今日は彦根で、平日のミサ、聖書通読、陶芸と朝から3時ごろまで過ごす。平日のミサは、シンプルで讃美歌なども歌わない。それだけ集中したミサになる。そのあとの聖書通読はひたすら旧約聖書を読む。今回のテーマが「比喩」(直喩)なので何を比喩しているのか考えながら読むので、難しい。そして、30分ぐらいのランチタイムに植木鉢をいただいた元骨董屋さんのOさんと行く。自家製のパンを焼いているコーヒー屋さんで軽食を取る。彼女は80歳を過ぎたばかりだが、頭は実にやわらかい。
二人の感性は近いので知り合ったばかりでも、話は早く、分かり合える。「なんであなたがいいかというとなぁ、お母さんを看取っているから、よく気が付くからや」と言われた。「そうか、神様はうまく引き合わせてくれるものですね。私は母を十分看られなくて心残りがあるから、Oさんにできるだけのことはしたいと思っているですよ」と私。「自分の両親は最期まで看ることができなかったけど、亭主と亭主の両親は煙になるまで看たんや。最期まで看たほうには、後悔が残るんや。ああすればよかった、なんであんなにどなったのだろう・・・とかね」と彼女。
彼女と出会えてよかった。そういうものか改めてわかった。確かに、父は忙しくて母に任せきりであまりかかわれずに終わった。後悔というものはあまりない。でも、母のことは寒ければ寒いで、暑ければ暑いで後悔が残る。母も最期まで看取った祖母には80歳のころ「この部屋で一人で寝ていると、おばあちゃんはこの部屋で何を考えて一人寝ていたんだろう と思うんだ」といったことがある。Oさんも同じようなことを言った。
「介護にこれでいいということはない」と言われるが、最期まで自分で看れば「悔い」が残るのだ。妙に納得し、そして「悔い」を少しでも償える相手に会えたことを感謝した。償える人がいることは幸せだと思う。
家に帰ると5時近かった。母に今日の出会いを報告した。