夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ときにはクラシックの珠玉曲を聴き、楽譜も読めない私は、独り微苦笑をして・・。

2023-03-16 15:59:57 | 喜寿の頃からの思い

過ぎし10日、私は駅前の大きな本屋に寄って、何かしら魅了される本はないかしら、
と単行本のコーナー、新書本のコーナー、そして文庫本のコーナーを見たりしていた。

そして探し求めている中、店内からクライスラーの『愛の喜び』、メンデルスゾーンの『歌の翼に』、
シューベルトの『アヴェ・マリア』などが流れて、
私は思わず微笑みながら、やはり本屋にはクラシックの珠玉曲が相応(ふさわ)しいよねぇ、
と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。



私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。


私は民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。



日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

音楽を聴くと明記したが、恥ずかしながら、
楽譜も読めなく、楽器もさわれない拙(つたな)い男であるので、
やむなく感性を頼りに聴いたりしている。




このようなに日常生活を過ごしたりしているが、
定年退職後、多く聴いた曲は、と先程ぼんやりと振り返ったのである。

私は音楽に関してはオペラとジャズは苦手であるが、
クラシック、ハード・ロックから歌謡曲まで聴いたり、抒情歌も聴いたりしている。
そして、ときにはクラシックの珠玉のような数多くの名曲を聴くこともある。

このような珠玉曲を5分間ばかり思い浮かべと、やはりねぇ、と微苦笑したのである・・。

イギリスの作曲家のひとりでエルガーが『朝のあいさつ』と題した名曲を遺(の)こされているが、
この曲を特にサラリーマンを卒業した定年退職後した数年は、最も多かったりした。

私は農家の三男坊として生を受け、小学低学年まで農家の児として育てられたが、
父が病死し、祖父も亡くなったので、生家は衰退し、一時は生活に困窮した時代もあったりした。

この曲を聴くと、イギリスの田園風景の中で、程ほど大きな邸宅の裕福な家で、
朝のひととき優雅な情景を私は重ねてしまうのである。

私は幼年期の劣等感、そして身過ぎ世過ぎの年金生活を過ごしている今、
せめて心の中だけでも優雅な裕福のひととき・・と思っているせいか、
この曲を聴く時が多いのである。



そして、恥ずかしいことを告白すれば、
たまたま私は音楽業界のあるレコード会社の情報畑、管理畑などに35年近く勤めた身であったが、
現役時代は無知で、定年後にブログの世界を学び、
たまたま私が加入したサイトで、お互いにコメントを寄せあったりした
30歳前後の女性から教示された珠玉曲がある。

アルビノーニの『アダージョ』である。

私り現役のサラリーマン時代に於いては、クラシックに関し、
モーツァルトのピアノ協奏曲第20番、ベートーヴェンのピアノソナタの『悲愴』、『月光』、『熱情』、
そしてショパンの『12の練習曲 作品10、作品25』が圧倒的に魅了されて、
何百回を聴いたりしていた。

定年後はアルビノーニの『アダージョ』が加わっている。
私はこの曲を聴くたびに、
まぎれない美に触れ、作曲家の想いに深く立ち入れる時もある。

そして私のその時の心に動きにより、美はするりと逃げ去られたり、
ただの儚(はかな)さしか享受出来ないこともある。

この曲は確かな美の結晶であるが、
私のその時の心境により移ろう不思議な力が存在する。

美はこのように魔力を秘めている。

このようにアルビノーニの『アダージョ』に魅了され、
私は何百回も愛聴し、私が死去した時のセレモニーの時は、
この曲も加えてほしい、と家内に言ったりしている。




このように私は深く信愛し、16年が過ぎた・・。
そして、音楽の基礎知識に乏しい私は、過ぎし年に、
フリー百科事典として名高い【ウィキペディア】の解説をこっそりと読んで、
動顚させられたのである・・。

《・・ アルビノーニのアダージョ  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アダージョ ト短調は、レモ・ジャゾットが作曲し、1958年に初めて出版した作品で、
弦楽合奏とオルガンのための楽曲。
弦楽合奏のみでも演奏される。

この作品は、トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され、
その断片は第二次世界大戦中の連合軍によるドレスデン空襲の後で、
旧ザクセン国立図書館の廃墟から発見されたと伝えられてきた。

作品は常に「アルビノーニのアダージョ」や「アルビノーニ作曲のト短調のアダージョ、ジャゾット編曲」などと呼ばれてきた。
しかしこの作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった。

雄渾多感な旋律と陰翳に富んだ和声法ゆえの親しみやすい印象から広まり、
クラシック音楽の入門としてだけでなく、
ポピュラー音楽に転用されたり、BGMや映像作品の伴奏音楽として利用されたりした。

日本や欧米で葬儀のとき最も使われている曲の一つである。
(略)・・》

このように解説されて、私のクラシックの無知をさらけだし、
その上、《・・日本や欧米で葬儀のとき最も使われている曲の一つである・・》と明記されて、
知らなかったょ、と私は赤面したりした。



このような体験をしてきた私は、遥か過ぎし日々、独身の20代後半の1970代の前半期に、
ある音楽専門大学のピアノ科を卒業された女性と交遊していたことが思いだされてしまう。
この女性の御宅に行ったりして、この御方のお母さまには私は可愛いがれたりした・・。

そして私の生家に来て貰ったりし、やがて私は求愛したりしたが、
私の魅力が乏しい為か、結婚することが出来なかった苦い経験があった。


年金生活の19年生の昨今、齢ばかり重ね音楽に素養のない私は、
やむなく感性を頼りに、
ときおり日常生活でクラシックの珠玉曲を聴いたりして、
ときには独り微苦笑をしたりしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『健康十訓』明言、私は学んで早や10数年が過ぎ、独り微苦笑して・・。

2023-03-15 15:54:04 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、過ぎし2010年(平成22年)の秋、
66歳の時、健康診断の時の結果、
『糖尿病の疑いがありますので、内科に受診して下さい』
と明記されてしまった。 

私は青ざめ、翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・
何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医院長に懇願した。
 
そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は、蒼色吐息のような表情で、
内科の医院長のアドバイスを聴いたりした・・。
 
私は家内との共通趣味は国内旅行であり、糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。
このような時、家内と共に旅行の宿泊先で美味しい夕食を頂けそうな時、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりした。
 
やがて医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、
 軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。
 
この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら野菜を多くした料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。
 
そして私は、ウォーキングをしたり、或いは早足で遊歩道を歩いたりし、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。
 
          
 
こうした中、私は最寄の内科に8週間毎に定期検査日、そしてこの間に検査結果日と健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外は、ほぼ優等生となって、改善努力の成果となっている。

この時、医院長より指針とされたことは、
糖尿病の指標となる血液検査項目の
HbA1cに於いて、
糖尿病の境界値である6.5%を切れば、糖尿病予備群となります、
このようなことを言われたりした。

そしてこうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
 
しかしながら家内は、糖尿病の予備群ですから、程々に注意して下さい、と言われる時もある。

このように私は、私は最寄の内科に8週間毎に定期検査日、
そしてこの間に検査結果日と健診を受けて、早や13年目となっている。


こうした中、過ぎし2011年(平成23年)の2月頃、
この薬局の待合室でいた時、

壁面に掲げられた格言のようなものを読んだ時、齢ばかり重ねた私でも驚いた・・。


   『長寿の心得 人生は六十から』

100歳まで元気で生きなさい、と短絡に解釈して、ため息を重ねたりした。


私は民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。

現役サラリーマン時代の私は、もとより我が家の収入の責務があるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

定年後の私は、年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、
乱したくないので、決意して実行してきた。

具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、独りで買物をしたりし、
その前後、独りで散策などをしている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。




こうした中、冷蔵庫の中にビールがあること、
或いは台所の片隅に、ともすれば日本酒の一升瓶、四合瓶も忘れてしまったりしている・・。


かって呑み放題の生活をしてきた私は、
平素の夕食に煎茶、冷茶でもまったく違和感が感じることなく、

2年半が過ぎて微苦笑していた・・。


思い馳せれば、一昨年の秋に『糖尿病』と診断され、私は青ざめて、
昼食代わりにリンゴ、柿を食べて、晩酌もやめて、ウォーキングを盛んにした結果、
たった3か月で、6キロばかり減量となり、糖尿病の対象外となった。

そしてここ2年の夕食の時、大皿にキャベツを中心の前菜を欠かせなくなっている。
通常の肉類の主食の前に、普通サイズキャベツを四分の一ぐらい千切りし、
その脇にセロリ、トマト、ニンジン、キュウリを大皿に盛り合わせて、家内がしてくれる。

そして婦女子の野菜の盛り合わせの量からは、少なくとも4人前ぐらいかしら、
と私は思いながら毎晩頂いている・・。


或いは寒い季節には、主食の肉類の場合は、盛大にサニー・レタスを巻き込んで頂いたりしている。

このような食生活を過ごしてきたが、
この後、2011年(平成23年)の晩秋に、

たまたま田沢湖の北方にある観光ホテルに3日ばかり滞在して、
乳頭温泉郷めぐりなどをした。


この時に滞在している観光ホテルに於いて、露天風呂に向う館内の廊下り壁面に、
数多くの季節ごとのスケッチ絵が掲げられる中、
ひとつの手ぬぐいで書かれた教訓を読み、私は微苦笑されられた・・。


       館内の売店に、お土産品として『健康十訓』が有ったので、記念に私は購入した。


私はは定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして60代は五体満足で過ごせれば、この後の70代以降は余生と思いながら、
身体のどこかに支障をきたし、かばいながらも、
確かな生きがいを持って晩年をすごせればよい、
と60代の初めに念願した。

年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建てに住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。



日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

我が家は年金生活なので、原則として厚生年金とわずかな企業年金の年金支給額で平素の生活を過ごし、
国内旅行、冠婚葬祭、そして耐久品などの購入は、
程ほどの貯金を取り崩して過ごしているので、ごくありふれた年金の家庭であると思ったりしている。


このように年金生活を過ごしているが、
敬愛しているチャップリンの遺(のこ)された言葉のひとつに、

《 人生には三つのものがあればいい。
  希望と勇気とサムマネー。 》
という名言があり、私は信愛しているひとりである。

このような私であるので、もとより健康は大切である、と確信を深めながらも、
余りにも健康にこだわりすぎると、何かと制約が多くなり、
この残された人生は楽しいですか、と私は微苦笑してしまったのである。




このような思いで私は過ごし、早や10数年が過ぎ、
幸運にも健康寿命の範囲で生かされて、独り微苦笑したりしている・・。

しかしながら、70歳の頃から体力の衰えを実感し、
ときおり物忘れもあり、独り微苦笑をしたりしている。
 
そして好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
 
このような私でも、あと1年半少しで・・80歳の誕生日を迎える時に、
何とか健康寿命で迎えたい、と念願している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改めて私のブログ発信名称『夢逢人』の命名した発想、そして秘かな願いは・・。

2023-03-14 15:04:45 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
民間会社のある会社に35年近く勤めて、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
最後の5年半はリストラ烈風が加速され、あえなく出向となった。

こうした中で遠い勤務地に勤め、この期間も私なりに奮闘した結果、
身も心も疲れ果てて、疲労困憊となり、定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。
                          
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。


過ぎし年金生活を始めた当時、ネットの世界は私は殆ど無知な癖に、
この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げようと思ったりした。

そして自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを
出来うる限り随筆風の散文を綴り、公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、
無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。


この本は『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。


                         
           
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれの御方が自由に、私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済、社会などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来してきた・・。

この少し前の時代は、もとより各専門知識のある有識者が、雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、せめて新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
何よりも掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、経済、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露できる上、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。
 
そしてパソコンの故障、旅行、入院などで不在でない限り、
毎日投稿してきたので、習性になってしまったかのように投稿を重ねてきた・・。



こうした中、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

そして【アメーバ・ブログ】に加入した時、
タイトル名は、私なりのブログ・サイトで要(かなめ)をなすこと思え、
深く思案したりした。

結果として、『極楽とんぼ』と命名することとした。
根拠としては、私の幼年期からの深い想いでがあった・・。

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年 (昭和19年) の秋に、
農家の児として生を受けた。

この当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であり、生家は祖父と父が中心となって、
程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
 
私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊となったが、
この当時は戦時中で、食糧、医療条件が乏しく、やむなく病死することもあったが、
跡継ぎの候補は、兄ふたりのいずれかとなって、万全と思え、
このような中で、祖父と父は三番目の児として女の子を期待していた思いがあった。
 
やがて、私の下に1947年 (昭和22年) の1月に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は、女の子を待ち焦がれたように溺愛したりした。

このような状況を見て、私は幼児なりに疎外されたように感じ、
いじけた可愛げのない児となったり、無口のひとりとなったりした・・。

まもなく、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、やがて没落しはじめた・・。



こうした中、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生が、ため息まじりに云われたりしていた。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

このように、この『越後獅子の唄』の名曲の悲しげな歌の裏返しの思考、
そして小説家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)・著の『還暦老人極楽蜻蛉』から拝借し、
定年退職後の自由自在でブログの世界で綴ってみたい、秘かな思いであった・・。




そして【アメーバ・ブログ】に投稿を初め、
コメントを頂き、私なりに喜びであり、コメントをして頂いた御方の日記に、
私も盛んにコメントを書き込みをしたりした。

ただ、【アメーバ・ブログ】の日記投稿欄の書き込み、送信に、
たびたびエラーなどが発生し、初心者として技量もなく、
何度も書き直し投稿をしたりした。

その上、各部門による賞金制度が設置されていたので、困惑し、
私は他ブログ・サイトを探した。

まもなくブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】を知り、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、入会したのは11月17日であった。

これ以降、2つのサイトが並行として投稿し、1ヶ月を過ぎた頃、
【アメーバー・ブログ】の投稿を中止し、
【すくすくブログ】に『極楽とんぼの奮闘記』とタイトルを掲げ、
『yumide』の発信名で、極楽とんぼシリーズを移管した。


