太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

母のこと

2020-11-25 11:10:50 | 日記
アラモアナショッピングセンターの、クリスマスツリー。
午後2時頃だというのに、この間の抜けた空間。
週末になったら、もっと人が出てくると思いたい。


母は、父が亡くなったあと、父がいたグループホームの、
父が使っていた部屋にいる。
そのグループホームは、とても家庭的で、家族よりも手厚くしてくれるので
その点は安心しているのだけれど、
母に会えないのは寂しいと思う。



私は、定期的に母にハガキを書いていたが
細かく内容を書いても、最近それが全部はわかってはいないようだと姉が言う。
それで、簡単なことだけを書くようにした。
ハガキの隅に、私と夫の写真を貼る私を
「大丈夫だよ、娘のことは認識しているから」
と姉妹たちは笑う。

読書家だった母が、本を読まなくなった。
母は妄想と現実の間を行ったり来たりしているようで、
母の中では、実家を売って山梨に引っ越すことになっていたり、
妹がよその家の子供を預かっていることになっていたりするらしい。

それでいて、やけにしっかりとしているのはお金のこと。
妹が行った時、母が、
「来月、郵便局の保険が満期になるのがあるから、みーちゃんとけんちゃん(妹と姉の子供)の学費の足しにしてね」
と言い、調べてみると本当に満期になるものがあったという。
母は昔から、いくつも簡易保険などを掛けていて、
そのおかげで、父の医療費がずいぶん助かったりもした。

「行くたび、そう言うんだよ。本当に使ってもいいのかなァっておねーちゃんと話してるんだけど」

母はそうしてもらいたくて掛け金を払ってきたのだから、ありがたく使わせてもらえばいいと思う。


昨年父が亡くなったとき、お寺のことなど、私たちは殆どわからずにてんてこ舞いした。
その時も母は、祖父のときにはお寺さんにいくら払ったとか、
戒名はいくらだったとか、聞くとなんでもすらすらと言う。
位牌はどこに頼もうかというときも、
祖父のときにお寺で書いてもらった位牌の字が好きじゃなくて
作り直してもらった店の場所まで覚えていて、驚いた。


商売をしている家に嫁ぎ、母はずっとお金の苦労と背中合わせで生きてきた。
働き者だけど奔放な父と、節約家で保守的な祖父、お嬢さん育ちの抜けない祖母。
私は母から、お金に対するネガティブな観念を植え付けられてしまったことを
恨めしく思うこともあった。
「お金がたまると、ろくなことがない」
と言い放つ母を、正したい気持ちになったこともあった。

けれど、母が手さぐりで、一生懸命にやってきたことを
ネガティブだのポジティブだのという言葉でくくってしまおうとしていたことを、猛反省している。
父にも、母にも、感謝しかない。


父が、ときどき母に会いに来る、という。
薬の副作用の幻覚なのかもしれないが、私は本当に父が来ているような気がしてならない。
父はお風呂に入るときも、風呂場のドアの前に母を立たせて、おしゃべりしながら入っていたほどの寂しがり屋だから
きっと母の様子を見にきているのだと思う。


目を閉じて、母を思うと泣けてくる。







トンネルの、あっちとこっち

2020-11-24 10:23:50 | ハワイの自然
ハワイの冬は雨期で、私が住む地域は毎日雨ばかり。
特に夜中にザーザーの雨が降る。
今日は、マンモグラムの検査があってホノルルまで行かねばならない。
私の車は塗り直しに出しているので(その記事はコチラ)、夫の車を借りてゆくことにし、
朝、夫を職場まで送っていき、午後に検査を受けたあと夕方に迎えに行く。

雨の中をホノルルに向かって走り、
トンネルを出たら、そこは青空。

こんなに小さな島なのに、
屏風のように横たわる山脈の、向こう側とこちら側では別世界。

トンネルのこちら側

山筋に雨でできた滝が出現

トンネルを過ぎただけで、これ。

トンネルの向こう側

向こう側に住む人たちが、言う。

「そっちって涼しいのはいいけど、雨が多くて気が滅入るよねえー」

トンネルの向こう側でも、マノアという地域だけは山に囲まれていて、この辺と似たりよったりに雨が多い。
そのマノアに住む友人と、憂さを晴らす。

「オアフ島の水を、あたしンち村で賄ってるってことを忘れた発言だよね!」
「気が滅入るなんてこと、ないよね」

本土の冬のかじかむような雨とは違って、確かにトロピカルな雨はそれほど気分が滅入らない。
トンネルの向こうに出かける用事があるときには、
こっちは大雨でも、車に晴れ用のサンダルを用意して、
気温も10度ぐらい違うので、上着を脱いでも大丈夫な服装で行く。

