久しぶりに東京に出かける。爽やかな秋晴れだが夕方は涼しくなる。帰宅して電灯をつけるとなにか暗い気がする。目が悪くなったのか、以前よりも明るくないとパソコンも見難い。「秋深し 隣はなにをする人ぞ」で始まるメールが届いていた。秋深し か・・・・。隣でなく、気遣う人が増えてくる。お元気でお過ごしなのだろうか と。
お借りした本を東京までの往復で読み終わる。秀吉とおねの話である。この本は何を伝えたいのだろうか?と迷う。何かを伝えたくてものを書くのだろう。私自身ぶろぐは伝えたいことがあって書いているが、思いを書ききれない日もある。いや、そういう日のほうが多いかもしれない。読みやすい長さへの制約もあるし、そこまで書いていいものだろうか とも思う。「伝える」こと一つにしても、エネルギーの低下を感じる。突き進む情熱が減るのは、ある意味でいいのだが、自分が自分でないような気持ちにもなる。始めの情熱も長続きせず、すぐに「おだやかさ」がやってくる。激しい山を平坦にする能力が増したというのだろうか。
人の生き方に育った環境が影響しているという話が出た。家族というか両親というか夫婦というか、そこになにか共通の基盤がないと、どうして生きにくくなる という話になった。ちぐはぐな思いの夫婦の間で育つと上手く家族像のようなものができにくいのではないだろうか。人間関係もうまくこなせなくなるようだ。
家族とか家庭というものの大事さを感じるが、いまは価値観が多様化した。昔ほど生きにくくはないのだろう。隣はなにをしていてもいい時代になった。でも、秋はさびしい。理屈なく人が恋しい。