私は【すくすくブログ】の加入した短い間、
この当時、人気の漫才コンビに『極楽とんぼ』の存在を知り、
1部の御方から誤解されたりした・・。

その後、この人気コンビのひとりが、女性に不祥事を起こしたりしたので、
私は『極楽とんぼ』の命名の由来を明示した通り、
何かしら60数年の心の純潔を汚されたようで、憂鬱な心が、しばらく続いたりした。



その後、私は【すくすくブログ】は投稿を中止し、
この当時、百万人以上加入している大手のブログ・サイトの【gooブログ】に、
恐れながら移行した。

『続・極楽とんぼ』とタイトルを掲げ、社会、経済、政治の諸問題を無邪気に投稿し、
『yumede-ai』の発信名とした。

この後、【goo簡単ホームページ】、で、
しかし、この分野に専門知識のない素人の私にとっては、
ほころびも感じはじめ、一年半ほどで中断した。

やはり力量と筆力に乏しい私にとっては、
ふたつのブログ・サイトで全く違った分野を併行に投稿し、
コメントを返信するのは、日常の時間が余りにもとられ、
肝要の読書の時間も少なくなり、ひとつだけ残すこととした。


そしてこの当時の私の本命の【goo簡単ホームページ】に於いては、
肝要のブログ管理元ま閉鎖される2007年の9月までの加入し、
この後は【OCN Cafe】に加入したりした。

この間、2008年の春先から、少し悩んだりした・・。

定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
ひとつのブログ【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に、
今まで書き散らかした投稿文3000通前後を整理、統合しはじめたりした・・。

そして本格的に2008年4月中旬から開始し、
私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからである。



私の【OCN Cafe】の『風のように光のように』は、
あたかも新聞の当日分のような存在であり、
余程のことがない限り、過ぎ去った投稿文はわざわざ読んでくれない、
と改めて認識したのである。

そして、集約した【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に於いては、
カテゴリーのジャンル別に改めて編集した。

そして区分した結果として、あたかも14冊の旧刊本が並んでいると思いながら、
どの本の中で、一編読んでも、もとより私なりの愛惜を秘めたりしている。

そして併設していた【OCN Cafe】の『風のように光のように』(のちに『風、そして光のように』と改題)は、
2010年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』として、
やがて、いつまでも《年金青年》ではないと思い、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称している。

そして発信名だけは、
2005年(平成17年)の春過ぎの頃から『yumede-ai』として、

長らく継続している。

この『夢逢人(yumede-ai)』の発想に関して、記載する。




私の若き頃の高校生の2年になった1961年(昭和36年)の4月過ぎ、
生家の居間で、次兄と共に何気なしにテレビを視聴していた。

すらっとした大人の女性が、上半身を少し右に傾けてお辞儀をされて司会をされ、
何かしら毎回のテーマに基づいて、これに伴いショートコントが展開したり、
その間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などがあった、
とぼんやりと記憶している。

この番組はNHKの『夢であいましょう』であり、番組の内容もさることながら、
何よりも司会をされた中嶋弘子さんの都会の大人の麗人のしぐさ、顔立ち、声質に、
圧倒的に魅了されて、私は見惚れたりした・・。

この後、何故かしら中嶋弘子さんは降板され、
この後は苦手な黒柳徹子さんが司会をされたので、

これ以降、私は『夢であいましょう』を視聴をやめた。

そして私は17歳であったが、
中嶋弘子さんに関して、高嶺の花のあこがれの君のような存在となり、

長らく私の心の片隅みに残影し、今でも残っている。



私はブログの投稿文を綴ることに内容は、誰しも光と影を有しているので、

つたない私でも書くことのためらう影の内容もある。

たとえば幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であり、
文学青年の真似事した時期、新人賞に3回応募したが落選した、
或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった・・など、
多々、私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきた。

このことは匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、
と感じたりした。


小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションンとして、
読者は受け止めることができ、

ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いでは同じかしら、と思ったりしている。

このような理由も重ねて、私は『夢逢人』と命名したのである。

私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したのである。


恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、ありのまま数多くの投稿文を綴ってきたりした。

そして70代になると、無念ながら自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに、
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

専門家に聞く「防犯グッズ」最新事情、78歳の私は学び、多々教示させられて・・。

2023-03-13 14:58:42 | 喜寿の頃からの思い
広域連続強盗・殺人「ルフィ事件」の影響から、家の防犯対策に注目が集まっている。

防犯グッズが売り上げを伸ばし、専用売り場も設けられているほど。

ルフィ事件のような凶悪なやつらに狙われたら、ひとたまりもないだろうが、
できるだけ被害を防ぐためにはどうしたらいいのか。
  

警察庁「令和4年の犯罪情勢」によると、昨年の刑法犯の犯罪認知件数は約60万件。
うち凶器などで、家の人を脅し金品を強奪する侵入強盗、空き巣などの侵入盗、
住居不法侵入の住宅侵入を合わせた数は、4万6416件だった。


一方、オレオレ詐欺や架空料金請求など特殊詐欺は、1万7520件で、
被害総額は約361億円と8年ぶりに、前年から増加に転じている。


家にいても、おちおち安心していられない。
特に殺人事件にまで発展したルフィ事件以降は、
1人暮らしや高齢世帯を中心に、防犯グッズを買い求める人が増えている。




■10分耐えられれば、9割が犯行を断念

では、どんな防犯グッズを用意すると、犯罪者から身を守れるのか?

都市防犯研究センターが元泥棒に聞いたところ、
侵入に手間取ってあきらめる時間について、
「2分以内」と答えた元泥棒が17・1%いた。

さらに「2分超5分以内」が51・4%、「5分超10分以内」は22・9%だった。
つまり、10分泥棒のやる気をそげば、約9割が自宅への侵入をあきらめるということだ。



警視庁が推奨する防犯対策

その役に立つのが、防犯グッズ。
警察庁は泥棒を寄せ付けない手段として、
大きく5つに分けてグッズを紹介している。


①ドアの防犯対策

まず、「補助錠」。
1つのドアに、錠が2つ以上ついていると、途端に泥棒は嫌がる。
補助錠は2000円から1万円程度からあるが、
スーパービバホーム豊洲店では
最新式の「指紋認証補助錠」(東邦金属工業製GATEMAN F10=税込み6万4680円)も販売中。

ほかにドアとドア枠の隙間をふさぐ「ガードプレート」(2000~5000円程度)。
バールなどの工具を差し込んで、ドアを破壊することから防ぐグッズだ。



②窓の防犯対策


同じくサッシ用の「補助錠」だ。
こちらは数100円から2000円程度で購入できる。

次に警察庁が推奨するのが、「防犯フィルムを貼付する」こと。
昨年の一戸建て住宅への侵入窃盗の手口の3割(3710件)が、
ガラスを割って侵入していた。

100均で購入できるような安価なフィルムでは効果がなく、
警察庁は専門施工業者に貼ってもらうような本格的なものを勧めている。




③センサー付きライト


人の動きを感知してライトが点灯。
5000円程度のものが多い。


「強い光を発光するだけで、それ自体に防犯効果はありませんが、
勝手口や窓付近などに設置することで、
普段はリビングや寝室にいて気付けない異変を察知することができます。