住めば都。
緑が濃くて涼しいこの村が、私は好きだ。





腐ってもトヨタでは・・・・

2020-11-23 08:42:42 | 日記
私の車は Scion(サイオン)だ。
サイオンは、トヨタ自動車が2003年から2016年まで北米で展開していた。
車を買う時、
・運転席が高めで、
・天井までの空間が広く(夫が運転することもあるかもしれないから)
・視界が広い、
という条件を満たしたのが、サイオンだった。

それから8年、日本車らしく、故障知らずに走ってきた。
大きすぎず、小さすぎず、乗り降りも楽で、私はこの車が大好きだ。



それが、このパンデミックの間に異変が起きた。
車の屋根の一部が、はがれてきたのである。

ハワイの田舎に住む人たちは、一人1台車を持っていることが多い。
うちも例外でなく、我が家には車が4台。
ガレージには2台分の広さがあるが、義父の自転車の道具やらがあるので1台だけ入り、
家の前の部分に2台、もう1台はドライブウェイの外に路上駐車。
私のサイオンは家の前に停めている。


夏の日光がいけないのかと思い、
屋根裏にしまってあった車のカバーを出してきて、カバーをかけるようにし、
スプレー式の塗料を買ってきて、端からメリメリとはがれてきた部分を補修していた。
しかし、塗料のはがれはとめどなく広がっていきつつあり、
2つ目のスプレーを買って対処していたとき、もうこれは素人には手が負えないと観念した。

猫の医療費、夫の救急病院費用をはじめ、今月はほんとうにあれもこれも出費が重なっていたのだけど、
放置すればするほど醜くなってゆくような気がして、「ええい!」と塗り直しに出した。

塗り直してくれるところの人が、言った。

「ああ、TOYOTAね。うんうん、TOYOTAはよくあるんだよねー」

そうなのか!
我が家の他の車はホンダばかりで、何年も雨ざらしで置いていても塗料がはがれるなんてことはないし、
私も35年以上車に乗っているけど、こんなことは初めてだ。
トヨタは日本を代表するブランドじゃないのか。

「!」という金額をかけて塗り直すので、あと10年は乗って、
次の車はホンダにしよう。
日本車神話、ここに(一部)崩れたり・・・・



日本人失格か。

2020-11-22 14:43:12 | 日記
昔からぼんやり生きてきた私は、人が当然知っていることを知らない。
それに自分が興味のあること以外は、何度聞いても覚える気がないので、
ずっと知らないままでいるというのも情けない。

どこを見ても日本人しかいなかった場所から、外に出てみると
自分が日本人だということを認識させられることが非常に多くなる。
日本では、私は単に「シロ」という名前の人物だったのが、
ここでは「日本人の」「シロ」という名前の人物になる。
そして、空恐ろしいことに、私を日本人の代表だと勘違いされることがあるのである。

たとえば、クリスマスパーティによばれて行ったら、
「巻き寿司を作ってほしい」
と言われたことがあった。
日本土産の「巻きす」、海苔、炊いたお米を用意されて私は途方に暮れた。
私は巻き寿司を食べるのは大好きだが、作ったことは1度もないのだ。
一緒に行った日本人の友人も
「大ーーー昔に作ったきりで覚えてないよぅ・・」と弱音を言う。

日本人は全員巻き寿司が作れるはず

彼らは当然のように、そう信じている。

1日おきぐらいに作っているだろうから、目をつぶってもできるはず

もしかしてそのぐらいに思っているかもしれない。
注目の的になった私と友人は腹をくくった。
私は巻きすの上に海苔を広げて、どこかで見たような記憶の、海苔の3分の2ぐらいにご飯を乗せる。
具を端っこに並べて、エイ!と巻いてゆくと・・・・

巻かれていくはずの具が、押されて外に飛び出て、
巻きすにご飯がくっついてべちゃべちゃになった。
(そのときの人々の顔といったら)
友人が挑戦すると、ゆるいけど巻き寿司らしいものができた。
やっぱり1度作ったことがあるのとないのでは違うものだ。



そして今回、困ったのはお米だ。

「ライスはお米にどのぐらいの水で作るの?」

そう聞かれて、私はなんということでしょう、答えられなかった。
炊飯器についてくる米カップでお米を測り、炊飯器の内側の線まで水を入れるということしか、私は知らない。
鍋でお米を炊くことなど絶対にないから、知らなくても困らない。
困らないから、知ろうともしない。

