賃貸マンションで新婚生活を過ごした後、
実家の近くに一軒屋を建て、2年後に次兄は自営業に破綻して、自裁した。


私は次兄に声ばかりの支援で、私も多大のローンを抱えて、
具体的な金策の提案に立てられない中、突然の自裁に戸惑いながら、後悔をしたりした。
何よりも、親より先に絶つ次兄を母の動揺もあり、私なりに母を不憫に思ったした時でもあった。

そして特にこれ以降、私達夫婦は、毎週の土曜日に母と1時間以上電話で話し合っていた。

母は食事に関しては質素であっても、衣服は気にするタイプであったが、
古びたアパートの経営者では、ご自分が本当に欲しい衣服は高く買えなく、
程ほどの衣服を丸井の月賦と称せられたクレジットで買い求めていた。

私は民間会社のサラリーマンになって、賞与を頂くたびに、
母には衣服を買う時の足しにして、とある程度の額をお中元、お歳暮の時に手渡していた。


この頃、親戚の裕福のお方が、身体を壊して、入院されていたが、
母が見舞いに行った時は、植物人間のような状態であった、と教えられた。

『あたし・・嫌だわ・・そこまで生きたくないわ』
と母は私に言った。

母は寝たきりになった自身の身を想定し、
長兄の宅などで、下半身の世話をなるのは何よりも険悪して、
私が結婚前に同居していた時、何気なしに死生観のことを話し合ったりしていた。

容態が悪化して、病院に入院して、一週間ぐらいで死去できれば、
多くの人に迷惑が少なくて良いし、何よりも自身の心身の負担が少なくて・・
このようなことで母と私は、自分達の死生観は一致していたのである。

このことは母は、敗戦後の前、祖父の弟、父の弟の看病を数年ごとに看病し、
やがて死去された思い、
そして近日に植物人間のように病院で介護されている遠い親戚の方を見た思いが重なり、
このような考え方をされたのだろう、と私は確信したりした。


やがて昭和の終わり頃、古びたモルタル造りとなったアパート経営をしていた母に、
世間のパプル経済を背景に、銀行からの積極的な融資の話に応じて、
賃貸マンションを新築することとなった。

平成元年を迎えた直後、賃貸マンションは完成した。
そして3ヶ月過ぎた頃、
『あたし、絹のブラウス・・買ってしまったわ・・少し贅沢かしら・・』
と母が明るい声で私に言った。

『お母さんが・・ご自分の働きの成果で買われたのだから・・
少しも贅沢じゃないよ・・良かったじゃないの・・』
と私は心底からおもいながら、母に云ったりした。

この前後、母は周辺の気に入ったお友達とダンスのサークルに入会していたので、
何かと衣服を最優先に気にする母にとっては、初めて自身の欲しい衣服が買い求めることが出来たのは、
私は、良かったじゃないの・・いままでの苦労が結ばれて、と感じたりしていた。

母が婦人系の子宮ガンが発見されたのは、それから6年を過ぎた頃であった。
私達兄妹は、担当医師から教えられ、
当面、母には悪性の腫瘍があって・・ということにした。

それから1年に1ヶ月程の入院を繰り返していた。
日赤の広尾病院に入院していたが、
母の気に入った個室であって、都心の見晴らしが良かった。


1997(平成9)年の初春、母の『喜寿の祝い』を実家の長兄宅で行った。
親族、親戚を含めた40名程度であったが、
母は集いに関しては、なにかしら華やかなさを好んでいるので、
私達兄妹は出来うる限り応(こた)えた。

そして翌年の1月13日の初春に死去した。

母は最初に入院して、2回目の頃、
自分が婦人系のガンであったことは、自覚されたと推測される。
お互いに言葉にせず、時間が過ぎていった。
ご自分でトイレに行っている、と私が見舞いに行った時、看護婦さんから教えられた、
私は母の身も感じ、何よりも安堵したのである。


私たち兄妹は無念ながら次兄は40歳前に自裁され、欠けた4人となり、
そして60、50代となった私たち兄妹は、
もとより亡き母へのつぐないもこめて、葬儀は実家の長兄宅で出来うる限り盛会で行った。

母は昭和の時代まで何かと苦労ばかりされ、
晩年の10年間は、ご自分の好きな趣味をして、ご自分の欲しい衣服を買われたのが、
せめての救いと思っている。

納骨の四十九日目の納骨の『七七忌』法要、そして『百カ日』と続き、夏の新盆となった。

この少し前、長兄から盆提灯のことで電話連絡があり、、
『親戚、知人から思ったより多く盆提灯を頂いているので・・
悪いけれど妹たちと一緒にひとつにしてくれない』
と私に連絡してきた。

そして私は妹のひとりがデパート関係に勤めていたので、長兄から事情を話し、
お母さんの好きな桔梗の入った盆提灯を買って欲しい、
と私は言った。

そして妹のひとりは、絹地の高価な盆提灯を買い求め、
お母さんには何かと苦労をかけたので、相応しいよ、と私は妹に微笑みかけたりした。

そして長兄宅で新盆飾りの中、私たち三人が捧げた盆提灯を私は見ながら、
これまでの母の歩んできた人生の幾つかのしぐさ、言葉を思い馳せたりした。

こうした中でも、私の心は、母親の死去で失墜感、空虚感があった。
世間の人々は残された息子は幾つになっても、父親の死より、母親の死の方が心痛と聞いたりしていたが、
私の場合は父は小学2年に病死され、もとより母、そして父の妹の叔母に育てられたので、
53歳を過ぎた私でも心は重かったのである・・。


このような思いが盆提灯に私は秘めているので、我が家の居間に飾れば良いかしら、
と思っているのであった。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家族であり、
いずれ片割れとなり、確率は少ないけれど、私が『おひとりさま』になった時、
秘かに決意していることがある。

家内の写真を定期入れに愛用していた皮のケースに入れて私は持ち歩き、
独り住まいの居間には、盆提灯を置き、私たち夫婦が歩んできた人生に思いを重ね、
叱咤激励されたり、ときには優しかったりしてきたが、楽しかったょ、
と私は心の中で呟(つぶや)く、と思われるのである。

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たかが『お盆提灯』されど『お盆提灯』、つたない私でも、なぜかしら圧倒的に魅せられて・・。【上】

2012-08-14 12:15:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
過ぎし7月の中旬のひととき、家内とデパートに買い物に行った。

何かしら家内は外出用の日傘が古くなったので買い求めたく、
私はホディガード、そしてお供で行った。

そして家内は日傘の売り場で数分迷った後、買い求めたのであるが、
『せっかく新宿まで出てきたので・・少し付き合ってくれょ・・』
と私は家内をお盆提灯の売り場のコーナーに誘った。

そして数多くのお盆提灯が展示されて、吊り提灯やモダンな置き提灯まであり、
お洒落で良いなぁ、と見惚(みと)れたりした。

しかしながら、やはり床置き用の3本足の上に火袋があり、上部に雲手を付けた大内行灯(おおうちあんどん)で、
絹地で花模様の付いた岐阜産のあるメーカーに、私は瞬時に魅せられた。

『こうした提灯・・居間の中に置きたいよねぇ』
と私は家内に言った。

『貴方ぁ・・日常生活の中にいつも置くなんて・・悪趣味ょ』
と家内は私に微笑みながら言った。

私が盆提灯に魅せられたのは、私の母の新盆の時からであった・・。


私の母は、広尾にある赤十字の病院で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998(平成10)年1月13日の深夜の1時過ぎに亡くなった。
そして前年の1月に新年会を兼ねて、母は77歳を迎えるので『喜寿の祝い』をしたこともあるが、
78歳になったばかりに他界され、私は53歳の時であった。