侵入者は『家族に気付かれるかも』を非常に気にします」
(防犯に詳しい犯罪ジャーナリストの田代篤氏)



④カメラ付きインターホン


警察庁は、訪問者を屋内から確認することができる
カメラ付きインターホンの設置を推奨している。

呼び鈴を押されると、高齢者はついつい「どなたさまですか?」と
ドアを開けることがあるが、これがあれば、
見知らぬ人が訪ねてきても、ドア越しに対応できる。



⑤庭先に砂利を敷く


砂利の上を歩くと音が鳴るため、泥棒はひどく嫌がる。

砂利といっても、普通の砂利をまいても効果はなく、
あくまで「ジャリジャリ音」が大きく響く防犯砂利を使う。
10リットル入りで、1000円前後の商品が多い。


「『砂利を敷いたくらいで効果があるの?』と思う人は多そうですが、
泥棒心理としては、音が響くことを極端に嫌います。

音は近所にも聞こえますので、警察に通報される可能性があるからです。
その意味で、小学生らが登下校時に持たされている
『防犯ブザー』(1000円程度~)も侮れません。

実際に近所の人に音が聞こえなくても、
『聞こえているかも』と犯罪者に“思わせる”ことが重要なのです」(田代篤氏)




■涙が止まらなくなる強烈な痛み


ただ、これだけでは泥棒は食い止められても、
強盗などの凶悪犯には、歯が立たないはず。
冒頭の80代男性のように防犯(催涙)スプレーを自宅に備えておくことはどうか?


「実は、催涙スプレーは非常に強力で、
涙が止まらないほど猛烈な痛みを引き起こします。

実際に使用するには商品の選び方が重要で、
小さなものでは、ほんの数秒で噴射が切れてしまいます。

また、霧状に飛び出すスプレーだと、攻撃目標に当たらない可能性が高い。
目標に対して軌道を描いて、飛ぶジェル状タイプを選ぶと、
命中させやすくなります」(田代篤氏)


催涙スプレーの成分は2種類あり、カプサイシンが主成分の「OC」、
毒ガスに由来する化学成分の「CN」がある。

OCの方が主流で、これでも目が開けられないほどの痛みが1~2時間も続く。
価格はどちらも2000円程度からだ。


「最終的には費用対効果になりますが、
警備会社のホームセキュリティーに加入するのが一番でしょう。

強盗に入られた際、2階の寝室などに籠城できれば、
警備員が5~15分程度で駆けつけてくれます」(田代篤氏)



男性との同居だと誤解させる商品

最後にオレオレ詐欺の「特殊詐欺」対策。
インターホンや電話越しに、男性の声で答える「応答くん」(ライソン=税込み1980円)が
人気を呼んでいる。


「初回生産5000台は、あっという間に完売。
男性の声で『はい』、『ちがいます』、『玄関の前に置いといてください』
などの言葉が発せられます。

コロナ禍で、宅配や配食サービスを利用することが多くなり、
女性の1人暮らしを知られたくないという当社の女性社員の声から誕生しました。

ところが、ルフィ事件が大きく報じられた2月以降は、
特殊詐欺対策として利用される方々の問い合わせが多くなっています」(ライソン広報担当者)


原理は単純だが、息子を装って「何の用ですか」と電話口に差し向けるというわけだ。
どれもこれも100%の防犯にはならないが、犯罪者があきらめる理由になるといい。・・ 》

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が人生、つたない青年時代、ほろ苦く独り微苦笑して・・。

2023-03-12 13:10:25 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活19年生の78歳の身であるが、
先程、庭のテラスに下り立ち、どうしたわけか判らないが、
ぼんやりと私のつたない青年時代の頃が脳裏から舞い降りてきた・・。
 

私は今住んでいる近くに生家があり、
1944年 (昭和19年)に農家の
三男坊として生を受け、
兄ふたり、そして妹ふたりの中で、育てられたりした。
 
私が地元の小学校に入学した1951年 (昭和26年)の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった御方の手助けを借りて、
程ほど広い田畑を耕していた。
 
そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
 
或いは母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
 
その後、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、やがて没落しはじめた・・。
 
そして1955年 (昭和30年) の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年 (昭和32年) であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。



こうした中、
地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960年(昭和35年)の4月だった。

小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

そして兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で交流を重ねたりし、
文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、

写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび通った映画館に寄ったり、
女子部の生徒と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したりした。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたしてしまった。




結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。

まもなく体育系のワンダー・フォーゲル部で山歩きをしたりしたが、
映画館には相変わらず通っていた・・。


秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
高校時代から愛読した映画専門誌の『キネマ旬報』を熟読して、

映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

そして、翌年になると、都心は東京オリンピックの開催年で、
日増し毎に景観が変貌していた・・。


まもなく私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したりした。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、
通い続けて観たしていた。


ある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。




東京オリンピックが終り、翌年の1月から、専門養成所に入学した。

この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。

指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、
著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、

シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。



この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。

こうした中で、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、
浅い交遊をしたりしていた。


こうしてアルバイトをしながら、
講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、

映画界は益々衰退し、スタッフの方たちはもとより、
ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、

改めて教示させられた。

私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、
視(み)まわり時間以外は、

警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりした・・。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したりした。

学生時代の友人達は、社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。

そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような時、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと言われたした。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたりした・・。




やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。


この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。

この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、
技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。

このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は、理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、
と理解していた程度であった。


この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。

やがて同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、ある大手の音響・映像の会社の首脳陣の御方が、
私の実家の遠い親戚と知人と知り、この親戚の紹介で、

何とか中途入社できたのは、1970(昭和45)年4月であった。



まもなく、首脳陣の御方より、
現場を学べと指示されて、
商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、
私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。


この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、
『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録された
LP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。


そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、
レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。


♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

https://www.youtube.com/watch?v=nvF5imxSaLI
【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。

まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこのレコード会社に転籍させられ、企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終わりを確実に感じたりした。

まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、
改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。


一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、
私なりに孤軍奮闘したりすると、

休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。

そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、
私の人生設計を考え始めたりした。



このようにつたない青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない心身の黄金時代だった、と深く感じたりした。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは叶(かな)わぬ夢であるので、私は苦笑しながら、
ほろにがい青年期を振り返ったりしている。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月刊誌『中央公論』の特集『団塊の花道』、78歳の私は購読して・・。

2023-03-11 14:14:53 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む78歳の年金生活の身であるが、
昨日、配達された読売新聞の中に於いて、
広告で掲載された10日発売の月刊誌の『文藝春秋』の4月号を見て、
本日、スーパーの買い物の帰路、コンビニで買い求めようと思ったりした。

そして広告で掲載された『中央公論』の4月号も、
見たら、特集は『団塊の花道』と、大きく明記されていたので、
久々に月刊誌の『中央公論』を購読しょうと、決意した・・。

