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聖書の中のかんいん

2020-01-10 19:01:15 | 日記

今朝も雨上がりの空気があたたかい。寒中だというのに、暖冬のせいかどこかに春の感じがある。今日は教会の聖書の通読会へ初めて出席。ただ、聖書を音読するだけだという。あまり読んでいない旧約聖書なので参加することにした。(強引に誘われたのだが)神父様をいれて5人で読んでいく。配られて解説付きのプリントを見てびっくり!2時間で読む量が12章もある。「まじか!?」と内心思う。それをひとり1章ずつ読むのだが、半端ない章もある。回ってきたのは、一番長い章だった。もちろん比喩なのだが、「姦淫」「淫行」「欲情」なる言葉が続く。不思議なもので聖書なので読むのは抵抗なく読んだ。(字を見ると怖いが)そのうち念仏のようになる。ただ、「読む」ということはこういうことか と思う。僧侶がお経を声を出して唱えるようなものだ。そのうち、神の言葉をまさに読んでいるような気がする。

この時代から「背信」ということはあるのだ。「背信」はどうなるのか?「石うち」の刑になるらしい。しかし背信者に石を投げられる人は、罪を犯したことのない人だというと、投げられる人はいなかったという。何が「罪」で何が「罪」でないかは難しい。あくまでも「法」で解釈するほかないのだろうが、キリスト教や仏教でいう「罪」はちがうのだろう。最近起こる事件?を見ていると、その判断に苦しむ。

「姦淫」しないで心の中で思っていたら?これはキリスト教では「罪」と言っているが、許さないということではない。年を取れば、こんな問題はないのだろうが、人は墓場までらしく悩ましい。ほかの動物と違い、ひとは生殖のためだけに生きているのではないので、むずかしい。ゴリラとお話ができる京大総長の山極氏が「プラトニックラブなどは、動物世界では理解しがたく人間だけのものだ」といっている。確かにだ。

ひとがひと故に、仏教もキリスト教も面白い気がする。さらば、ひとらしく生きるのもいいかもしらない。

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