つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

釜ヶ崎の発祥と大阪府の労働者支援施設「あいりん総合センター」強制退去執行

2025-01-12 19:27:01 | おおさか維新の会

 2024年12月1日、大阪府市職員府警機動隊ら総勢500人以上が、大阪市西成区釜ヶ崎の労働者支援施設「あいりん総合センター」から、野宿者たちを強制退去を執行した。「センター」は、1961年の第1次西成暴動を受け、路上で労働者を募る青空労働市場を監督するため、政府大阪府市が1970年に建設した。「センター」には、日雇い仕事を求めて労働者が集まる「寄せ場」や無料・低額で診療する病院施設などがあり、労働者が交流する「拠り所」でもあったが耐震性の問題で、大阪府市が2016年に現地での建て替えを決定し、2019年に閉鎖していたがその後も野宿者が寝泊まりしていた。今後、解体・建て替えを予定している。なぜ今強制退去を執行したのかを考えると、「大阪万博開催を来年に控えて、野宿者が生活する地域の環境を一掃し一変させたい」とのおおさか維新の会による大阪府市行政の目論見であろう事は明らかであろう。

 さて、「釜ヶ崎」という地域の発祥の歴史について紹介したい。

釜ヶ崎」は1901(明治34)年に「梅田新道」と同時に生まれた。きっかけは、1903年5月16日の勅令で「第5回内国勧業博覧会を、1903年3月1日より7月31日まで、大阪市南区天王寺今宮に開設す」と決定した事にある。内国勧業博覧会は、大久保利通内務卿が1877(明治10)年、「国内の産業を奨励し、輸出貿易を伸ばそう」と提唱した事に始まるが、1899年11月の第14回帝国議会で第5回の開催地が議題となった。日清戦勝景気の反動で1896年から不況のどん底で、暗澹たる金融恐慌に襲われていた大阪は「勧業博景気直しを……」と誘致合戦を行い、東京、名古屋を蹴落として決定した。

 会場予定地は「天王寺今宮」と「堺水族館用地」の2つであった。天王寺村会場は、阪堺線恵美須町駅~同霞町~阿倍野橋交差点~四天王寺西門交差点を結ぶ。茶臼山から海が見える景観と、大阪鉄道(現JR関西線)天王寺駅に近い便利さが買われた。

 開催決定と同時につくられた協賛会の住友吉左衛門会長らは、梅田すてん所(現JR大阪駅)~船場・島之内~会場への幹線道路建設を計画したが、島之内から南の郊外へ通じる道は堺筋(堺に通じる旧紀州街道)1本だけ。これを拡張するしか方法はなかった。その会場予定地までの途中に、江戸時代から木賃宿を中心に発生した、いわゆる「スラム街」の「長町」(名護町とも言った)があった。堺筋・日本橋1丁目から南の地域。松坂屋跡近くでは東は松屋町筋、西は南海本線あたりまで広がっていた。紙屑拾い、乞食、人夫、行商人など約3000戸に約1万人が住んでいた。

 1901年に道路拡張工事を開始した。「この道を天皇が通る」とここの住民を強制立ち退きさせた(強制退去執行)。住民たちはその南側を走っていた大阪鉄道を渡ったところの野菜畑に移住した。畑の中に掘っ建て小屋を建て、畑がスラム化し、そこが「釜ヶ崎」となったのである。

 そして、淀屋橋から梅田すてん所へ(梅田新道)は、大江橋~蜆橋~お初天神へと通じていたが、曲折が多かったので、ここでも「この道は天皇が通る」と住民を強制的に立ち退かせ(強制退去執行)、新道をつくった。

