私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
過ぎし9日のひととき、ブログランキング・サイトのひとつ『ブログ村』に加入しているので、
この中の数多くの方の投稿文を読んだりしている中で、
ひとつの投稿された写真の花に瞬時に見惚(みとれ)れてしまった・・。
http://plaza.rakuten.co.jp/kobaruto4105/diary/201208090001/
☆【 気ままな生活 】<==8月9日:『夏ズイセン(裸百合)』☆
私は夏ズイセン・・夏水仙とも明記された写真を見ながら、
私の幼年期の頃に、父の妹の叔母たちが花好きで、畑の外れに草花を植えたりし、
百合の花も各種あり、私は幼児ながら見たり、その後の私は特に白百合などを植えたりしてきた。
この『夏ズイセン(裸百合)』の写真を拝見し、解説文を読ませて頂きながら、
圧倒的に魅了され、投稿して下さった未知の方に感謝した。
その後、私は庭のテラスに下り立ち、モミジの樹の下の緑陰に身を寄せながら、
燦々と照らす庭を眺めたりした。
こうした時、あの『夏ズイセン(裸百合)』の花は、
もしかしたら『ずゐせん学徒隊』の花と関連があるのかしら、と私は思い重ねてしまった。
その後、昨夜も夢に出でしてきまい、やはり現(うつつ)に私の思いを発露しなければ、という思いで拙文を綴る。
私が『ずゐせん学徒隊』のことを初めて知ったのは、
2007〈平成19〉年10月15日であった。
購読している総合月刊誌の『文藝春秋』の読み残した記事を読みはじめた・・。
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿され、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、 副題が【沖縄の悲劇を胸に】と題されていた。
私は沖縄に関しては、高校生以来、真摯な思いで関心はあるが、
かの大戦の過酷な沖縄地上戦に於いて、看護要員として『ひめゆり学徒隊』は知識として少しは知っていたが、
恥ずかしながら『ずゐせん学徒隊』は全くの無知であった。
作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの綴られた記事を引用させて頂ければ、
《・・
沖縄戦で犠牲になった沖縄県出身者は約12万人、うち軍人・軍属は約2万8000人で、
残りの10万人近くが民間人である。
すべての中学校、高等女学校で学徒隊が編成され、男子は鉄血勤皇隊、女子は看護隊として戦場に動員された。
男子は14歳から19歳、女子は15歳から19歳である。
そのうち、男子1559名、女子446名が戦場で亡くなっている。
・・》
私が無知で、想像力が欠けていたのは、すべての中学校、高等女学校・・
と明記された内容であった。
作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんのこの寄稿された全文の中で、
『ずゐせん学徒隊』に関しては最初のほんの一部に過ぎないが、
長年の歳月の熱い心情で、淡々した基調で綴られている・・。
首里高等女学校の学徒隊は『ずゐせん学徒隊』と命名されて、61名で構成され、
33名の方が亡くなわれ、ずゐせんの塔として、まつった慰霊塔である。
この中で生き残られたひとりの方の証言と念願された言動を記載されている。
作家が取材で訪れた時、
『ひめゆり塔』には大きな献花台からこぼれ落ちるほどの花束が供え、
数百メートルしか離れていない『ずゐせん塔』には一輪の花もなく、
と記載されている。
『ずゐせん学徒隊』の生き残られたひとりの大正15年生まれのお方が、
「・・ひめゆりばかりが有名になって、
同じように戦場で亡くなったずゐせん学徒のことは、
誰も知らないし追悼もされてない。
それがずっと悲しくて、悔しくて・・」
と証言されて、
1993〈平成5)年4月、両陛下が出席する植樹祭の会場の近くに『ずゐせん塔』があるので、
両陛下に塔を見て頂きたく直訴した。
県知事に嘆願書を提出し、知事が不在だったので、副知事の前で嘆願書を読み上げた・・。
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
女性でも戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わず・・
衛生兵とともに奮闘致しました』
『生き証人は黙っている事が出来ません。
33名の代わりに声を大にして、「ずゐせん隊はかく戦えり」
と叫びたいのであります』
この後、副知事から宮内庁を通し、陛下に伝えられた。
そして陛下のご希望に寄り、植樹祭の前に、両陛下から、ずゐせん塔に供える花束を託され、