私は月刊誌の『文藝春秋』は、1970年の4月号から、
長らく愛読しているが、『中央公論』は特集が魅せられれば、
買い求めたりしてきた。

しかしながら、『文藝春秋』は最寄りのコンビニにはあるが、
無念ながら『中央公論』はなく、
本日、散策の帰路、最寄り駅にある本屋により、
買い求めたりした・・。




私は東京の郊外の農家の三男坊として1944年〈昭和19年〉9月に生を受け、
やがて東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉の秋に、
大学を中退し、契約社員・アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
あえなく敗退し、やむなくある企業に何とか中途入社できたのは、
1970年〈昭和45〉年の春で、満25歳の時だった。

この時代、定期採用で新入社した人達は、団塊の世代の人々であった。

そして机を並べ、この業界の荒波の多い時代の苦楽を共にし、
何かと友人には団塊の世代の人々が多かったので、
彼らの世代には何かと親近感がある。


そして私の妹のふたりは、
1946年〈昭和21年〉1月、1948年〈昭和23年〉10月、

家内も 1949年〈昭和24年〉12月に生を受けたので、
私は彼らの時代の流れの風潮を少しは知っている。



そして団塊の世代の多くは、2007年〈平成19〉年に定年退職時を迎えるに際し、
数多くの団塊の世代について出版され、私は10数冊愛読してきたした・・。

たとえば山口文憲・著作の『団塊ひとりぼっち』からは、多々教示され、
団塊世代の多くは、これからの時期も《ひとりぼっち》と学んだりした。

私は中途入社の身であったので、
彼ら同期で何かと励まし合いながらも時代を過ごしてきたのを、

羨ましく感じたりしてきたので、私は衝撃を受けたのである。

このように私は、何かと団塊の世代に関心があり、
たまたま、『中央公論』の4月号に於いて、
特集『団塊の花道』であったので、改めて学んでみたく、読み始めている・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

WBC:日韓は6対5で接戦を制す、と78歳の私は予感して・・。

2023-03-10 18:28:23 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む78歳の年金生活の身であるが、
たまたま昨夜は、日本と中国の試合をテレビ観戦をした。

こうした中、家内は試合開始する前、
どちらが勝つのかしら、
と私に問いかけたりした。

私は昨年は大谷選手、ダルビッシュ選手の活躍に誘惑されて、
彼らの中継された試合を10試合前後、テレビ観戦した程度であるが、
『当然、日本は8対1程度で、勝つょ・・』、
と私は断言してしまった。



たまたま結果として、当たってしまったので、
今宵の韓国戦・・テレビ観戦する前、
日本は6対5で接戦を制す、と私は予感したりした。

さて、結果は・・・。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ときには二十四節気「啓蟄(けいちつ)」、改めて78歳の私は学び・・。

2023-03-10 14:35:16 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 オールアバウト 】を見ていたら、
『 二十四節気「啓蟄(けいちつ)」とは?
    2023年はいつ・意味や風物詩を解説節約のプロに聞く!
』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、そして適度な熟睡する睡眠、或いは程ほどの食事が、
セカンドライフの私なりの健康体の三種の神器として思い、年金生活を丸18年を過ごしてきた。


そして好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

 
このように何かと気ままに過ごしている私でも、
四季折々の季節を心の友として、過ごしたいなぁ・・、
と念願しながら年金生活を過ごしている。



しかしながら、何かと無学な私は、ここ10年、
この【 オールアバウト 】に於いて、
『暮らしの歳時記』を担当されている三浦康子さんを敬愛できる師として、
多々学んだりしてきた。

そして私は、ともすれば忘れがちになっているので、
改めて二十四節気のひとつ「啓蟄(けいちつ)」を学びたく、
記事を読んだりした。



この記事は、【 オールアバウト 】の2023年2月26日に掲載され、
無断であるが、記事の殆どを転載させて頂く。

《・・


三浦 康子

執筆者:三浦 康子

暮らしの歳時記ガイド

春の訪れを感じる、二十四節気「啓蟄」の豆知識

啓蟄 啓蟄の日 啓蟄とは 2021 二十四節気 啓蟄はいつ?意味や風物詩を解説

春の訪れを感じる、二十四節気の「啓蟄(けいちつ)」

春の季語としても使われる「啓蟄(けいちつ)」。
今年の啓蟄の時期や意味、知っておきたい豆知識をご紹介します。

 

2023年の啓蟄はいつ?

啓蟄は二十四節気のひとつ。2021年啓蟄は3月5日から3月19日です。

啓蟄は二十四節気のひとつ。
2023年啓蟄は、3月6日から3月20日です。

啓蟄は二十四節気のひとつです。
二十四節気は、季節の移り変わりを知るためのもので、
約15日間ごとに、24に分けられています。

啓蟄は、毎年3月6日頃~3月20日頃にあたりますが、
日付が固定されているわけではありません。

二十四節気は、1年を太陽の動きに合わせて24等分して決められるので、
1日程度前後することがあるからです。


2023年の啓蟄は、3月6日から3月20日です。
啓蟄 啓蟄の日 啓蟄とは 2021 二十四節気 さまざまな生き物が活動しはじめる時期。テントウムシの姿もみられるようになります

さまざまな生き物が、活動しはじめる時期。
テントウムシの姿もみられるようになります
 

啓蟄の読み方、意味は?

啓蟄は「けいちつ」と読みます。
啓蟄とは、「冬ごもりをしていた虫たちが、土の中から出てくる頃」という意味で、
春の気配を感じて、冬ごもりをしていた虫たちが活動を開始する頃を表しています。


「けいちつ」という言葉の響きや意味が印象的ということもあり、
啓蟄は春の季語としても人気です。

二十四節気では、啓蟄の前は、雪から雨へと変わり雪氷が
とけ始める頃という意味の「雨水」、
啓蟄の次は、昼夜の長さがほぼ同じになる「春分」となります。


●白露前後の二十四節気の移り変わり
雨水 → 啓蟄 → 春分
 

啓蟄の初侯・次侯・末侯

二十四節気をさらに3つに分けた七十二侯は、
啓蟄の間にこのように移り変わります。


初侯:蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく)3月6日頃
    啓蟄を詳しく表したもので、冬ごもりをしていた虫たちが
    戸を開いて顔を出したような表現です。
    虫に限らず、様々な生き物が目覚める頃です。


次侯:桃始笑(ももはじめてさく)3月11日頃
    桃の蕾がほころび、花が咲き始める頃。
    昔は花が咲くことを「笑う」「笑む」と表現していました。
    花も人も笑うと周囲が明るくなって良いですね。

啓蟄 啓蟄の日 啓蟄とは 2021 二十四節気 季節感たっぷりの桃の花と菜の花。春ですね♪

季節感たっぷりの桃の花と菜の花。
春ですね♪


末侯:菜虫化蝶(なむしちょうとなる)3月16日頃

青虫が羽化して、紋白蝶になる頃。
菜虫とは、菜を食べる虫ということで、紋白蝶の幼虫である青虫をさしています。
紋白蝶のほかにも、いろいろな種類の蝶が舞い始める季節です。