年末に体調が悪化して、救急車で入退院をしていた赤十字の広尾の病院に運び込まれた。
年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社に於いて勤務していた時は、少し緊張気味で覚悟はしていた。

こうした状況の中、12日に帰宅した後、家内と夜の9時過ぎに食事し、少し呑んだりしていた。

長兄より連絡があったのは、10時過ぎであり、
長兄夫婦、私達夫婦が長兄の自動車でかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、穏やかな表情をしていたので、何よりの慰めと思った。
そして甥の長兄の子供二人も到着後、真夜中の1時過ぎに、母は見守られるように死去した。


私の実家の長兄宅の一室に母の遺体を安置した後、
葬儀は私の実家の長兄宅で行うことを長兄と私、親戚の叔父などで取り決めた。

仮通夜はどんよりとした曇り空の寒い一日となり、
翌日のお通夜の日の朝から、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、
ご近所のお方の尽力で、実家、周辺の雪かきをして頂いたりした。

そして、翌日の告別式は積雪10センチ前後の晴れ渡った中で行われた後、
火葬場に向う車窓から、除雪された雪がまぶしく私は感じられたのである。
帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った・・。

         
母の実家は、明治の中頃、国内有数のある企業の創設に関わった都心に住む裕福な家であるが、
跡継ぎの肝要のこの家の長兄が結婚前に遊び果てていた時、
ある人気の出始めた芸者との交遊との結果、母が生まれた。

この頃の風潮として、当然ながらある程度の富豪の家としては、
家柄の名誉に関わる問題となったので、ゆむなく母は里子に出された・・。

私の祖父の親戚の家をワンクッションして戸籍の経路を薄れさせた後、
私の生家に貰われてきたのは、母が一歳前で1921(大正10)年であった。

私の祖父は、農家で田畑、雑木林、竹林などがあり、使用人、小作人を手を借りて、
東京郊外のよくある旧家であった。
そして祖父は、男2人、女も4人の子を設けていたが、祖父の妻は末児が生まれた後、
まもなく亡くなった。

こうした中で、母は祖父の子供と一緒に幼年期、少女期を過ごした。

母の実家からは、いくばくかの金銭、品物が絶えず送られてきて、
祖父としても母を粗末には出来なかったが、
母の級友の何人かは上級の中等高校に行ったのに、母は家の何かと便利のように手伝いとして使われた。

この当時の母は13歳であり、祖父は村役場の要職を兼ねていたので、
書生のようなことも手伝いをさせられたり、もとより田畑の作業も駆りだされていた。
後年、私が高校生になった時に感じたのであるが、確かに母の筆跡は綺麗な部類に入っている。

この時、母の級友であったひとりが後年に都会議員となった時、
『あの方・・あたしの小学校の同級生なの・・
家柄も良かったけど・・大学まで行けたのだから、幸せな方・・』
と母は私に言った。

私は母が上級の学校、少なくとも中等高校、希望が叶えられたら大学の勉学をしたかった、
と私は母の思いが初めて解かった。

母の尋常小学校の卒業しかない学歴を私たち子供の前で、
ため息をついたのを私は忘れない・・。


母は祖父の子供達に負い目とひけ目の中で過ごされたと思うが、
祖父からしてみれば、母の実家から多くの金銭の贈り物で田畑、金融資産を増やしたことも事実である。

こうした環境の中で、祖父の子供の跡取りの長兄と母が17歳になった時、結婚した。
母は父の弟、妹の4人と共に母屋の屋根の下で生活を共にするのだから、
何かと大変だった、と私は後年になると思ったりした。

後年、母は看病の末、亡くなった祖父の弟や父の弟、
そして父の妹たちの婚姻などもあり、多くの冠婚葬祭もあって、
親族、親戚の交際は、何かと気配りが・・と私に語ったことがある。


そして父が死去される前の1952(昭和27)年、私が小学2年なる秋の頃、
母は家の裏にある井戸のポンプを手でこぎながら、バケツに満たそうとしていた。
風呂桶に入れるために、つるべ落としのたそがれ時だった。

♪あなたのリードで 島田もゆれる
 チーク・ダンスの なやましさ
 みだれる裾も はずかしうれし
 芸者ワルツは 思い出ワルツ

【 『芸者ワルツ』 作詞・西條 八十、作曲・古賀政男、唄・神楽坂はん子 】

母がこの当時に流行(はや)っていた歌のひとつを小声で唄っていた。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。


母の唄っている歌を聴きながら、華やかさの中に悲しみも感じていたが、
♪みだれる裾も はずかしうれし、
聴いたりすると子供心に色っぽい感じをしたりしていた。

母は幾つになって自覚されたのか解からないけれど、里子の身、
その後の祖父の長兄との結婚後、何かと労苦の多い中、
気をまぎらわせようと鼻歌を唄いながら、その時を過ごされたのだろう、
と私は後年に思ったりした。


1953(昭和28)年の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたり、
そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。


このような時、翌年の春のお彼岸の近い日に、母の実家の方が心配をされて家に来た・・。

母からしてみれば、実の父の正規な奥方になった人であり、
家柄も気品を秘めた人柄であったが、思いやりのある人であった。
この方が実の父の妹を同行してきた。

このうら若き方は映画スターのようなツーピース姿でハイヒール、帽子と容姿で、
私は小学3年の身であったが、まぶしかった。
そして、あれが東京のお嬢さんかよ、と子供心でも瞬時で感じたりした。

この人は、幼稚園の頃から、人力車、その後は自動車でお手伝いさんが同行し、
送り迎えをされてきたと聞いたいたからである。

私は子供心に困窮した家庭を身に染み付いていたが、
何かしら差し上げるものとして、母に懇願して、
日本水仙を10本前後を取ってきて、母に手渡した。

『何も差し上げられなく・・御免なさい・・』
と母は義理にあたる妹に言った。
『お義姉(ねえ)さん・・悪いわ・・』
とこの人は言った。

そして『この子・・センスが良いわ・・素敵よ・・ありがとう』
と私に言った。

私は汚れきった身なりであったので、恥ずかしさが先にたち、
地面を見つめていた。

私にとっては、このお方を想いだすたびに、
『水色のワルツ』の都会風のうら若き女性の心情を思い浮かべる。

この『水色のワルツ』、そして『芸者ワルツ』歌のふたつは、
私にとっては血は水より濃い、と古人より云われているが、
切り離せない心に秘めたひとつの歌となっている。


祖父が生前の時、村役場の要職を兼ねて農業をしていたが、
祖父も父も大学で学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
祖父が亡くなる直前、初めて国立の中学校に入学できて、周囲の期待に応(こた)えたのである。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。

このした中で、私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。


そして祖父が亡くなった後は、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡されたのである。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。

そばにいた小学5年の次兄は母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏でも・・PTAの会費・・払おうよ・・』
と次兄は怒りの声で母に言った。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない我が家の畑で農作物を採り、
程近い国際電電公社(現在・KDDI)の社宅に売りに行ったのである。
このお陰で、何とか人並みにPTAの会費を支払うことができたのである。

長兄は旧家の跡取りであったので、たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
一家の主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。


この間の私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。

この頃、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、
【二等兵物語】で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感動しなから、深く感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
普段無口の癖、ときたま怒り出すので、伊豆七島のひとつの大島の活火山の由来だった。

私が小学5年になる頃、小学校の音楽室にピアノが導入されて、
何かしら女の子の児童はピアノに触れることが、羨望の的となっていた。

そして母は私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春、
やむなく田畑を売り、駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、
家計は余裕もなかった。

妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
妹達は先生にほめられた、と母は聴いて、有頂天になり、無理してピアノを購入した。

小学校の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等生であった。

その後、私が25歳を過ぎた時、民間会社に中途入社し、たまたまレコード部門に配置されて数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・
家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・
信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。

今の兄妹は、日常は音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけである。

そして、母が苦労して購入したピアノは、10数年後、埃(ほこり)を被(かぶ)り、
中古業者に引き取られた。

あの当時の1958(昭和33)年頃は、東京郊外に於いて、
サラリーマンなどの女の子のいる家庭では、
ピアノの練習曲のバイエルなどを習い、少しばかり誉められると、
親は無理しながら、秘かに子供に期待し、ピアノを購入した宅が多かったのである。
このようなことを思い浮かべ、私は微苦笑したりしている。
         
                         《つづく》

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『まざまざと在すがごとし魂祭』と学び、やがて私は生家の『お盆の日』に思いを重ね・・。

2012-08-13 10:27:28 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
今朝、ぼんやりと一冊を本を再読していたら、この中の一句が心に沁みた。

まざまざと 在(いま)すがごとし 魂祭(たままつり)
                        季吟(きぎん)
           
長谷川櫂(はせがわ・かい)・著作の『四季のうた』(中公新書)の中の一句であるが、
俳句、短歌にも詠めなく素養のない私は、ときおり読みなから学んでいる。

この俳句は、現代の俳壇の雄である長谷川櫂(はせがわ・かい)氏の解説に寄れば、
《・・
八月は死者を想(おも)う月である。
六日と九日は原爆の日、十五日はお盆と敗戦の日が重なる。
お盆は先祖の精霊を家に迎える行事。
生者は死者がまるでそこにいるかのようにもてなす。
季吟は江戸初期の古典学者。若き芭蕉に学んだ。
・・》
このような解説が綴られている。

遅ればせながら私は、江戸前期の歌人、俳人の北村季吟(きたむら・きぎん)の遺(のこ)された一句を学び、
圧倒的に心に沁みた。
そして詠まれた時代は、江戸前期だったので、先祖の精霊を家に迎える『お盆の日』のこと、
と解り、遥か遠い人々の思いも、現在生かされている私たちも同じだ、と感じられた・・。

そして私は生家の『お盆の日』に思いを馳せたりした・・。

私の実家は付近の地域は、古来より8月1日は『お盆の日』となっている。

私は東京郊外の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域で、
1944(昭和19)年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほどの広さ田畑を小作人だった人たちの手も借りて、耕していた。

そして竹林、雑木林を維持管理し、田んぼの外れに半反(150坪)ぐらいの広さの蓮専用の水田があり、
田んぼの一角に湧水(わきみず)があり、幼児の頃から長らく湧き出す水の流れを見つめたりし、
この湧水から清流が流れ、やがて小さな小川となり、生家の田んぼの中を流れて行った。

私は父が病死したり、まもなく祖父が亡くなる小学三年生の頃までの情感を思いだしたりした。
遠い55年以上の前のことであるが、『お盆の日』の行事に関して、
心の片隅に残っている記憶を頼りに思い馳せたりした・・。

【迎え火】
7月30日の午前中のひととき、
仏間にある仏壇から位牌と仏具一式を取り出した後、仏壇の扉は、このお盆の期間だけ閉じられ、
この前に畳一帖ぐらい台に盆棚と称せられたこのお盆の時だけの棚が設置された後、
この盆棚に移された。

そして盆棚の中央の奥に位牌を置き、周辺に野菜、果物を供えられ、
胡瓜(キュウリ)に割り箸のような足を付け馬を見立て、
茄子(ナス)も同様な形で牛に見立てたものを飾っていた・・。

後年になると、叔父さんから、
馬は祖先の霊に乗って、この世にに戻り、
牛はお墓に戻る時に乗って帰られる、と私は教えられたりした。

台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮(ハス)の葉に茄子(ナス)を小さく刻んだのを浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の百合(ユリ)の花などの草花を飾り、この中で蓮の花が中核となっていた。

この当時の生家は、蓮(ハス)は蓮専用の水田から、七月の頃に莟〈つぼみ〉となり、
やがてこの中から六本ぐらい少し花が開きかけた六本ぐらい祖父か父が取ったものであり、
百合(ユリ)の花などの草花は、父の妹の叔母たちが、畑の外れに花畑を作り、
殆ど一年の中の仏事の行事にまかなっていた。
そしてミソ萩は、湧水の周囲に群生させたのを、飾っていた。

果物のひとつに梨(ナシ)、柘榴(ザクロ)があるが、これは祖父が丹精こめて育て上げられ、
幼児の私は祖父に捥(も)いでもらい、食べたりしたが、
柿(カキ)と同様に、盆棚に飾られていた。

この日の夜から、お盆の送り火が終えるまで、
朝昼夜に水とご飯、そしてボタ餅を供えたりしていた。

この日の夕刻になると、稲の藁(ワラ)で作った松明(たいまつ)の灯りを先頭に、
祖先が埋葬されているお墓に行き、
参列者の家族一同は、おのおの手を後ろに組み、祖先を乗せて、帰宅するが、
盆棚の前で、手を解く、
こうしたことが、この地域の迎え火の暗黙のしきたりとなっていた。

【お盆の日の当日は・・。】
叔父、叔母をはじめとする親戚、縁者が来宅し、
盆棚でお線香を上げて頂き、盆棚の近くの広間で、煮しめ、ボタ餅を食べながら、
世間話をしたりした後、帰宅して頂く。
この間、僧侶を招き、読経をして頂くのが、恒例となっていた。

【送り火】
お盆の日の当日の夕刻、
家族一同は盆棚の前で、各自に手を後ろに組み、あたかも祖先を乗せて、
お墓に行き、手を解くのが、送り火と定められていた。

その後は、盆棚は整理され、位牌、仏具などは、いつものように安置している仏壇に納められる。

このように記憶していたが、遠い昔の出来事であるから、定かでないが、心に残っている。


私が定年後になると、家内と共に8月1日の『お盆の日』は、
朝の9時半前に、実家の長兄宅に行き、
簡略となった盆棚でお線香を上げ、長兄夫婦と談笑した後、
この後に来宅された親戚の叔父、叔母たちに私の少年期まで何かとお世話になったので、
この頃の時代の話を私はしたりすることが多い。
このようなことが7年ばかり続いている・・。

長兄宅を辞した後、家内とお墓参りに向うが、
自宅に戻り、お線香、お米を持ち、途中で花屋に寄り、
生前の母が好きだったお花を買い求めたりしている。

その後、路線バスに乗るか、或いは20分ばかり歩いてお寺に着く。

境内は広く、大きな樹木が数多くある上、平日が多く、一層に静寂となる。
そして外気は、暑さを樹木の枝葉がさえぎっているので、幾分涼しげとなる・・。
ときおり、蝉の声が境内と墓地の間の大きな樹木から聴こえる蝉しぐれとなり、
毎年の習性のような情景となる。

私は少なくともお墓参りは、生者の慰めと知っているが、
少なくとも亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたのは、まぎれないことであるので、
私は感謝の一心で、お墓参りをしている。

家内は母が生前の時、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、
私は今でも家内と母に秘かに、今でも感謝している。

