久しぶりに御ミサを授かった。4つの教会に3人の神父さま、日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語のミサになると、日本語のミサは月に1回だけになる。今日は日本語のミサで、韓国の神父様だった。コロナ対策の中、まだ声を出して祈ることができない。今日は第5回「貧しい人のための世界祈願日」で、教皇様のメッセージがあった。「貧しさ」は物質的に恵まれた人たちのなかにもあるという。「貧しさ」とはを考えるミサだった。
昨日寂聴さんのことを思った。99年生きて残ったものは「ひとを愛したことだけだ」と話していた。「あいする」ということは結果を恐れることではない。今、目の前にいる人に「あい」を捧げることだろう。ひとはその時期その時期で成長し、その「あい」も成長するのだろう。なぜ、あの人のような人を愛してしまったのだろうと思うこともあろう。それはそれでいいと思う。そして、またあるときはあの人をあいしてよかったと思うかもしれない。
私は今日NYへ旅立たれたお二人はお幸せだと思った。批判にも傷つきながらも絶えて旅立った。批判はなんとでもできる。でも、単なる私利私欲では貫くことができない時間だったようにも思う。欲しい自由のために人を苦しめたかもしれないし、そのために苦しみ悩まれたことも多かっただろう。一緒にいたいというお気持ちだけは、誠実で間違いのないことではないだろうか。それを善悪という道徳で裁くことはできない。あとのことをどうこういうのは、もはや大きなお世話のような気もする。あいするひとと仮に何年かでも暮らせたということは、しあわせなことだろう。
あいをつらぬくとはきびいしことだ。私のような自己肯定感が低かった人間は、つい引いてしまうし、相手のことを信じがたくもなる。(なぜわたしを?と)
この頃思います。「あい」を知る人は意外に少ないと。ましてや大人のあいを。