この度の、「釜ヶ崎」における「あいりん総合センター」の「解体・建て替え」と「野宿者」の「強制退去執行」には感慨深いものがある。

(2024年12月2日投稿)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

台湾の「親日」とは何か?神聖天皇主権大日本帝国政府による植民地化により100年先延ばしになった台湾民主化

2025-01-12 16:58:30 | 中国・台湾

※以下は2015年12月21日に投稿したものに加筆修正したものである。

 アジア・太平洋戦争が神聖天皇主権大日本帝国政府の敗戦で終わった後、それまで50年間神聖天皇主権大日本帝国政府植民地支配してきた台湾省中華民国政府へ返還されたが、共産党と大陸で内戦を続けてきた蒋介石率いる国民党軍(外省人)が逃げ込み統治した。しかし、士気の低さや驕りのため台湾人(本省人)の人気を失う。そして、1947年に2・28事件が起こった。国民党の弾圧圧政に対する台湾人の反抗である。それに対し、蒋介石(国民党総統)により武力鎮圧(白色テロ)が行われた。かつて植民地時代に日本に抵抗した人々、農民組合の人々、民衆党など(台湾人エリート)が弾圧を受けた。1949年5月に戒厳令が出され約40年間継続した(1987年7月、金門・馬祖以外解除)。政治犯とされた人の最長収監期間は34年7カ月。20年以上は当たり前で2万人。約4500人の死刑囚を出した。反日勢力であった、当時民衆の側に立った人たちが弾圧されたため、親日分子が残っていった。

 親日分子についてであるが、日本による植民地支配は台湾と韓国では全く異なっていた。韓国では封建制度や地主階級を徹底的につぶしたが、台湾ではそれをせず、地主階級を温存し、親日派として養成した。戦後日本との経済が深まるなかで彼らは復権した。しかし、彼らは自分が親日分子だとは言えないため、看板として付け替えたのが「台湾独立派」ということである。その実態は「親日」ということである。

 李登輝氏(2020年7月30日死去)は1996年に初の総統直接選挙を実現し台湾の民主化を推し進めた、と日本のメディアが高く評価する報道をしている。しかし、今日の日本の主権者国民は、これより100年前の日清戦争後の1895年5月末、神聖天皇主権大日本帝国政府が下関条約で清国に割譲させた台湾省を植民地化する事に台湾の人々が抵抗し、独立宣言を発し、台湾民主国を成立させた事実があった事こそ忘れてはならない。そしてそのような台湾省の人々の願いに対し、神聖天皇主権大日本帝国政府があらゆる手段を使って有無を言わせず植民地化を達成しすべての人々の人権を蹂躙した台湾征服戦争を強行した過去があった事こそ忘れてはならない。

 台湾民主国独立宣言文(総統唐景崧名義)は「日本清国を欺凌し、わが国土台湾の割譲を要求す。台民朝廷(=清国政府)に嘆願を重ねるも功を奏せずして終われり。倭奴(=神聖天皇主権大日本帝国政府)不日攻めきたらん事すでに知る。われもしこれを甘受せば、わが土地、わが家郷みな夷狄の所有に帰す。しかれども我もしこれを甘受せずんば、わが防備足らざるが故、長期持続し難し。われ列強と折衝を重ねしも、いずれも援助を期さば台民まず独立せよと主張せり。それ故わが台民敵に仕うるよりは死する事を決す。また会議において台湾島を民主国とし、すべての国務を公民によって公選せられたる官吏を以て運営せん事を決定せり。この計画のため、且つ倭奴の侵略に抵抗せんがため、新政府機構の中枢たるべき人物必要ならん。……」と主張している。

 台湾征服戦争は1915(大正4)年まで続いた。その間の帝国日本陸軍の戦死者は日清戦争を上回った。日清戦争時の陸軍戦死者が1161人、病死7234人、計8395人に対し、台湾征服戦争の陸軍戦死者は1988人、病死者7604人、計9592人といわれている。