ここで知ったかぶりをしても仕方がないから、

専用のカップでお米を測って、炊飯器の表示する量の水を入れるからわからない

と断ったうえで、
「お米より、ちょっと水が多め」
と言った。
「へえ、だいたいどのぐらい?」
再び窮地に陥った私はヒラめいた。
小学校の飯盒炊飯で、飯盒でお米を炊くときに習ったじゃないか。

「お米の上に手のひらを沈めたとき、水が手首までくるぐらい」

ここで、手首のどの辺だ、ぐりぐりの骨か、最初の皺か、などと突っ込まれたら困ったことになったが、相手は

「ほう!!!!」

とやけに感心してくれたので助かった。


さすがに日本人として恥かも、と思った私はあとで調べてみた。

お米1に対して、水が1.2

米カップは1合=180mlで、水が200mlということらしい。
さらに、手首の話は飯盒には有効でも、ほかの鍋ではどうかわからないらしい。


日本人だからって、みんな着物の着付けができるわけじゃないし
みんな着物を持っているわけでもない。
期待しがちなのはわかるのだ。
私だって、イタリア人だったらパスタが上手に作れると思ってしまう。
しかし、頼むから、この私に関しては過度な期待をしないでほしい。
日本民族の代表のように見られるには、私はあまりにもお粗末なのである。


















塩ピーナッツとアドバルーン

2020-11-21 07:31:33 | 日記
子供の頃、家族でデパートの上の階にある大食堂に行くと、
テーブルの上に塩ピーナッツのガチャガチャがあった。
画像を探してみたが、これしか見つけられなかった。


これは大きいが実際は、テーブルの上に置けるほどの大きさで、上の部分が楕円のような形だったように思う。
料理が出てくるまでの間に、お金を入れて(金額は忘れた)レバーを引くと
白いギザギザの丸い紙の上にナッツが出てくる。

ピーナッツの代わりに、星座占いが出てくるのもあった。
自分の星座にダイヤルを合わせて、レバーを引くと、くるくると巻かれた紙が出てくる。



静岡市の繁華街には、当時、松坂屋と西武デパートと、田中屋デパートがあった。
田中屋はその後伊勢丹デパートになり、西武デパートはパルコになった。

私たち家族がよく行ったのは、松坂屋だっただろうか。

大人になってから、懐かしくて姉と松坂屋の大食堂に行ってみたことがある。
見本が並んだショーケースには、国旗が立ったお子様ランチもあった。
鮮やかな緑のジュースにバニラアイスが浮いた、クリームソーダもある。
塩ピーナッツ以外、子供の私が何を食べたのか記憶にない。

金属とビニールの椅子を、がたがたと音をさせて引く。
安っぽいリノリウムの床は、たぶん、当時のままだ。
姉と私は、ホットケーキとコーヒーを頼んだ。
大きく切り取った窓からは、空がよく見えた。

アドバルーンが、よくあったよね」

若い人たちは、アドバルーンが何なのか知らないだろう。

歳末セールだとか、大安売りだとかいう文句を大きく描いた垂れ幕を
上に大きな風船をつけて、デパートの屋上から浮かせるのだ。
昭和30年代から40年代にかけてが隆盛期だったらしい。
昔はそれほど高い建物がなかったから、遠くからでもそれが見えた。

それからほどなくして、大食堂はなくなった。
おしゃれで豊かになった若い家族は、もうそんなところには行かないのだろう。


記憶には、層があると思う。
子供の頃の記憶は、記憶の中の底辺にどっしりと厚く鎮座しており、風化しない。
その上に重なってゆく新しい時代の記憶は、
時に混ざりあったりして、それほど鮮明ではないことが多い。
時代によっては、何があったのか細かく覚えていない時代もある。
年をとると、昔のことばかりよく思い出すのは、そういうことなのかもしれない。
痴呆になった祖母は、生家に帰る、と徘徊してばかりいたし、
息子である父のことを、兄だと信じて疑わなかった。
祖母の中で、台座以外の記憶はすべて風に飛ばされて消えてしまったのだと思う。


ガチャガチャの塩ピーナッツの塩気を、舌が覚えている。
街に行くときだけ履いた、革靴の赤を目が覚えている。
風化しない思い出を、繰り返し少しずつ取り出しながら、私は今を生きている。