どっちを締めれば止まる?どちらでも^^;
「痛み」を伴った経験をすると、その「痛み」がどの程度だったかを基準にして、この程度なら受忍の範囲なのか、耐えがたい痛みなのかを判断するようになる。もしも新しい耐えがたい「痛み」が発生すれば、今度は「新しい痛み」を基準として、次に訪れるであろう「痛み」の程度を考えるに違いない。
「今年の雪はすごかった!」と評価しても、はて?「前回○×年の雪の時は交通障害が生じた。」とか「連日、除雪作業に追われていた。」という経験を思い出し、「まぁ、そこそこの大雪の年だった。」という感想で終わってしまうのではなかろうか…雪が消えてしまえばそんなものでありますよ^^;
「あの時は、お互いにあんなに愛し合っていたのに…なぜ?」と言うのは大きな勘違いであり、ピーク(絶頂)期の記憶をエンド(最後)まで続くであろうと考えてしまう幻想である(笑) 世の中には「ピーク・エンドの法則」なるものを提唱される方がいて、「人は過去の経験を、そのピーク(絶頂)期にどうだったか、ならびにどう終わったかだけで判断する。」と言うことらしい。『あの時は、お互いに…』なる発想は、一方的な思い込みであり、もう一方の当事者は、その間に『決定的な痛み』を感じているに違いない。我がお袋は、親戚の子どもたちが長期お泊りをした時には、「最後の晩だけごちそうすれば良い。」と語っていた…「子どもは、親に何をごちそうになった?」と聞かれてたとしても、最後の晩のおかずのことしか答えないからということらしい。彼女は「ピーク・エンドの法則」の実践者であったに違いない(笑)
可愛い仔猫も大人になるのよ^^;
まぁまぁ、大雪の年もようやく終わりを告げようとする頃、わざわざ「ピーク・エンドの法則」など持ち出す必要もないのだけれど、雪国に暮らしていると、『喉元を過ぎれば熱くなくなる。』から不思議である。我が同級生の旦那さんが、かつて仙台市内から移住してきたのだけれど、初めて迎えた冬が途轍もない大雪の年だった…残念ながら、次の春を迎える前に早々に引き払われてしまいましたけど^^;
彼にしてみれば、初めての経験が「痛み」のピークだったに違いない。こちとらにすれば、そんな年もあるさぁ…くらいの感覚なんですけれどね。(もし、春になり、一斉に花が咲き乱れる季節を迎える頃までいらっしゃったならば、冬の苦労も満更ではないと思われたかどうかは定かではないけれど…。)彼にとって、我が在所のイメージは、途轍もない豪雪地帯で難儀したというところで止まってしまっているに違いないのである。はてさて、この地から離れることも無いであろう『おやじぃ』は、「ピーク(絶頂期)」の思い出だけにすがって生きている訳にも行きますまい。「ピーク・エンドの法則」が正しいならば、これから迎える「エンド(最期)」を大切にすべきかなぁなどと考え始めた…祖母、親父、お袋、姉とそれぞれの想い出もあるのだけれど、別れの時がそれぞれに一番記憶に残っているから。
#戦争反対 人は誰しも間違いを起こす。折角の名声や地位も晩節を汚す行為で、歴史書に悪名を刻まれたのでは堪らないのでは…例えそれが本人にとって「正義」だとしても。戦争には反対です!