啓蟄 啓蟄の日 啓蟄とは 2021 二十四節気 まさに、菜虫化蝶。紋白蝶には菜の花が似合います

まさに、菜虫化蝶。
紋白蝶には菜の花が似合います

 

啓蟄の風物詩

啓蟄の期間に、「お水取り」と呼ばれて親しまれている東大寺二月堂の修二会が行われます
(3月1日~14日)。

奈良時代から続く行事で、終わる頃には、冬が明けるので、
春を告げる行事として有名です。

大きな松明から落ちる火の粉をあびると、無病息災で過ごせるといわれています。


冬の間、寒気や雪、害虫などから樹木を守っていた「菰(こも)巻き」を外すのも、
啓蟄の頃が多く、春の風物詩となっています。


また、立春(2月4日頃)を過ぎて、
初めて鳴る初雷(はつかみなり/はつらい)は、啓蟄の頃によく鳴るため、
「虫出しの雷」とも呼ばれています。

春を知らせ、冬眠中の虫を穴から誘い出す雷という意味で、
昔の人は、虫たちは、その雷の音に驚いて、土の中から出てくるととらえました。
想像してみると、なんとも微笑ましいものですね。・・ 》

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春の陽気に、78歳の私は、心も身もゆだねて散策すれば・・。

2023-03-09 17:24:47 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む78歳の年金生活の身であるが、




こうした中、たまたま本日は、市内にある都立の『神代植物公園』に向かった。

いつものように最寄り駅のひとつの京王線の『つつじが丘』の駅前より、
路線バスで調布市の『総合体育館前』で下車した後、

体育館前の広場を通り過ぎて、隣接の『植物多様性センター』を散策したりした。













こうした情景に、とりとめなく心も身もゆだねて散策し、

やがて近くの『神代植物公園』を散策するのが、
私なりの定例コースとなっている。


やがて『神代植物公園』に入園した後、定年後より魅せられた景観を
眺めたりした・・。






こうした中、私は歩きながら四季折々の情景に心を寄せているが、

ここ数日、4月のような陽気が私の住む街にも訪れ、
春の花は追われるように、百花繚乱のように咲いたりしている・・。











 







このように急激に一斉に咲いたりし、私は戸惑ったりした・・。

平年、三月に咲く花は、莟(つぼみ)・・三分咲き・・七分咲き・・満開・・
日ごとに開花の状況がなだらかに咲いてくれれば、
こころもゆったりと寄せて、過ごせるのに・・

このようなことを思い馳せたりして、
午前中のひとときを過ごしたりした・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

介護負担「原則2割」になる可能性、78歳の私は学び、溜息ばかり・・。

2023-03-08 16:51:06 | 喜寿の頃からの思い
先程、ヤフージャパンが配信されている記事を見ている中で、
『 介護負担「原則2割」になる可能性・・・
         介護破綻や健康不安の続出危機 』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の満78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

 老人ホーム生活、“馴染める人”と“嫌われる人”の差、78歳の私は学び、微苦笑して・・。

 

《・・ 今度は介護保険で、多くの人の自己負担を1割から2割に
引き上げられることが検討されている

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老人ホーム生活、“馴染める人”と“嫌われる人”の差、78歳の私は学び、微苦笑して・・。

2023-03-07 20:33:38 | 喜寿の頃からの思い
先程、ヤフージャパンが配信されている記事を見ている中で、
『「高い費用を払ったのに孤立して・・」
    老人ホーム生活に“馴染める人”と“嫌われる人”の差 』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の満78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中、私たち夫婦にとって難題は、

やはり晩秋期の不安は、いつの日にか、介護・要となり、
介護施設にお世話になる時と思われる。



こうした中、要介護認定されている場合は、
特別養護老人ホーム(特養)や介護老人保健施設(老健)などの介護施設のほか、
有料老人ホーム、 介護型のサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)などを学んだりしてきた。              

そして私たち夫婦は、いつの日にか『要支援』までであったら、何とか自宅で過ごせると思われるが、
やはり『要介護』になってしまったら、やむなく介護施設に入居すると思案したりしてきた。

しかしながら介護施設の多くは、共同生活に伴い、

何かと制約が多いと思われ、できる限り《・・自分の家で過したい・・》、
と思ったりしている。

たが、『要介護』になってしまったら、やむなく介護施設に入居した場合のことを、
思い重ねたりして、今回の表題の記事を読んでしまった・・。


この記事は、『週刊ポスト』の2023年3月10・17日号に掲載された記事で、
関連の【マネーポストWEB】が3月7日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。
《・・ 誰もが考えるであろう老後の暮らし。

自宅が安らぎの場なのは言うまでもないが、
住み慣れた自宅ではなく、高齢者施設を“終の棲家”とするのも1つの選択肢だ。

特別養護老人ホーム(特養)の利用者は約61万人、
有料老人ホームが約53万人、
サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)が約24万人など
いずれも右肩上がりで増えている
(厚労省「高齢者向け住まいの今後の方向性と紹介事業者の役割」より)。



☆施設選びが「複数回」になる可能性も

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大腸の内視鏡検査、78歳の私、今年も受診して、疲れ果てて・・。

2023-03-06 15:55:40 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
本日、ある都心にある大学の医学部の管轄下の病院で、大腸の内視鏡検査を受診した。
正確には、大腸にあるポリープ切除を依頼した。

私は糖尿病の予備軍として通院している、
我が家の近くの内科専門医院の信愛している医院長に、

昨年に続いて、ある都心にある大学の医学部の管轄下の病院に、
紹介状をお願いした。



昨年は、検査日の3月23日の前日、私は食事は、おかゆが3食として、
当日の23日は、5時に起床して、やがて7時に都心に向かった。

やがて病院の本館は8時に開館となり、8時半より本館の受付を開始後、
内視鏡室の受付をした後、具体的な説明を受けたりした。

何かしら下剤を飲み、腸がきれいになるまで、それぞれトイレに行き、
便の状況は、若き女性スタッフが確認します・・、
この後は、担当医師より、大腸の内視鏡検査・・、
このようなことを私たち受診者6名は、聞いたりした。

やがて中高年の男女の私たちは、学童の50メートル競走のように、
強力な下剤の入った紙コップを4杯・・少しづつ飲み、
それぞれ時折トイレに通ったりした。



やがて11時ぐらいの時、若き女性スタッフが、

『XXさん・・これでしたら、検査が受けられますょ・・』
と私は隣室に居る控え室で聞こえてきた・・。

ある御方は、下剤の成果で、検査室に向かったりした。

やがて12時過ぎに、受診者は増える中、
私は若き女性スタッフより、通路を歩いたり、階段を登り降りされて、
身体を動かして、この間に下剤を飲み、トイレに行って下さい、
やさしい声で叱咤激励を受けたりした。

腸をきれいにしろと言われても、齢を重ねると、
下剤を飲み続けても、鈍くなり、トイレに行っても成果はでないょ・・、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして食事は、昨夜のおかゆから、下剤と煎茶ばかりで、
お腹がすいたょ・・と独りこぼしたりした。



こうした悪戦苦闘をしながらトイレに8回も出動した後、

何とか検査受ける資格に合格したのは、午後2時過ぎであった。

やがて検査着に着替えて、医師より大腸の内視鏡検査を私は受けたりしたのは、
午後3時半過ぎであった。

まもなく医師より、私は検査の状況の説明を、
具体的にディスプレーに10数枚の写真を明示して、
奥まで検査しまして、5ミリのポリープがふたつあり、これ以外は異常なし・・、
このポリープに関して、私に紹介状を書いて下さったXX先生と、相談して下さい、
と受けたりした。

私は心の中で、5ミリのポリープを見つけて下さった時、切除して下されば良かったのに・・
市内にある医院は切除してくれたのに・・やはり大学病院は検査とか治療、手術など、
分かれているからかなぁ・・と呟(つぶや)いたりし、少し落胆をしたりした。



こうした5ミリのポリープがふたつ・・

この後も私なりに気になり、
遅ればせながら、一年遅れでポリープ切除をして頂いたりした。

もとより通常の大腸の内視鏡検査した中で、ポリープ切除となったりしたが、
一月に我が家の近くの内科専門医院の信愛している医院長に、
昨年に続いて、ある都心にある大学の医学部の管轄下の病院に、
紹介状をお願いした。。

この紹介状を私は持参して、
ある都心にある大学の医学部の管轄下の病院の担当責任者に、
私は面会して、ポリープ切除は同じ分野で得意な医師を紹介され、
やがて推薦された医師にお逢いして、本日ポリープ切除となった。

昨年は8時半より内視鏡室の受付をした後、
具体的には下剤を飲み、腸がきれいになるまで、それぞれトイレに行き、
やがて検査終了できたのは、午後3時過ぎであった。

私は6名の中で、5番目であったりした。
そして検査の中、私と同じグループと談笑したりし、
殆どの御方が、前日に下剤の薬を服用して、検査を受診した、
と私は教えられたりした。

こうした私は、小学校の運動会で、50メートル競走で、
6年間・・5着が多かったりした。



こうした苦い体験と同様に、検査の受診は5着であったので、
今年は検査の前日の昨夜、下剤の服用して、敗者復活戦とした。

結果的には、今年は検査終了できたのは、昼の12時であったが、
やはり大腸の内視鏡検査は、食事の制限があり、苦手な下剤、腸がきれいになるまで苦行・・、
疲れたよなぁ・・と微苦笑したりしている。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

認知症、アルツハイマー病の予防改善する習慣、そして最新治療、78歳の私は学び・・。

2023-03-05 12:42:31 | 喜寿の頃からの思い

先程、ヤフー・ジャパンが配信された記事を見ている中、
『 アルツハイマー病の最新治療! リコード法とは?
         アルツハイマー病を予防改善する習慣【医師監修】 』、
と題された見出しを見たりした。

ハルメク365

食事・運動・睡眠の新習慣8

認知症は、いまや身近な病気になりました。


初期のアルツハイマー病の9割が改善! リコード法とは?

<picture></picture>

365

アミロイドβ発生は脳の防御反応

アルツハイマー病を予防・改善する新習慣8



注)記事の原文に、あえて改行を多くした。



今回、アルツハイマー病に精通されている医学博士の白澤卓ニさんより、
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

90年代ソング TikTokでよみがえる「懐メロ」、78歳の私は学び、愛惜と涙が交差して・・。

2023-03-04 15:52:48 | 喜寿の頃からの思い
先程、ヤフー・ジャパンの『トピックス』ニュースを見ている中で、
『 90年代ソング TikTokでよみがえる「懐メロ」』、
題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の満78歳の身であるが、
過ぎし1970年〈昭和45年〉の春、

この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。

まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、

外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられたりした。

こうした中で、制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を
20年近く配属されたり、経理畑、営業畑などで奮戦した。
                                   
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年から各社がリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。

そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。


このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったした中、
この当時は大企業も盛んにリストラが実施されていた。

こうした中で、私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もなく、
何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまい、
定年後はやむなく年金生活を始めたひとりである。



                          
そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。

このような私であるが、やはり音楽の《・・90年代ソング TikTokでよみがえる「懐メロ」・・》、
このような動向に気になり、読んでしまった・・。

 
毎日新聞

TikTokでよみがえる「懐メロ」 エネルギッシュな時代の象徴#昭和98年



なぜ今…「ロマ神」再生回数16億回超え

98年のCD売り上げ6000億円


「バズる」カギは「15秒」

渋くて「エモい」懐メロ

昭和は別世界、平成は…

コギャル、ギャル男…若者が物事を動かした

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。



今回、《・・90年代ソング TikTokでよみがえる「懐メロ」・・》、
記事を読み、多々
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やってはいけない生活習慣と予防体操、78歳の私は学び、微苦笑して・・。

2023-03-03 14:36:36 | 喜寿の頃からの思い
どんよりした女性のイラスト
うつ病患者の約6割が、体に何らかの痛みを感じているという。
      また、痛みによってストレスを感じると、さらに痛みがひどくなるため悪循環に


☆たばこやお酒は痛みを増大させる

「喫煙は、血管収縮作用があるため、痛みを悪化させます。
ニコチンを慢性的に摂取していると、痛みを過敏に感じる作用が働くようになるんです」 
そう麻酔科専門医の柏木邦友さんは警告する。

アルコールは、少量であれば血流をよくする作用があるが、飲みすぎは厳禁だ。

「アルコールが体内で分解されると、『アセトアルデヒド』という物質になりますが、
これが過剰になると、頭痛、胃痛、吐き気、二日酔いの原因になります。

飲むならジョッキ1杯程度のビールにとどめて、
水分もしっかり摂るようにするといいですね」(柏木さん・以下同)

ビールジョッキを手にした女性がお腹に痛みをかかえているイラスト
アルコールは利尿作用があるため、飲みすぎると脱水症状を引き起こし、
結果血流が悪くなり、痛みが増す

☆孤独やうつ、不安が強いと痛みを感じる

不安やストレスも、また痛みを強くする要因となる。

「不安なときは、幸福物質と呼ばれる『エンドルフィン』が出にくくなるため、
痛みを感じやすくなるといわれています。

逆に、楽しいことを考えているときや、リラックスしているときには、
『エンドルフィン』が分泌され、痛みを感じにくくなります。

過去の研究論文では、痛みについて人に話すことで、
痛みの軽減につながると示唆したものもあり、
周囲に理解されることも、不安を減らし、痛みを和らげる効果が期待できると考えられます」


誰かが痛みに苦しんでいるとき、「大丈夫?」と言いながら背中をさするだけでも、
相手は痛みを理解してくれたと感じて、楽になるそうだ。

☆夜、眠れなくなると痛みがどんどん増す

人間は、そもそも夜に痛みを感じやすいという。

「人間は、昔はマンモスなどの敵と戦わないと生きられなかったため、
昼間は、アドレナリンやステロイドホルモンが出て、
痛みを感じにくくなっています。

夜は、傷ついた体を修復するため、これらのホルモンは抑えられ、
痛みを感じやすくなるとされています。

進化した現代でも、このメカニズムは変わっていないようです。
また、睡眠不足は、免疫機能の低下も引き起こします。
慢性の睡眠不足であれば、医師の指導のもと、睡眠薬の導入も検討した方がいいでしょう」




