父が亡くなり、母もグループホームに入って留守になった両親の住まいを
姉や義兄が少しずつ片づけている。
「これ、覚えてる?」
と言って送られてきたのは、
覚えている、覚えているともさ!
あれは9歳か10歳ぐらいの頃の、図画工作の時間に作った。
B4判ほどの大きさの銅板を、先の尖ったもの(釘だったか)をハンマーで打って
完成させる、なんて呼ぶのかわからないけど、そういうもの。
下書きをして、まわりを凹ませていくのだけれど、やっているうちにだんだんキリンが痩せてしまい、
ガリガリのキリンになってしまった。
キリンの体の柄は、紙やすりか何かでこすって付けてある。
「バランスとか、余白をちゃんと残しておくところとか、完成度が高いよ」
姉も義兄も、これを大変気に入って、家に飾ると言っている。
「昔から絵心があったんだねー」
と姉は言うが、私は図画工作の時間が大っ嫌いだった。
画用紙に白い部分が残ってはいけない、と言われる理由もわからないし、
みんなそれぞれ個性があるのに、優劣つけるのも納得がいかないし、
小学校3年になるときには、私は既に図画工作の授業を見限っていた。
先生の主観で良い・悪いを決められてたまるか、生意気な小学生だった。
それは中学に行っても同じで、吹奏楽部だったのもあって、音楽か美術かの選択は、
高校を出るまで音楽だった。
「そういう人が美大に行って、今、絵を売っているなんて・・・・」
姉がしみじみと言う。
ほんとうにそうだ。
ちゃんと絵を習ったことなどない。
きっと私のこの人生での道は、こっちのほうにできていたんだろう。
デッサンを描いたこともない私が(デッサンの意味も知らなかった)
高校三年の夏休みに付け焼刃的に勉強して、美大に入れてしまったのも、
今、絵を売っているのも。
自慢にもならないが、私がこうしたいと思うことを実現するために、コツコツと努力したことは、ほぼ皆無といっていい。
高3の夏休みにデッサンを習ったのも、再婚相手を見つけるのも、
努力はしたが、振り返ればどちらも1か月ほどの短期間でしかない。
何にしても、短期集中でないと私はダメなのだろう。
45年の時を経て、ひょっこり出てきた私のキリン。
私は『ももいろのきりん』という絵本が大好きで、それでキリンを作ろうと決めたのも覚えている。
あの時の私に、会ってみたいと思う。