お墓に行き、墓石を水で清め、お花を挿(さ)して、お米を備える。
そして、お線香を奉(ささ)げる。

私はお参りをするたびに、私が50代の半(なか)ばの時に、
病死された母のおもかげがよぎる。

私の場合は、父が私の小学2年の三学期だった時に病死され、
その翌年の5月に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のわずかなしぐさ、
言葉づかいが想いだされる。
お線香の煙が芳香を残して、空の中、立ち昇りながら消える・・。

その後、水屋の周辺の大木の樹木の中、
蝉の鳴き声が響きかせながら、盛大に聴こえることが多いのである・・。

このように私は、旧来からの『お盆の日』を迎え、毎年の習わしとなっている・・。

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ときには『おひとりさま』の生活、愚図の高齢者の私、何かと慌ただしく過ごし・・。

2012-08-12 10:24:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であるが、
家内は過ぎし8月5日より独り住まいとなっている家内の母宅に10泊11日で行っている。

私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から電車・バスなどで2時間ばかりの千葉県の八千代市で、
一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
独り住まいの生活をされて、早くも8年近くなっている・・。

家内の母は友人たちのグループで、国内旅行、買い物などを楽しんで過ごしたり、
ときおり自身の故郷の新潟県の上越市(旧・高田市)に里帰りし、
同期の人たちと交流を深めたりしている。
そして83歳となっている今としては、
身体は衰えても心は溌剌として元気である、と私は感じたりしている。

このような中で、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて、年に6泊7日前後で5回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。

家内の母は昨年の12月から足腰が衰え、病院の指導で杖(つえ)を使い歩いたりしてきた。
そして介護保険の行政サービスのアドバイスで、
家の中でベット、お風呂場、トイレ、小庭の出入り口などに、手摺(す)りを設置したり、
これから不要と思われる日常の備品、洋服など大幅に処分する為に、
家内の滞在は少し長くなっている。

このように家内は孤軍奮闘しているが、この間は私は『おひとりさま』の生活となり、
のんびりと気ままな独り住まいをしている。


平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良し恋し、と好評を頂いている私たちでも、
いずれは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
今回たまたま『おひとりさま』の生活となった私は、特別演習かしら、と思ったりしている。

平素の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁で、
根がケチな性格なのか、駅前までの路線バスなどは乗らず、ひたすら歩き廻ったり、
遊歩道、公園などを散策するぐらいである。、

そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、一昨年の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行以外は週に一度ぐらいは呑むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と確信をしている。

しかしながら、こればかりは天上の神々の采配にゆだねられているし、
まして、この世の中は、先のことは何が起きるか解からないので、
一年に何回かは、家内に先立だれた場合のことを考えたりしている。

私は家内と日頃から、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、
とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして私は、家事の全般の料理、掃除、洗濯などは、家内にお願いしていたので、
恥ずかしながら初心者の若葉マークのような身であり、戸惑いながら行うが、
何より長年寝食を共にし、人生の大半の苦楽を分かち合い、
気楽に安心して話す相手がいなくなったことが、何よりも困ると思ったりしている。


今回、たまたま『おひとりさま』となっているが、
朝一番に行うことは、台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
これに対応して、指定された道路に面した門扉に置いたりした。

そして、読売新聞の朝刊を読みながら、冷茶を飲みながら、
幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜』としている。

私は単細胞のひとりなので、白米のご飯、ワカメの味噌汁、
そしてコブの佃煮、福神漬け、シャケの瓶づめ、海苔(ノリ)が10枚ぐらいが、
不変のように食べたりしてきた。

昼食はアイスコーヒーを飲みながら、レーズンロールのパンを5つばかり食べたり、
或いは菓子パンを食べたりしてきた。

夕食はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
冷茶を飲みながら食べたりしている。
そして、なぜかしら独りだと寂しいので、缶ビール500mlを2本だけ呑んだり、
ウィスキーのオンザロックを吞んだりしてきた。

洗濯に関しては、乾燥の機能がある洗濯機をオール自動セットに頼り、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたり、台所で皿洗いをしたり、
夜の入浴の時間も、8時前後としてきた。

このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、家内のいる平素から落第生となっている。

そして作家の曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、
私は叱咤激励されながら、小・中学生の時は劣等生であった私は、
やはり年金生活の劣等生かしら、と苦笑を重ねてきた。


このように年に5回ぐらいの『おひとりさま』の生活を私は体験してきたが、
今回は何かと慌ただしいのである。
NHKのテレビ・ニュースを視聴したりすると、
ロンドンでオリンピックが開催されている競技が、盛んに報じられているのである・・。

出場される日本代表選手団の代表選手、コーチ、監督、スタッフの関係者は、
日本の数多くの声援に応え、結果を出さなければならない重責に大変だなぁ、 と思ったりしてきた・・。

今回に選ばれた代表選手は、もとよりスポーツのそれぞれの競技に於いて、
国内で突出した優秀な選手で、国際の競技でも充分対応できる選手が選ばれた、
とテレビのニュースなどで、私は学んできた。

そして、それぞれの競技の中で選手は、たえまなく人一倍練習を重ねてきたと思われるので、
善戦をして下されれば良し、と私は思っているひとりである。

このようなオリンピック競技に余り興味のない私でも、
特にサッカー女子の『なでしこジャパン』だけは、一喜一憂してきたのであった。

恥ずかしながら『なでしこジャパン』を初めて知ったのは、
昨年の3月11日に東日本大震災で死者・不明者約2万人、そして福島第一原発事故で深刻な被害など、
余りにも悲惨な出来事が多く、私は動顚したり、憂(うれ)いたりし、
何かと重苦しい閉塞感の中、
『なでしこジャパン』が日本代表として、FIFA主催の世界大会優勝という快挙を成し遂げ、
私はサッカーに無知であったが、圧倒的な感銘を受けた・・。

この後、今回のロンドンでオリンピックが開催される中で、
これまでのオリンピックとして、最高位4位の成績だったので、
数多くの国民が、メダル獲得・・期待が高まり、
選手はもとより、監督、コーチ、関係スタッフの重圧は、大変な時期を過ごされた、
と私でも感じてきた。

こうした心情の私は、何かとテレビで放送されている『なでしこジャパン』の奮戦を視聴し、
決勝戦まで躍進されて、難敵アメリカに敗れたが、最高の熱戦に私は感銘を頂いたりした。
このように、いままでの『おひとりさま』の生活から、何かと時間帯も狂い過ごし、
年金生活の私でも、慌ただしく過ごし、微苦笑を重ねたりしている。

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『少年時代』、『故郷(ふるさと)』の歌、お盆休みを迎えると、心の中で唄い・・。

2012-08-11 08:30:11 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとNHKのテレビのニュースを視聴していたら、
帰省ラッシュが本日の11日がピークです、と報じられていた・・。

《・・
お盆をふるさとや行楽地で過ごす人たちの帰省ラッシュは11日がピークで、
新幹線や国内の空の便が予約で満席となるなど混み合うほか、
各地の高速道路は最大で40キロの渋滞が予想されています。

このうち、新幹線は、11日、東京から各地に向かう下りが午前中を中心に混雑する見込みで、
指定席は午前中、ほぼ満席となっているほか、自由席も午前中、乗車率が100%を超える見通しだということです。