☆腰痛以外の痛みにも◎ 1か所30秒腰痛予防体操

腰痛や肩こりなど慢性的な痛みには、運動療法が推奨されている。

「ウオーキングや水泳などが、おすすめです。
筋肉を強化し、体全体をほぐす目的としてストレッチもいいですね。
血流もよくなるので、体全体の痛みの解消にもなります」(柏木さん)

腰痛予防体操イラスト
出典:厚生労働省「腰痛予防体操」より


息を止めずに、ゆっくりと吐きながら、1か所20~30秒、
痛みのない程度に、それぞれの筋肉を伸ばし続ける。

元の体勢に戻るときは、5秒くらいかけて、ゆっくりと戻る。
1か所に対して、1~3回程度行おう。


☆教えてくれた人

麻酔科専門医・柏木邦友さん/東京マザーズクリニック麻酔科医、アネストメディカル代表。
著書に『とれない「痛み」はない』(幻冬舎新書)が。

取材・文/廉屋友美乃 イラスト/沼田健 資料提供/柏木邦友さん ・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。



今回、麻酔科専門医・柏木邦友さん


タバコに関しては、過ぎし2019年の新年そうそうの1月3日の夜10時過ぎ、
私は心臓の左胸が圧迫され、強く痛みを感じて、
やむなく救急車で循環器専門の『榊原記念病院』に搬送されたりした。

そして『榊原記念病院』に到着後、10数名の医療スタッフの中で、
私は中央診察台で心電図、造影剤を入れてカテーテル、そしてCTスキャンなどの精密検査、
或いはレントゲン終えたのは、早朝3時半すぎであった・・。

やがて『胸膜炎』(追記・急性冠症候群)と病状とされ、しばらく経過観察したく・・
と入院が余儀なくされて、結果的に8泊9日の入院となったりした。

こうした中、退院の一日前、40代の男性の担当医師より、
『私もタバコを喫っていましたが、やはり身体によくないと思い、
3年前にやめまして・・
貴方もタバコやめることはできませんか・・』、
と私に言ったりした。



過ぎ去り遠い年、若き大学一年のワンダーフォーゲル部に加入して、
 10泊11日間の夏季合宿に於いて、
中日が休息日であったりした。

こうした中で、先輩がタバコを喫っていて、
私も真似事のようにタバコを喫ったりした。

これ以前に中学3年の時、いたずらでタバコを喫ったりしたが、
担当の先生より、これから志望した高校は、退学になるなら・・、
と私は忠告を受けたりしたので、
これ以降は、もとよりタバコは無縁となったりした。

この合宿した後、タバコを喫い始めて、
やがて映画、文学青年の真似事をしている時、
やがて敗退した後の長きサラリーマン時代の34年間に於いて、
タバコを喫いながら、物事を思案したり、思考したりしてきた・・。

こうした習性が長年続き、タバコを禁煙したならば、
言葉とか文章が、脳裏より舞い降りて、こなくなるかもしれない、
と危惧したりした。




やがて定年退職後、多々の理由で年金生活を始めた後、
中学時代の同級生の有志により、私の退職祝いを開催してくれたりした。

この時、同級生の好感している女性のひとりから、
XXくん・・タバコをまだ喫っているの・・、
と言われたりした。

或いは男性の同級生より、
俺は・・孫が出来た時、3年前にやめたょ・・、
と私は言われたりした。

やがて65歳の頃、健康診断の時、女性スタッフより、
XXさん・・タバコをおやめできませんか・・、
と私は言われたりした。

こうした時、タバコは・・一生のお友達ですから・・、
と御苦笑しながら、抗弁したりしてきた。




4年前、入院先で、ベットに腰掛けていた私は、
担当医師より、『私もタバコを喫っていましたが、やはり身体によくないと思い、
3年前にやめまして・・
貴方もタバコやめることはできませんか・・』、
と私に言ったりした。


私は、困ったなぁ・・と溜息をしたりした後、
『これを機会に、タバコやめます』
と私は担当医師に向かって言ったりした。

そして自身を鼓舞するように、人生は気合だ、と心の中で叫んだりし、
これを機会にタバコにお別れとなったりした。

こうした根底には、やはりタバコは身体に良くないと、担当の医師から進められて、
何かを断念しなければ、この先はないと思い、断腸の思いで禁煙したのは本音であった。

お酒に関しては、過ぎし2010年(平成22年)の秋、
私は66歳の健康診断の時の結果、
『糖尿病の疑いがありますので、内科に受診して下さい』
と明記されてしまった。 

私は青ざめ、翌日に自宅から徒歩10分ばかりの内科専門病院に行き、検査、そして問診の時、
『国内旅行に何とか70歳ぐらいまで行きたいので・・
何なりと御指導をお願い致します』
と私は内科の医院長に懇願した。
 
そして高橋真梨子さんが唄われた『桃色吐息』は妖艶であるが、
体力の衰えた66歳の私は、蒼色吐息のような表情で、
内科の医院長のアドバイスを聴いたりした・・。
 
私は家内との共通趣味は国内旅行であり、糖尿病の場合は、もとより食事制約がある。
このような時、家内と共に旅行の宿泊先で美味しい夕食を頂けそうな時、
私は食べてはいけない料理だったら、余りにも惨(みじ)めである、と思ったりした。
 
やがて医師から、料理のカロリー試算表を渡された上、
 軽い運動を毎日して下さい、と私は言われた・・。
 
この後、6週間の私は、家内が料理のカロリー試算表を確認しながら野菜を多くした料理を作って貰い、
これ以来、朝夕頂いたりした。
 
そして私は、ウォーキングをしたり、或いは早足で遊歩道を歩いたりし、
お酒はしばらく・・さよならねぇ、と夕食の時も煎茶を飲んだりしていた。
 
          
 
こうした中、私は最寄の内科に8週間毎に定期検査日、そしてこの間に検査結果日と健診を受けて、
糖尿病の範囲の対象から克服でき、悪玉コレステロールは基準値の90%、
これ以外は、ほぼ優等生となって、改善努力の成果となっている。

この時、医院長より指針とされたことは、
糖尿病の指標となる血液検査項目の
HbA1cに於いて、
糖尿病の境界値である6.5%を切れば、糖尿病予備群となります、
このようなことを言われたりした。

そしてこうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
 
しかしながら家内は、糖尿病の予備群ですから、程々に注意して下さい、と言われる時もある。

このように私は、私は最寄の内科に8週間毎に定期検査日、
そしてこの間に検査結果日と健診を受けて、早や13年目となっている。




このような体験をしてきた私は、


こうした中、ときおり認知症、心筋梗塞だけは勘弁してねぇ・・
と秘かに祈願しながら歩く時もある。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする