太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

不思議ちゃん

2022-11-18 13:57:59 | 不思議なはなし
夫は、昔からちょっと不思議ちゃんなところがある。


昨日、帰宅した夫が

「今、歩いてたらさぁ」

と話し出した。
夫は車を車道に停めて、15mぐらいのドライブウェイを歩いて家に帰ってくる。
そのドライブウェイを歩いているときに、「何か声がして」立ち止まったのだという。
勝手に腕が動いて、両手に提げたランチボックスと水筒を、上腕を鍛えるときのように持ち上げたり下げたりした。

「あ、また自動太極拳かなと思ったらさ、それは家に持ち込まないで、全部手放して置いておけ、て言うんだよ」

「ランチボックスと水筒を?」

「違う違う。今日あったネガティブな出来事とか思いとか」

「(* ̄- ̄)ふ~ん」

「で、勝手に動く腕の体操をしていたら、おへその前に、こう、すっごいきれいなオーラがまあるく見えた」

「へえー、オーラが (* ̄- ̄) それで?」

「なんかすごいよかったよ」

「そりゃよかったねえ」

なんだかよくわからないけど、よかったそうなのでよかった。


こんな夫が、ふわふわ生きているかというとそうでもない。
スーパーに行ったら、ロメインレタスの棚の前で夫が

「1パウンドが5ドル48セントになってる!」

と言う。
実は私は、スーパーではほとんど値段を見ないで買うので、物の値段をよく知らない。
貧乏性にできている私は、値段を見ると、お金がなくなってしまうという恐れに取りつかれてしまい、恐ろしいことに実際にそうなっていく過去の実績がある。
そして50円でも安いものを探し、「品質より、欲しいものより、安いものが似合う私」というふうに、自己価値が下がってしまうオマケ付き。
それで、せめてスーパーでは値札を気にせずに買う、という訓練をしているうちに、本当に値段に疎くなってしまったというわけなのだ。

「私、ロメインレタスがいくらか知らない」

と私が言うと、

「えー、値段見ないの?僕はいつもしっかり見てる。一昨日までは3ドルだった」

うちの不思議ちゃんはふわふわちゃんではないらしい。





欲しいものと、私の価値

2022-11-18 13:25:13 | 日記
ここの多くの企業では、経営者と従業員の面接の上で昇給が告知される。
私の働く職場でいえば、25項目ほどの内容について、自分自身で評価をさせたあとで、経営者側の評価を提示し、話し合いになる。
昇給の時期は特に決まっておらず、また、昇給するとも限らないようだ。
前の職場では、そういう面接すらなかった。


私は人生で初めて、昇給してほしい、という旨を伝えた。


これは私にはかなり画期的なことだ。
給与というのは、真面目に働いていれば認められ、昇給するもので、
昇給しないのは頑張りが足りないからだ、というのが私の考え方だった。
昇給は常に受け身で、自分から昇給を打診するなどとんでもない。
たぶん、同世代の日本人の多くは似たような感覚でいるのではないだろうか。

10月に、ハワイの最低賃金が引き上げになり、10ドル10セントだったのが、12ドルになった。
私がハワイで働き始めた頃の最低賃金は7ドルぐらいだったのを思えばずいぶん高くなったが、これでも全米ではビリッケツの方である。

最低賃金が引き上がったからといって、企業は昇給せねばならないわけではないだろうが、
昨日働き始めた人との賃金格差が縮まったことで、心の隅に小さな波紋が生まれたのに気付いた。
ひと月半ほど様子を見ていたが、その波紋は大きくもならないが消えもせず、とうとう私はゼネラルマネージャーに直接打診したのだった。

最低賃金が引き上がったことを引き合いに出そうと最初は思っていたが、実際はシンプルに、それでも「Would you consider(検討してもらえますか)」という丁寧な言い方で伝えた。
マネージャーは「了解!」と言い、そしてその週のペイチェックからしっかり昇給した。


私は家ではズボラだが、根が真面目なので、仕事はきっちりやる。
手抜きができない損な性分で、適当にやっている人を見るとイライラする。
こういう働き方しかできないのだから、自分は自分、人は人、と割り切るのに時間がかかった。
経営者側もそれを認めていて、昇給もしてきた。
心の波紋と向き合ったひと月半、

「もっと欲しいというほど、自分に価値があるのか」
「打診することで、相手を落胆させないだろうか」

という思いがぐるぐると巡っていた。
いくら考えたところで、相手がどう思うかは相手でなければわからないし、
自分にその価値があるのだと信じる気持ちが、だましきれないほどに強ければ行動すればいい、というところに着地した。

欲しいものは、待っていないで欲しいと言う。
周りを見ていると、こっちの人はあっさりと要求してくる。
こう言ったらどう思われるだろうか、私にその価値があるだろうか、というような日本人的な迷いがないようにみえる。
それと同じく、あっさりとNOと言う。
これもまた、NOと言ったらどう思われるだろうか、という恐れなど存在していないようにみえる。
図々しく要求するくせに、あっさりNOと言う。
要求が通らなかったら、憤慨する。
むろん、そういう人ばかりではないが、そういう人の割合がとても多い。
私はそういうタイプの人になりたくはないけれど、もうちょっと胸を張って、欲しいものは欲しいと言ってもいいのだろうなと思うのである。