在来種の「日本タンポポ」でありますよ^^;
道を歩いてタンポポを見つけると花の基部(総苞片)を見てしまう。皆さんご存じかも知れませんが、苞片が反り返っているものが西洋タンポポであり、反り返っていないものが在来種の日本タンポポという簡単な見分け方である。(交雑があり混在する場合もあるらしい^^;)
アスファルトの切れ目からも生えている西洋タンポポを見ると、その生命力の強さに驚き、めっきり数が少なくなってしまった感のある在来種は、西洋タンポポに駆逐されてしまったのではないかと思ってしまうのだけれど、在来種もしっかり生き残っている。棲家を失って『もごさい(可哀そう)』という感覚になってしまうのだけれども、在来種は春に花を着け、帰化種は夏も咲き続けているから目立つだけであり、また、帰化種は都市化された空き地(空間)にその生活の地を求めていることのようである。いわゆる「棲み分け」があるようで、野(自然豊かな場所)にはしっかり生き残っているのでありますよ。このままでは、在来種が無くなってしまうのではないかという感覚は『老婆心(老爺心)』のなせる業かも知れませんなぁ^^;
はてさて、『第2サティアン(事務室)』内に鳥の羽毛が散っていた。「何で?」…「ゲゲ! シジュウカラが玄関先に転がっている!」あ~あ、同居猫『シロ♀』が捕まえて来てしまったようであります。「あらららら、もごせごど。(可哀そうだこと。)」…本能とは言え、食べることもない殺戮でありますよ。叱ったところで、当のご本人はその訳さえ分からないだろうに…「ちょっと待ったぁ~!」
『キブシ科』の花?…ピントが^^;
同じく食べる訳でもない生き物でも、ネズミを獲ったなら「良くやった。」と褒め、野鳥ならば『もごさい(可哀そう)』となる『おやじぃ』の感覚…彼女にしてみれば動く物に飛びつく本能なのか、遊びの一環なのか?「同じ命」であるはずなのに、ネズミの命は奪っても良く、野鳥の命は奪ってはいけないというのは、勝手なその時だけのご都合主義である。小さな農園の中では、日常茶飯事に命のやり取りが行われているというのにねぇ…。
「食べるなら良く、遊びならいけない。」という感覚も少々違うような気がする。翻って、我が身のことを考えてみれば、足元のアリを踏み潰したとしても、うるさいハエを叩き落したところで、『もごさい(可哀そう)』などという感傷に浸ったりしないはずである。そんなことを考え始めたら、自分自身が生きることが出来なくなってしまうもの…事務室に迷い込んだカエルやハチを屋外に解き放して、多少の善行を積んだと思い込んでいるだけですわ。
はてさて、吹雪の中で背中を丸めて通学する子どもたちを見て、『あらあら、もごさいごど。(可哀そうだこと。)』などと、余計な『老婆心(老爺心)』で眺めるだけに留めておこう…『もごせごと、車さ乗ってけ。』なんて声を掛けようものなら、変質者による『声掛け事例』として報告される当世だからねぇ(笑)
#戦争反対 生き物たちの生存場所の争いや命のやり取りは自然の摂理として納得するのかね?自由や生き残りを掛けての人の命のやり取りならば…難しい。「成らぬものは成りませぬ。」それしか答えが無いような気もするが…。