また、国内の空の便は、東京や大阪から各地に向かう下りの便が始発からほぼすべての便で満席となっています。

一方、高速道路も下り線で激しい渋滞が予測されている区間があり、
このうち中央自動車道は午前6時がピークで、相模湖インターチェンジ付近を先頭に40キロ、
関越自動車道は午前8時がピークで、花園インターチェンジ付近を先頭に40キロ、
中国自動車道は午前8時がピークで、宝塚東トンネル付近を先頭に40キロなどとなっています。
帰省ラッシュによる交通機関の混雑は、12日まで続く見通しで、
上りのUターンラッシュは、新幹線や国内の空の便が15日、高速道路が14日と15日にピークとなる見通しです。
・・》
このように麗(うるわ)しき若き女性のキャスターが報じていたので、
お盆休みが始まった、と私は教えられた・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいるが、
私の故郷(ふるさと)の生家は、私が今住んでいる近くであり、お盆は8月1日の変則地域で、
私たち夫婦は実家の長兄宅を訪れ、長兄夫婦、親戚の方たちと談笑した後、お墓参りをしてきた。

家内の実家は、千葉県の近郊都市の八千代市なので、
これといって遠い故郷は、私たち夫婦は無縁となっている。


私はサラリーマンの現役時代に於いて、
友人、知人たちが会社の夏期休暇を利用して、故郷に帰省するのを、
羨(うら)やんだりしていたこともあった。

夏季、年末年始に帰省するたびに、
自分の半年を振り返ったり、今後の心の整理に良いのではないか、
と想像を重ねたりしていた。

実家のご両親に逢われ、或いは兄弟の親睦、友人、知人たちの再会、
と良い環境と思ったりしていたが、ある一面は何かと大変な面も教えられた・・。
しかし、良きことが多い、と感じたりしている。
いずれにしても、せっかくの貴重な休暇の時、混雑でお気の毒であるが、
ご無事で帰京されること祈願したりしていた。

このように心情を思い馳せると、私はふたつの歌を心の中で思い浮かべてしまう。


ひとつは、シンガーソングライターの井上陽水さんが創られた『少年時代』である。

私はこの歌を最初に聴いた時は、

若き父親が小学二年生ぐらいの息子を共だって、父の故郷の実家付近の山里を散策している。
山里はスキー場用に切り開かれた中、もとより川、田畑もある情景の中で、
『君ぐらい・・僕が幼なかった時・・
あの山も鬱蒼(うっそう)として、夏休みの時・・蝉(セミ)とかクワガタを捕(と)りに行ったり・・
あの川は今よりずうっと清(き)れいだったし、水の流れも急だったし・・
そんな中で・・友達と泳いだり・・川遊びをした・・』
と父親は懐かしそうに息子に言ったりしている。

と私なりに妄想したりしてきた・・。

この歌は、確か平成3年(1991年)の秋頃、街で流れていた歌である。

私が50歳前後の時であり、世の中はバブルが終焉となり、
数多くの人々の心の痛みを感じた時代でもあった。

私は音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
安楽から激動の時代となり、翌年になるとある会社と統合となり、
長年苦楽を共にした人達が分散した時でもあった。
そして一部の方達は、やむなく業界から去っていたりした苦い時代でもあったが、
昨今は愛惜を重ねて、この歌を聴いたり、心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしている。


もうひとつの歌は、文部省唱歌となっている『故郷(ふるさと)』である。

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と小学校の先生たちは称していた。

この頃の生家から徒歩15分ぐらいに最寄りの駅があり、
駅に接近した商店街を5分ばかり離れると、周辺は平坦な田畑、雑木林、竹林が圧倒的に多く、
のどかな田園地帯であった。

このような心情を秘めている私は、
高度成長期より地方出身のお方達が、大都市で勤務し、生活されている方の大半の人々が、
夏のお盆に帰省され、心を癒す、ことに思いを重ねてしまうのである。

もとより時代は大きく変貌し、私の住む周辺でも田園地帯から住宅街に
1955(昭和30)年頃から急激に変貌し、この当時の私は少年期であったので、
この地域の変貌に驚いたり、悲しみを覚(おぼ)えたりした。

地方出身のお方達も、生家の周辺の大きく変貌し、
帰省するたびに驚きを隠せない、と私は想像したりする。

このような思いをしていた私は、失われた故郷の情景、
そして過ぎ去った自身の時の流れに愛惜を重ね、
この時節になると、このふたつの歌が想いだされてしまい、心の中で呟(つぶや)くように唄ったりしている。

付記)『少年時代』・・作詞・井上陽水、作曲・井上陽水、平井夏美、編曲・星 勝、唄・井上陽水
   『故郷(ふるさと)』・・作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一作曲 文部省唱歌

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『草食系』、『肉食系』って何のことなの、と高齢者の私は、遅ればせながら初めて学び・・。

2012-08-10 07:23:20 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受しているのが、
殆ど午前中となっている。

そして午後から深夜には、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごして8年生となっているが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけの家族なので、
特に私は何かしら世の中の時流から取り残されていると思ったりしている。


二週間前の頃、テレビのニュースを視聴していたら、
何か『草食系』、『肉食系』などと、キャスターが言ったりしているので、
私は何のことなのょ、と戸惑ったりしていた。

やむなく私は過ぎし日々の人生の体験からして、仮に女性で表現すれば、
『草食系』は、女性がスタイルを気にするあまり、太らないように野菜中心の食生活をしている方たちで、
細身の方かしら、と解釈したりした。

そして『肉食系』は、体育系のスポーツを熱中している方たちで、
もとより体力を要求されるので、牛肉や豚肉などが大好きな健康優良の方かしら、
と思ったりしてきた。

『草食系』は何かしら文学少女のようなイメージが私にはあるが、
昨今の若き女性は純文学、中間小説を読む方が少なく、
文学部の女子大生でも夏目漱石、森 鴎外の小説を読んだこともない方もいる、
と悪友から教えられて、私は動顚しながら、文学少女は死語になったかしら、と思ったりしてきた。

そして『肉食系』は、恥ずかしい私の思いを少し発露すれば、
スタイル抜群の背も高いグラマーを思ったりしてしまうのである。
しかしながら私の遥か昔の独身時代の頃、私の身長は170センチ、確か体重は56キロぐらいの頃であったので、
トランジスター・グラマーと称せられた小柄なグラマーの女性が、
私にはピッタリだ、と勝手に思ったりしていた。

ここ数年、ときたま都心に出かけると、
最近の女性は背の高い人が多く、その上にハイヒールを履き、颯爽と歩いているのを見かけると、
何かしら圧倒されて、小心者の私は気遅れしてしまいそうなので、苦手となっている。


このようにぼんやりと思っていた私は、
昨夜、机の横に小さな本棚にあるが、この中の一冊の『暮らしの年表 流行語』(編集・講談社)を開き、
太平洋戦争時のことを調べた後、何気なしにパラパラとページをめくっていたら、
『草食系』、『肉食系』の関連事項があり、こういうことなの、と初めて学び、驚き、ため息をした。

《・・
草食(系)男子
協調性が高く家庭的で優しいが、恋愛には積極的でない男性・・

肉食女子
恋愛にも仕事にも積極的な女性・・
・・》
このように明記され、2009年〈平成21年〉の流行語のひとつとなっていた。

平成21年の社会風潮であり、私は年金生活をしている中の社会の流れなのであり、
知らなかったけれど致し方がないなぁ、と微苦笑したりした。

それにしても、私の独身時代は失恋の方が多かったけれど、
血気盛んな私は、何かと女性とトキメキながら盛んに交遊していた。
しかし余りに積極的な女性には、気遅れしていたことは事実であった。

草食(系)の若き独身の諸兄、恋愛のアンマッチは不幸であるが、
私のように七転八起の気持ちを大切にして、邁進して欲しい、
と私は余計なことを思ったりしている。

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8月9日『長崎原爆の日』、私は長崎の方に向い、黙祷を終えた後は・・。

2012-08-09 08:37:34 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
今朝、洗面した後、主庭のテラスに下り立ち、襟を正して、
長崎の方に向かい、手を合わせながら黙祷したのは朝の6時半過ぎであった。

