団子を見て考えた…
枝豆をペースト状に潰した「ずんだ」…豆を潰す…豆を打つ…「豆(ず)ん打(だ)」と転訛したという説がある。(諸説あり)ちなみに、伊達政宗公の居城でもあった、我が在所米沢地方では『じんだん』と呼び、村山地方では『ぬた』と呼ぶ…『じんだん』を塗りたくるからかい^^;
それは置いておいて、本当は「ぼろぼろ」…「ぼろ」…「ずたぼろ」を調べていたのだけれど、最後に「ずたずた」という言葉に行きつき、「寸寸」と書いて「ずたずた」と読むと言うことを知る(驚)
「ずたずた」とは「つだつだ」の音変化で、きれぎれになるさまを表す言葉で「ずだずだ」とも言うし、「寸寸」と書いて、そのまま「すんずん」と読んでも構わないようであります。大豆を細かくすり潰し『ずだずだ』にするから「ずんだ」という仮説は、敢え無く棄却されましたけれど…^^;
梅雨入り前の台風2号の影響で「線状降水帯」が発生し、各地でまた甚大な災害が発生してしまったようであります。『大雨で各公共交通機関は「ずたずた」に寸断されてしまった。』などとも表現されるから「ずたずた」には余り良い意味を持たない表現であり、今朝の「お題」としては不適切かも知れません。罹災された方々には心よりお見舞い申し上げます。
実姉の墓参りに行ってきます…
さて、我が在所では、折からの大雨などにより「ずぶ濡れ」になることを『だらくされ』になったという方言もありますが、(着物が)『だらだらになった』という言い方もある。『ずだずだにぬっちゃ(濡れた)』と言った記憶もあるのだけれど、こちらの方は『おやじぃ』の曖昧な記憶であり、方言として正しいのかは定かでありません^^;
はてさて、『心がぼろぼろ』『心がずたずた』…「物」でもない『心』が憔悴しきってしまい、きれぎれになってしまうのも好ましいことではありません。「物」ならば、また縫い合わせることも出来るのでしょうけれどね。しかし、『BORO』と表現すると着古して「ぼろぼろ」になった着物や布を指す場合もあるらしく、新たなアートシーンになっちゃうんですと^^;
実姉が亡くなって丸3年経ち、正直なところ未だに『心はずたずた』…しかしねぇ、継ぎはぎだらけでも縫い合わせることが出来れば良いのだけれど、思い出を縫い合わせることは出来ませんからねぇ。『心』は縫い合わせるものではなく、良い思い出で埋めて行くものかも知れない。ならば『ZUTA』と表現し、今までの良い思い出とこれからの楽しいことの切れ端である『ZUTA』を貯め込んでいく…『心がZUTAZUTA』ならば幸せな気分になれるかも?心が折れかかっている人には、何の励ましにもならないかも知れないけれど…。