  しかし、上記の「独立宣言」に対して神聖天皇主権大日本帝国政府は、圧倒的な軍事力(初めて機関銃を使用)をもって粉砕鎮圧したのである。帝国日本政府は北白川宮能久の率いる近衛師団を急派した。動員兵力はその後の増援部隊(乃木希典率いる第2師団、伏見宮貞愛率いる混成第4師団)を含め、2個師団余の5万人、軍夫2万6000人、馬9400匹。当時の陸軍兵力の3分の1を超えるものであった。台湾省の人々の抵抗の姿は都新聞記者として従軍した大谷誠夫『台湾征討記』では「既に夜も更けたれば敵無かるべしと思わるる方の岸に沿うて300メートルばかり流れ来りたる、東天漸く白みたるを以て最早進行し難し、如何はせんと思案に暮れしが傍らに昼尚暗き迄に生茂れる森林ありて潜伏するには屈強の場所なり、3人はこれ幸いと最も鬱蒼なる中を択んで入り、朝饗を喫せり、是にて携える所の食物は既に尽きたるなり、一行は潜伏所よりひそかに敵の動静を伺うに20人或いは30人づつ此処彼処に群れを為し、中には婦女子にして銃を執るあり、老幼にして槍を携えるあり、糧餉は多く婦人の手に依りて運ばれ宛然米国13州独立のパノラマを見るが如し」と記している。

 神聖天皇主権大日本帝国政府はこの台湾征服戦争を内戦だとして戦時国際法を適用せず、捕虜も取らず兵士や住民を殺害した。

 ちなみに北白川宮能久は1895年10月に台南を陥落させた頃、マラリアで死亡したため、神聖天皇主権大日本帝国政府は官幣大社・台湾神宮及び台湾の諸神社に祀った。敗戦後は、靖国神社に合祀した。李登輝氏は、日本人として海軍に進み、フィリピンで戦死し、神聖天皇主権大日本帝国政府は靖国神社に祀り、敗戦後もそのまま今日に至っている。

また、1930年には霧社で植民地支配に対する抗日反乱事件(霧社事件)が起きた。台湾総督府は飛行機・毒ガス(1928年ジュネーブ議定書発効で使用禁止)を使用する大規模な討伐を行い鎮圧し、敗戦まで植民地支配を続けた。

 上記のような歴史こそ、日本のメディアは主権者国民に伝えるべきであろう。また今日、岸田自公政府が「台湾有事」と称し防衛費を驚異的に増額する問題の発生原因の淵源は、かつて神聖天皇主権大日本帝国政府が中国(当時清国)台湾省を日清戦争の講和条約下関条約により割譲させ植民地支配したという歴史に存在する事を明確にし国民に伝えるべきであろう。この視点は今日の北朝鮮問題南北分断問題においても同様で、神聖天皇主権大日本帝国政府が大韓帝国に韓国併合条約を押し付け日本領土とした歴史がその発生原因の淵源である事を明確にし国民に伝えるべきであろう。つまり、どちらの問題もそもそも神聖天皇主権大日本帝国政府の侵略行為が原因であるという視点に立つ認識が必要なのである。

 米国政府またそれに追従する日本政府が、台湾独立派(反中国)を利用し、習近平政権を危険な悪人視して、習近平政権が中台統一政策達成のために軍事行動を起こすと決めつけ、「台湾有事」なる言葉を吹聴し、日米両国それぞれの国民や台湾省の人々に理不尽との印象を広める事を狙い、危機意識を煽る姿勢をとる事は、日米両政府が習近平政権の中国の国力を抑え込み、世界秩序の主導権において優位に立とうとするための「中国封じ込め政策」を正当化するためのものであり、日米両政府の偽善者による「内政干渉」以外の何物でもないとみなすべきである(日本政府は過去の侵略行為の報復を受けるかもしれないという恐怖感もあるかもしれないが)。つまり真相は、世界秩序に関する、現勢力である米日と新興勢力である中国との主導権争いなのである。しかし残念ながら、すべてのメディアは、主権者国民に対して、神聖天皇主権大日本帝国政府の価値観歴史認識を引き継ぐ歴代政権(自公政権)側に立ち、偏向偏狭な報道を行っており歴史の全貌を報道しようとしていないのが現状である。 

尚、神聖天皇主権大日本帝国政府による台湾の植民地支配がどのようなものであったのかについてはこれとは別に投稿します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする