太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

受験

2018-02-17 07:58:36 | 日記
姉と、妹の子供が共に、無事に高校に合格した。

自分が受ける試験も嫌なものだけれど、子供の場合はまた違った意味で嫌なのだと、姉妹は口をそろえて言う。





私の最初の受験は、中学入試だった。

生徒が持って行ったお弁当を教室にある「お弁当温め器」に入れて、試験が始まった。

今はもうそんなものは使っていないと思うが、当時は冬になると金庫のような「温め器」でお弁当を温めたものだ。

国語の試験のあと、お昼休みになり、温かくなったお弁当をあけたら、デザートのイチゴから湯気が立っていた。

試験問題の『強制的』という漢字が正しく書けなかったことで気持ちがふさぎ、

熱いイチゴが、また私の気持ちを暗くしたことを覚えている。



次の受験は大学入試だった。

高3の夏に普通大学から美大に進路変更するという、学校設立以来のとんでもないことをした私は職員会議にかけられた。

美術の授業が大嫌いだったから、私はいつも音楽を専攻していたし、

「あなた、デッサン描けるの?」と聞いた担任に、「デッサンって何ですか」と言ったのだから

学校側が私を心配するのも無理はなかった。(その時の担任の呆然とした顔といったら・・・)

美大に行きたい人は中学からデッサンの塾に通うのだという。

それで試しに塾の夏期講習に行ってみたらどうかという担任の勧めで、さっそく申し込んで参加した。

そこで生まれて初めてデッサンというものを描き、作品講評の際に塾の講師が私のデッサンの前で顔をしかめた。

「これ、誰の?」

「私でーす」と私は元気に手を挙げた。

「あなた、何年生?」

「3年です」

「志望、どこ?」

「武蔵野美術です」

ああ、そのときの講師の顔も台詞が、今でも脳裏にありありと浮かんでくる。

「ちょっとみんな聞いた?こーーーーーんなデッサンで3年生で、ムサビ受けるんだってよーッ?!」


夏期講習はまだ2週間あったが、私は怒り心頭ブチ切れて初日で辞めた。

しかし、あの塾の講師こそが私のエンジンに火をつけた恩人であった。

父の知人のまた知人にプロの絵描きがいて、夏休みの間、私は彼の家にほぼ毎日のように自転車を漕いで行き、

デッサンを習った。

卒業名簿から武蔵野美術に行った先輩を探し出し、いきなり電話をかけ、事情を話すと

自分のデッサンを何枚も送ってくれ、入試の日には、わざわざ私を励ましに駆けつけてくれた。





私の中学入試の発表は母が行ったが、姉の中学の入試の発表は、親が怖くて見に行けず、

「あたしン見てくるよ」

と言って祖母が行った。

大学の入試の発表は、姉が一緒に行ってくれた。

当時、姉が住んでいたのは港区三田で、大学は埼玉の東村山に限りなく近いところだったから

電車を乗り継いで鷹の台まで行き、そこから玉川上水を二人で歩いて行った。

模造紙を貼った掲示板を私は見ることができなくて、姉が私の番号を見つけた。




甥の合格発表を、姉は仕事の昼休みに自転車で見に行ったのだという。

最近はメールなどで受け取るのかと思っていたけれど、時代は変わっても、発表を見に行くのだなあ。

受験のことを思い出す時、私はなんと多くの人に助けられてきたことだろうかと思わずにいられない。

あの夏期講習の講師など、あんな憎まれ役をやってまで私を助けてくれた。

あの怒りのエネルギーがあったから、半年の準備期間でなんとかなったようなものだ。

甥と姪が、たのしい高校生活を送りますように。








 にほんブログ村 海外生活ブログ 海外移住へにほんブログ村