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の本日『長崎被爆』、
そして15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。

かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、 黙祷をして尊い命の冥福を祈っている。

そして本日の9日、長崎市は67回目の「原爆の日」を迎える。
平和公園(長崎市)で開かれる平和祈念式典は午前10時35分に始まり、
被爆者や遺族の代表、野田佳彦首相ら政府関係者、各国大使らが出席し、
原爆投下時刻の同11時2分に全員で黙祷を捧げることとなっている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。


私は過ぎし一昨年の2009(平成19)年2月中旬の時、
家内の母は、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時代に、
多くの同級生と共に強制的に軍事工場に働き過ごした身であるが、
『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と要望されたので、私達夫婦と家内の母の3人で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

旅立つ前に私は、永井隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、小春日和の中を独り歩いたのである。

そして『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。


私は1944(昭和19)年9月に東京の郊外で生を受けたが、
1950(昭和25)年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

♪こよなく晴れた 青空を
 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

♪なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。

母に連れられて、初めて観た映画だった。

帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。


私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は無知であった。

その後、私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
1962(昭和37)年であった。
そして、このお方の少しばかりであったが人生経路を初めて知り、涙で曇った。

♪召されて妻は 天国へ
 別れてひとり 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの
 鎖に白き わが涙

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


ここまで転記させて頂いているが、著者の永井隆氏の人生の軌跡を思い馳せると、
瞼(まぶた)が熱くなってしまう。

私は長崎の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを詳細に学んだりした。

そして、何よりも衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時代を含め、この当時、劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、
責務として数多く撮った結果、当人の永井隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
1945年(昭和20)年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆氏は、妻子がある身なので、
この時に妻に自身の余命を告げるのであるが、この時の心情に思い馳せれば、私は涙を流した・・。

その後は、9日の当日、爆心地からほど近い長崎医大の診察室にて被爆し、重傷を負いながらも救護活動にあたり、
やっとのお思いで10日、独り残した妻(ふたりの子供は疎開させていた)の元に帰宅すれば、
焼けただれて崩壊した家の台所跡で、骨片だ程近い状態となった遺骸を発見する。
妻の愛用していたロザリオで遺骸は妻と判明し、その骨片を拾い埋葬する。
その後、救護班を組織したりし、被爆者の救護に専念する・・。

館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの永井隆氏の軌跡に、
圧倒的に感銘を受けたのであった。

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入した。

館を辞した後、市電の駅に向う途中で、小公園の石のベンチに座り、
永井隆氏の遺(のこ)された言葉が深く思いだしていた・・。

『この子を残して』の書物の『父性愛』と題された一節に於き、
《・・
この子を残して・・・
この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、
私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。

戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、
それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?・・・
・・》

『平和塔』の書物の『如己堂』と題された中に於いては、
《・・
如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、
その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。

西側は一面の白壁、何の飾りもない。
東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。

この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。・・・

如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、
家も妻も財産も職業も健康も失って、
ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、
わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。

そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、
それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。
・・》
注)著作の原文より、あえて改行を多くした。

私は、ときおり今でも永井隆氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、そして稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。

そして、余りにも多くの市民の方が犠牲となられた人に、ご冥福を・・、
今なお被爆の後遺症に、心身ともに苦しまれている方に、お見舞いを・・、
ただ無力な私としては、これしか言葉にできない。

せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を幾度も聴いたりしている。


私は永井隆・著作の『長崎の鐘』は、随筆の分野に於いて、
近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。
もとよりこの作品は、1946年8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲によりすぐには出版の許可が下りず、
GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは周知の通りである。

そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。

余談であるが、『長崎の鐘』の歌謡曲の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。
私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが広島の原爆の犠牲者となっていた、
と学び、こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。

それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、周知の通り、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ60数年、数多くの方に感動、そして感銘させている詞である。


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『日本の夏・八月は 六と九で十五だ』と命言、つたない私でも読書を重ね・・。

2012-08-08 14:21:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『広島被爆』、
その後まもない9日の『長崎被爆』、
そして15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。

かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、 黙祷をして尊い命の冥福を祈っている。

こうした中で私は年金生活をしている今、読書をしたりしている中、
この8月の時節になると、原 民喜・著作の『夏の花』(1947年)、阿川弘之・著作の『春の城』(1953年)、
竹西寛子・著作の『管絃祭』(1963年)、井伏鱒二 ・著作の『黒い雨』(1966年)、
福永武彦・著作の『死の島』(1966年)などを、
若き日に文学青年の真似事をしていた時代に読んだりしてきたので、
この作品を思い馳せたりし、『広島』に心を寄せたりしてきている・・。

過ぎし2009(平成19)年2月中旬の時、
家内の母は、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であるが、
『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と要望されたので、私達夫婦と家内の母の3人で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

旅立つ前に私は、永井隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、小春日和の中を独り歩いたのである。

そして『永井隆記念館』で拝見した後、売店で買い求めた本が、
永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅れはせなから初めて読んだりした・・。

この本の中に栞(しおり)があり、
《 日本の夏・八月は
        六と九で十五だ  
 忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
と明記されていた。

ながいまこと氏は、永井隆氏の御子息であり、
長崎市立の『永井隆記念館』の館長をされている永井誠一氏である。

私は氏の《 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 》のフレーズは、
確かな日本の夏の命言、と深く同意し、今でもこの栞(しおり)を大切にしている。

そして私は、永井 隆 ・著作の『長崎の鐘』を再読し、『長崎』に思いを馳せたりしている。

8月15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』の本に関しては、
もとより数多くの本を読んだりしてきているのが、省略する。


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『立秋』って教示されても、東京郊外に住む私は、残暑は厳しく・・。

2012-08-07 16:27:04 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であり、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見ると、
『立秋〈りっしゅう〉』と明示されて、秋に入る日、と教示されても、
もとより暦(こよみ)の上での旧暦のことであり、暑さに苦手な私は微苦笑した・・。

この後、ぼんやりと玄関の軒下に下り立つと、
鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえ、遠くから蝉(セミ)の合唱も聴こえてきた。
そして、いつものように定期便のように飛来する小鳥が、
花梨(カリン)の枝にたわむれている。

そして私は、たわわな紫紅色の花の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)を眺めたり、
或いは塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花を誉(ほ)めたりしていた。
そして一週間前の頃から純白な花な玉すだれ〈タマスダレ〉の花が咲きはじめ、
私の汚れきった心を浄化してくれるようなので、長らく見つめたりした。

この後、居間に戻り、地元の天気情報を見たりすると、
朝の6時は24度、昼下がりは33度前後、夕暮れの6時は29度前後で、
快晴の一日と表示されている。
そして、この先の一週間も、ほぼこのように横並びとなり、晴れマークが続いている。

私は高齢者3年生の何かと単細胞に感じたりするので、
働いて下さる諸兄諸姉はもとより、お子様、高齢者の方は熱中症に気をつけましょう、
と解釈したりした。


我が家の小庭では、鈴虫(スズムシ)が鳴いて、蝉(セミ)も負けじと盛んに鳴いて二部合唱で、
この時節の朝を迎えることが多い。

日中の暑い中は、蝉(セミ)がワンマン・ショウのように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように元気いっぱいで鳴き響いている・・。

鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、
と私は思ったりしている。

夕暮れの6時過ぎになると、蝉(セミ)は鳴き声が途絶える。
私は暑さの日中に蝉(セミ)は盛んに鳴いていたので、
鳴き疲れてお休みの睡眠時間となったと思ったりしている。