『・・天皇陛下が私に、戦争の時はこのあたりにも来ましたか、
とおっしゃった。
・・
このあたりは、飛び交う弾の中をさまよい歩いたところです。
たくさんの友達が死にました・・。
陛下は、苦労なされましたね、
と言ってくださった』
そして、両陛下に自作の琉歌を披露され、
沖縄の文化に造詣が深く、みずからも琉歌をつくる天皇はご理解され、
翌日、所望された陛下に清書され届けられた。
そして、両陛下の車は、
ずゐせんの塔の前を、ほとんど停止に近い最徐行でゆっくりと進み、
お2人は窓を開けて、じっと瞑目(めいもく)された。
このような概要であるが、かの大戦で日本本土で沖縄諸島だけが地上の戦場となり果て、
民間人の老幼婦女子、そして若き学生まで巻き込まれ悲惨と過酷を思い浮かべる時、
敗戦の一年前に生を受けた私さえ、胸は熱くなり、やがて深夜ひとり涙を流した。
この数か月の前、独り住まいの家内の母が、『ひめゆりの塔』を死ぬ前に一度は観たい、
と家内に言ったりしていたので、私たち夫婦は家内の母を誘い、
高齢者に見合った日程の沖縄本島を2007〈平成19〉年の10月29日より8泊9日で訪れた。
羽田空港を20分ばかり遅れて、那覇行きの航空便は離陸した。
私は2時間半ばかりの機中の時間は、煙草も喫えず、退屈きわまりない時であったので、
過日知った『ずゐせん学徒隊』のことを思い浮かべてた・・。
そして、このことを私は別ブログに綴って投稿し、
この私の掲示板に、沖縄の男性より、
『友の碑~白梅学徒の沖縄戦~』のサイトを教示して下さり、
私は初めてこのことも知り、感銘を受けた後、資料として印刷した。
この資料を今回の旅に持参し、機中で再読した。
改めて、監督のメッセージ、企画制作意図を精読し、あの時代に思い馳せると、
心は高まり、そして瞼(まぶた)が熱く、やがて涙があふれてきた・・。
私達夫婦は15年前に来ていた『ひめゆりの塔』を行く前に、
『ずゐせんの塔』に花をささげたいと、私は家内たちに言った・・。
家内たちには、ずゐせん学徒隊に関しては、旅行の合間に話していたのである。
『ずゐせんの塔』は、主要道路から脇道を少し奥まった地にあり、
午前の陽射しを受け、さわやかな風が吹き、静寂な墓地であった。
私達は花をささげて、両手を合わした後、しばらく黙祷をした・・。
このような旅路の中のひとときであったが、私は今でも心の片隅には『ずゐせんの塔』が残っているので、
今回、偶然に『夏ズイセン(裸百合)』を掲載されたサイトにめぐり逢い、
このような心情を思い重ねたのである。
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☆【 気ままな生活 】<==8月9日:『夏ズイセン(裸百合)』☆
私は夏ズイセン・・夏水仙とも明記された写真を見ながら、
私の幼年期の頃に、父の妹の叔母たちが花好きで、畑の外れに草花を植えたりし、
百合の花も各種あり、私は幼児ながら見たり、その後の私は特に白百合などを植えたりしてきた。
この『夏ズイセン(裸百合)』の写真を拝見し、解説文を読ませて頂きながら、
圧倒的に魅了され、投稿して下さった未知の方に感謝した。
その後、私は庭のテラスに下り立ち、モミジの樹の下の緑陰に身を寄せながら、
燦々と照らす庭を眺めたりした。
こうした時、あの『夏ズイセン(裸百合)』の花は、
もしかしたら『ずゐせん学徒隊』の花と関連があるのかしら、と私は思い重ねてしまった。
その後、昨夜も夢に出でしてきまい、やはり現(うつつ)に私の思いを発露しなければ、という思いで拙文を綴る。
私が『ずゐせん学徒隊』のことを初めて知ったのは、
2007〈平成19〉年10月15日であった。
購読している総合月刊誌の『文藝春秋』の読み残した記事を読みはじめた・・。
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿され、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、 副題が【沖縄の悲劇を胸に】と題されていた。
私は沖縄に関しては、高校生以来、真摯な思いで関心はあるが、
かの大戦の過酷な沖縄地上戦に於いて、看護要員として『ひめゆり学徒隊』は知識として少しは知っていたが、
恥ずかしながら『ずゐせん学徒隊』は全くの無知であった。
作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの綴られた記事を引用させて頂ければ、
《・・
沖縄戦で犠牲になった沖縄県出身者は約12万人、うち軍人・軍属は約2万8000人で、
残りの10万人近くが民間人である。
すべての中学校、高等女学校で学徒隊が編成され、男子は鉄血勤皇隊、女子は看護隊として戦場に動員された。
男子は14歳から19歳、女子は15歳から19歳である。
そのうち、男子1559名、女子446名が戦場で亡くなっている。
・・》
私が無知で、想像力が欠けていたのは、すべての中学校、高等女学校・・
と明記された内容であった。
作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんのこの寄稿された全文の中で、
『ずゐせん学徒隊』に関しては最初のほんの一部に過ぎないが、
長年の歳月の熱い心情で、淡々した基調で綴られている・・。
首里高等女学校の学徒隊は『ずゐせん学徒隊』と命名されて、61名で構成され、
33名の方が亡くなわれ、ずゐせんの塔として、まつった慰霊塔である。
この中で生き残られたひとりの方の証言と念願された言動を記載されている。
作家が取材で訪れた時、
『ひめゆり塔』には大きな献花台からこぼれ落ちるほどの花束が供え、
数百メートルしか離れていない『ずゐせん塔』には一輪の花もなく、
と記載されている。
『ずゐせん学徒隊』の生き残られたひとりの大正15年生まれのお方が、
「・・ひめゆりばかりが有名になって、
同じように戦場で亡くなったずゐせん学徒のことは、
誰も知らないし追悼もされてない。
それがずっと悲しくて、悔しくて・・」
と証言されて、
1993〈平成5)年4月、両陛下が出席する植樹祭の会場の近くに『ずゐせん塔』があるので、
両陛下に塔を見て頂きたく直訴した。
県知事に嘆願書を提出し、知事が不在だったので、副知事の前で嘆願書を読み上げた・・。
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
女性でも戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わず・・
衛生兵とともに奮闘致しました』
『生き証人は黙っている事が出来ません。
33名の代わりに声を大にして、「ずゐせん隊はかく戦えり」
と叫びたいのであります』
この後、副知事から宮内庁を通し、陛下に伝えられた。
そして陛下のご希望に寄り、植樹祭の前に、両陛下から、ずゐせん塔に供える花束を託され、
『・・天皇陛下が私に、戦争の時はこのあたりにも来ましたか、
とおっしゃった。
・・
このあたりは、飛び交う弾の中をさまよい歩いたところです。
たくさんの友達が死にました・・。
陛下は、苦労なされましたね、
と言ってくださった』
そして、両陛下に自作の琉歌を披露され、
沖縄の文化に造詣が深く、みずからも琉歌をつくる天皇はご理解され、
翌日、所望された陛下に清書され届けられた。
そして、両陛下の車は、
ずゐせんの塔の前を、ほとんど停止に近い最徐行でゆっくりと進み、
お2人は窓を開けて、じっと瞑目(めいもく)された。
このような概要であるが、かの大戦で日本本土で沖縄諸島だけが地上の戦場となり果て、
民間人の老幼婦女子、そして若き学生まで巻き込まれ悲惨と過酷を思い浮かべる時、
敗戦の一年前に生を受けた私さえ、胸は熱くなり、やがて深夜ひとり涙を流した。
この数か月の前、独り住まいの家内の母が、『ひめゆりの塔』を死ぬ前に一度は観たい、
と家内に言ったりしていたので、私たち夫婦は家内の母を誘い、
高齢者に見合った日程の沖縄本島を2007〈平成19〉年の10月29日より8泊9日で訪れた。
羽田空港を20分ばかり遅れて、那覇行きの航空便は離陸した。
私は2時間半ばかりの機中の時間は、煙草も喫えず、退屈きわまりない時であったので、
過日知った『ずゐせん学徒隊』のことを思い浮かべてた・・。
そして、このことを私は別ブログに綴って投稿し、
この私の掲示板に、沖縄の男性より、
『友の碑~白梅学徒の沖縄戦~』のサイトを教示して下さり、
私は初めてこのことも知り、感銘を受けた後、資料として印刷した。
この資料を今回の旅に持参し、機中で再読した。
改めて、監督のメッセージ、企画制作意図を精読し、あの時代に思い馳せると、
心は高まり、そして瞼(まぶた)が熱く、やがて涙があふれてきた・・。
私達夫婦は15年前に来ていた『ひめゆりの塔』を行く前に、
『ずゐせんの塔』に花をささげたいと、私は家内たちに言った・・。
家内たちには、ずゐせん学徒隊に関しては、旅行の合間に話していたのである。
『ずゐせんの塔』は、主要道路から脇道を少し奥まった地にあり、
午前の陽射しを受け、さわやかな風が吹き、静寂な墓地であった。
私達は花をささげて、両手を合わした後、しばらく黙祷をした・・。
このような旅路の中のひとときであったが、私は今でも心の片隅には『ずゐせんの塔』が残っているので、
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