鈴虫(スズムシ)は夜行型、蝉(セミ)は日中型と理解は出来るが、
我が家の蟋蟀(コオロギ)は、耳をすませないと聴きもらす・・。

夜のひととき、鈴虫(スズムシ)の盛大な合唱の中、
定年退職後に何かと気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
蟋蟀(コオロギ)だけは、少し遠慮しながら鳴いているのである。

可哀想な蟋蟀(コオロギ)であるが、やがて初秋になれば、
蝉(セミ)が消え果てるので、ライバルは鈴虫(スズムシ)となる。

鈴虫(スズムシ)も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはおとなしくなるかしら、と私は秘かに願望したりしている。


いずれにしても立秋を過ぎれば、『暑中お見舞い申し上げます』に別れを告げ、
『残暑お見舞い申し上げます』と先人の人たちが、
時候の挨拶として伝えられているが、
私は暑さに苦手な身なので、余り熱くならないでねぇ、と心の中で呟〈つぶや〉いたりしている。

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熊(クマ)に遭遇しない方法のひとつとして、私のささやかな成功体験は・・。

2012-08-06 21:49:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
山里に熊(クマ)に遭遇して、もとより人は動顚し、被害を遭われたり、
ここ数年は人家の近くまで熊(クマ)が出没されて住民は困苦する、
とニュースを聞いたりしている。

山里の多い県公園自然課のヘテランの担当者は、
熊(クマ)は警戒心が強く、鈴など音の出るもので人の存在を知らせることが大切であり、
遭遇したら、背を向けずに後ずさりをして逃げること、
と私は学んで来たりしている。

そしてリックサックを背負っていたら、ザックを音を立てないように地面に落として、
ゆっくりと背を向けずに、後ずさりをして立ち去ること、と教えられている。


これまでの私は、幸いにも熊に出会ったことはないが、
遭遇しないような方法として、ささやかな成功体験のひとつを発露する。

私は若き大学時代には、中退するまではワンターフォーゲル部に所属し、
冬山の登山、岩登り以外は、先輩の指導の下で、山の奥地、登山路、そして里山まで歩いたりしてきた。
もとより、キスリングと称される大きなザックに個人装備、共同装備を背負い、
テント生活に明け暮れていたが、幸いに熊に出遭うことはなかった。

このような理由は、少なくとも団体の15名以上のパーティであり、
登山路の不整備などで枝、小枝、竹藪の竹など払い切り落とし、
或いは炊事の時などの枝を拾い集めて、薪(まき)などにするために、
大きめの鉈(ナタ)を全員持参し、身に付けたりしていた。

熊(クマ)だって、牛肉、豚肉、鶏肉に飢えていた山男の集団に入ったならば、
逆に熊肉料理にされてしまうので、恐れをなして隠れていた、と私は今頃になって思ったりしている。


昨今は家内との共通趣味の国内旅行をした時に、
たまたま独りで里山を歩いていた時、熊に出遭うことのないように予備対策をした。

過ぎ去りし2006(平成18)年10月中旬、
私たち夫婦は、家内の母が死ぬまで一度は北海道に行って観たいわ、
と要望を受けて、三人で道央、道東めぐりを7泊8日で周遊した。

この旅の中で、知床半島のウトロにある観光ホテルに連泊していた。

家内達は漁港周辺を散策するので、
私は独りで『知床自然センター』の周辺を散策することにした。

この館内の映像展示館で『知床の四季』を観た後、
売店、案内所のフロアーに行き、
私は、『乙女の涙』と称される海岸の滝までの遊歩道の路を、
係員の方に訊(たず)ねたりした。
そして係員の方から、
『熊除けの鈴・・無料で貸し出ししていますので、持たれたらいかがでしょうか・・』
と好意の言葉を私に言った。

少しためらいながら私は、微苦笑しながら、
『ご好意・・ありがとう・・でも、大丈夫でしょう』
と私は係員に熊除けの鈴を受け取らず、歩きだした。

私は登山、ハイキング時などで、鈴の音を聴いたりすると、
何かしら拒絶反応するタイプであり、苦手であった。

そして歩きだすと樹林の中のゆるやかな坂道を下り、
やがて辺(あた)り一面平地となり、遥か彼方に知床の連山が観られる一帯であった。
前方に団体観光客の方たちが見えたので、
私はこの方たちにまぎれて、お互いに談笑しながら、『乙女の涙』まで同行した。

私は、『乙女の涙』の周辺の海岸の光景に見惚れて、
ゆっくりと時間を過ごしたので、帰路は独りぼっちになってしまった。

樹林に近づくと、いつでも熊が出できても、おかしくないよなぁ、
と小心者の私は恐怖心がつのったりした。

やむなく熊に出遭うことのないように、
私が小学生の時にラジオから流れてきた歌を覚えていたので、
唄いだしたのである。

♪イヨマンテ
 燃えろ かがり火
 あゝ満月よ
 今宵 熊祭り

【『イヨマンテ(熊祭)の夜』 作詞・菊田一夫、作曲・古関祐而 】

私は歌手の伊藤久男のように朗々と唄えないが、
今回の旅行前から『イヨマンテ(熊祭)の夜』の歌を秘かに練習をしていた。
そして熊避(よ)けには、音痴な私の唄声でも、鈴などより余程効果があると信じていた。


この後の数日後、阿寒湖の湖畔の観光ホテルに滞在した時、
家内達は、観光船でマリモ展示観察センター観たりするが、
私は興味がないので、湖畔周辺を散策することにした。

観光船乗り場の脇道から遊歩道があると聞いていたので、歩き始めた・・。
私のほかは、周辺にもまったく人影を見かけなく、静寂であった。

湖畔沿いの小道は、エゾマツ、トドマツ、ダテカンバ、ナナカマドの針広混生樹林の中、
少し間引いた中が遊歩道として『湖畔コース』と名づけられていた。

湖畔に目を転じると、阿寒湖の情景が観え、快晴の中、遠方に遊覧船が見えたりした。

そして広葉樹林は、紅色、朱紅色、黄色に染められた錦繍の情景となり、
湖面の陽射しが差し込み、葉の一枚が枝から舞いながら水面に落ち、
微かな水紋でゆらいでいる・・。

このような光景に見惚(みと)れたりし、遊歩道をゆっくり歩きながら、
ときおりデジカメで風景を撮ったりし、15分過ぎたと思われるが、
相変わらず私のほかは、周辺にもまったく人影を見かけなく、静寂であった。

私は何となく熊が出そうな予感がしたので、

♪イヨマンテ
 燃えろ ひと夜を
 あゝわが胸に
 今宵 熊祭り

【『イヨマンテ(熊祭)の夜』 作詞・菊田一夫、作曲・古関祐而 】

こうした時も音痴でも大きな声で『イヨマンテ(熊祭)の夜』を唄いながら、
無事に通り抜けたのである。

最も熊だって、東京の田舎者の音痴な人には遭いたくない、
と隠れ潜んでいたと思われる。


昨今は齢ばかり重ねた私は、悪知恵ばかり覚えている。

《熊に山椒 鯉に胡椒》と同時に食べてはいけないもの名言を学んだりしたので、
熊が出そうな所を歩く時には、山椒の枝をトゲに注意しながら背負って歩けば、
熊だって食あたりするので敬遠するかしら、と思ったりしている。

或いは今年の1月下旬より、北海道の札幌市の郊外にあるリゾートホテルに6泊7日で滞在した。
こうした中で、たまたま和食処『大善』で夕食を頂く時に、
単品料理をアラカルト(選定)をしょうとメニューを見ていた時、
日本酒の中で、『熊ころり』という銘柄を見たりしたのであった・・。

『各地方には・・鬼殺し・・の銘柄はあるけれど・・
〈熊ころり〉なんで・・初めてだょ・・』
と私は微笑みながら家内に言った。

『珍しい銘柄名ね・・頂いたら・・』
と家内は笑いながら私に言った。

『北海道に相応しく・・熊かょ・・かなり辛口だけれど・・』
と私は言いながら、仲居さんに注文したひとつとなった。

蔵元は小樽市にある『山二(ゆまに)わたなべ』で、正式な銘柄名は『熊古露里』と明記されていたので、
風流を秘めた方が命名されたと確信を深めたりした。
超辛口で呑みやすく、たまたま私はホッケの焼いたのを食べながら頂いたので、心身の波長にあった。

この『熊ころり』を熊が出そうな所を歩く時に持ち歩き、
遭遇した時には、この4合瓶を差しだせば、熊だって酔いながら退散するかしら、
と思ったりしている。

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8月6日『広島原爆の日』は、無力な私でも西の空に向い、秘かに黙祷をして・・。

2012-08-06 07:45:51 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の6時過ぎであった。

私は1944〈昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945〈昭和20)年8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
少なくとも8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされた。

このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。

本日は、67回目の原爆の日を迎える。
そして恒例となっている広島市中区の平和記念公園では、
午前8時から市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、
被爆者や遺族、野田佳彦首相らが参列し、犠牲者に祈りをささげることとなっている。


私は少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『敗戦記念日』は、黙祷をして36年は過ぎている・・。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この日は広島の空に向い、人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。


東京の郊外の調布市では、この日の8時15分少し前になると、
私の自宅の近くの高台の拡声器からは、
『広島に原爆を落とされた日です・・
皆様で・・亡くなわれて多くの人たちに・・哀悼の意を表して・・黙祷しましょう・・』
とゆったりと判りやすいように、伝えられているのが、平年の習わしとなっている。

そして私は思わず、再び姿勢を正して、広島の方面に手を合わせて黙祷している・・。

しかしながら冷酷で厳然たる事実として、敗戦後の日本の長きの平和は、
国際の主要国の怜悧な国益に基づき、悪夢のようなことであるが、
核抑止を背景とした軍事力を根底とした政治・外交・経済で、
何んとか今日を迎えている事実も、確かなことであると思っている。

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ときには早寝早起き元気な児、と高齢者の私は朝を迎え、微苦笑して・・。

2012-08-05 07:05:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受しているのが、
殆ど午前中となっている。

午後から深夜には、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、昨今はロンドンでオリンピックが開催されているので、
ときおりNHKのテレビ放送も視聴したりするので、愚図の私でも大忙しい日々を過ごしたりしている。

たまたま昨日の午後は、中西輝政・著作の『大英帝国衰亡史』(PHP文庫)を再読したりしていると、
アメリカの新興国の躍動などを読んでいると、
ヨーロッパの国々から新大陸のアメリカに移民した人たちのことを思い馳せたりすると、
次章にページが進まないのである。

そして私は、映画作品の数々を思い重ねたりしてしまうのである。
フランシス・F・コツポラ監督の『ゴットファーザー(三部作)』(1972・1974・1990年)、
セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)、
このような名画のシーンを思い浮かべたりした。

この後、ときにはお寿司でも食べようと家内と話し合った後、
我が家としては早めの入浴した後、近所のお寿司屋さんに電話連絡をした。

私たち夫婦はビールを吞みながら、お寿司を頂き、
オリンピックのことなどを話題に談笑した。
そして一時間ぐらい過ぎると、私は眠くなり、布団にもぐったのは夜の8時であった。

目覚めると深夜の1時であり、何かしらアメリカに移民した人たちのことを思ったりしていると、
眠れなくなってしまい、やむなく布団から出て、
居間のソファーでぼんやりとしてしまった・・。

結果として、パソコンに触れたり、『大英帝国衰亡史』を読んだりして、
朝を迎えてしまった。

早寝早起き元気な児、と古来から伝えられているが、
高齢者3年生の私は、昨夜は実質4時間ばかりの睡眠時間であったので、
昼下がりのひとときに昼寝しょうかしら、と微苦笑したりしている。

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東京郊外は暑さの続く日々、高齢者の私でも、やむなく秘かに雨乞いしても・・。

2012-08-04 14:28:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
昨今は34度前後の猛暑となり、何よりも暑さに苦手な私は戸惑っている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、毎日のように最寄のスーパー2店に行ったり、
或いは駅前まで徒歩で15分コースのスーパー6店の中の数店で、買い求めたりしている。
この後は、その日の思うまま自宅から数キロの範囲を適当に散策したりし、季節のうつろいを享受している。

しかしながら暑さの増す昨今、遊歩道の外れの大きな樹の下にあるベンチに座り、
川風を受けたりしながら、ハンドタオルで顔の汗を拭いたりして、
緑陰に身も心も寄せて、ひとときを過ごしたりしている。

そして帰宅後、洗面所で顔を洗い、着替え後、
居間のエアコンの冷風に身を寄せるのが、定年後の習〈なら〉わしとなっている。

その後、昼下がりの2時過ぎの頃から、居間の片隅に簡易ベットを敷いて、
横たわりながら本を読んだりしていることが多い。
そして疲れを感じたりすると、寝付いてしまうこともある。


昨日、夕方の4時過ぎに目覚めても、陽射しの燦々と小庭を照らしたりし、
ここ数週間は雨から遠ざかっている日々が続き、
雑木、草花も何となく元気がないので、私と同様に早くも夏バテなのかしら、と苦笑したりしてきた。

そして、水を大切にしましょう、と叫ばれている昨今、
ご近所の方から、非国民と非難されないように、
私はこっそりと草花だけに水道水を散水したりした。

その後、古来の人たちは雨を待ちわびる時に、雨乞いの行事をしていたことを思いだし、
高齢者3年生の私でも、秘かに小庭のテラスに下り立ち、
ひとつの歌を唄いだしたのである・・。

♪心の中が忘れた あのひとも
  膝の重さを 覚えてる

【『雨の慕情』 歌詞・阿久 悠 作詞・浜 圭介 】

今朝、曇り空の朝を迎えたが、深夜に雨の降った形跡もなく、雨乞いの効力もなかったので、
愕然とした。

その後、いつものように買物と散策して帰宅した後、
一時半過ぎに家内と遅い昼食を頂いている時、小雨が降りだしてきた・・。
私は遅ればせながら雨乞いの効力があったと微笑みながら、
居間から、小庭に小雨の降る情景を眺めて、心の中で歌を唄いだした。

♪雨雨ふれふれ もっとふれ
  私のいいひと つれて来い

【『雨の慕情』 歌詞・阿久 悠 作詞・浜 圭介 】

私は八代亜紀さんのように巧く唄えないが、
せめて願いをこめて真摯に、心の中で唄ったりしたのであった。

しかしながら15分ばかりすると、小雨は止み、陽射しが燦々と射し込んできた。

私はどうしてなのょ、と空を眺めたりしながら、
やはり主(あるじ)の私が音痴なのせいか、 或いは祈願不足のせいか、
と思ったりした。

まもなくして思い当たるとすれば、私はこの歌のように、
確固たる情愛、そして性愛の深淵を深めた良いひとに、独身時代にめぐり逢えなかったことを気付き、
つたない私としては、雨乞うの歌には相応しくない、
と大いに反省をさせられたのである。

そして蝉の鳴き声が元気よく響き、私は苦笑しながら聴いたりしている。

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