東京日日新聞は1872年2月創刊。74年に福地源一郎が入社し、新聞論調は政府支持へ。81年に福地が社長となり完全な御用新聞となり、政府系新聞として終始した。1911年に大阪毎日新聞社に買収され、43年には政府の新聞統合政策により毎日新聞となった。
吉野作造『朝鮮人虐殺事件』には、東京日日新聞(16867号)の、関東大震災下における流言飛語の原型の例証として東京日日新聞(16867号)の記事を挙げている。以下に紹介しよう。
『「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」という題下にて、次の如き記事が載せてあった。「火に見舞われなかった唯一の地として残された牛込の(9月)2日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する爲め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張って番人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携えて家の周囲を警戒し、宛然(まるで、の意)在外居留地における義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町6丁目から、平河町は風下の関係から……、又3日朝2人連れの鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」
また、東京日日新聞1923年9月3日版は以下の記事を掲載しているので紹介しよう。
『不逞鮮人各所に放火し 帝都に戒厳令を布く 三百年の文化は一場のゆめ ハカ場と化した大東京
1日正午の大地震に伴う火災は帝都の各所より一斉に起り、2日夕刻までに焼失倒壊家屋40万に上り、死傷算なく、同時に横浜横須賀等同様の災禍に会い、相州鎌倉小田原町は全滅の惨を現出した。陸軍にては昨深更災害の防止すべからざるを見るや、出動の軍隊に命じて、焼くべき運命の建物の爆破を行わしめた。この災害のため、帝都重要の機関建築物等大半烏有(火災で何もなくなる事)に帰し、避難民は隊を組んで黒煙たちこめる市内を右王左往して、飢えに瀕し、市民の食料不安について、鉄道省は各地を購入方を電命し、府市当局は市内各所に炊き出しをなし、三菱地所部も丸の内で避難民のために炊き出しを行った。
一方、猛火は依然として止まず、意外の方面より火の手あがるの点につき疑問の節あり、次で朝鮮人抜刀事件起り、警視庁小林警務長係外、特別高等刑事各課長、刑事約30名は5台の自動車にて現場に向った。当市内鮮人、主義者等の放火及び宣伝等頻々としてあり。2日夕刻よりついに戒厳令をしき、これが検挙に努めているうちに、2日未明より同日午後にわたり、各署で極力捜査の結果、午後4時までに、本郷冨坂町署で6名、麹町署で1名、牛込区管内で10名、計17名の現行犯を検挙したが、いずれも不逞鮮人である。
鮮人いたる所 めったぎりを働く 二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す
今回の凶変を見たる不逞鮮人の一味は、避難せる到る所の空家等に、あたるを幸い放火しておることがわかり、各署では2日朝来、警戒を厳にせる折から、午後に至り、市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ、辛うじて追い散らして、その1、2を逮捕したが、このほか、放火の現場を見つけ、取り押え、または追い散らした者数知れず。政府当局でも急に2日午後6時をもって、戒厳令を下し、同時に200名の朝鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして、警官隊と衝突し、双方数十名の負傷者を出したとの飛報、警視庁に達し、正力主事、山田高等普通課長以下30名、現場に急行し、一方軍隊側の応援を求めた。なお、一方警視庁備え付けの鉄道省用自動車を破砕すべく、爆弾をもって近寄った一団20名を逮捕したが、逃走したもの数知れず。
鬼気全市に漲る
不平鮮人団は、いずれも帽子をまぶかにかぶっているので、普通の男子はすべて帽子を脱ぎ、左手に白布をまとう事とし、もしウサンな男に出会った際は、まず生国を問い、答えの濁る者は追究し、ソレと窮する時は直ちに拳の雨を降らす有様で、殺気は次第に宮城前広場、日比谷公園より丸の内一帯、同日午後9時頃鮮人の一団30余名、避難民をもって充満した二重橋前の広場に切り込んだとの報に接し、江口日比谷署長は部下を率い、警戒に任じ、10時半頃になりその一味を発見すると、彼らは日比谷公園に逃げ込み、10数名の一団は、鬨の声をあげて、ここに避難している老若男女を脅かし、各所に悲鳴起り、相いましむる声と思う呼笛の声鳴り響き、おどろくべき呪いの世界を現出した。東京駅前の大通りで執務している本社出張所附近に怪しき影の出没さえ見え、社員は極度に緊張、殺気立った。目下警戒に主力を注いでいるのは、渋谷方面で、鮮人などは、この方面が焼け残っているので、放火しようとたくらんでいる。
軍隊全動員 警官隊総かり出し
秩序の維持については、軍隊は全動員を行い、近県宇都宮方面はもちろん、新潟高田方面よりも来援をもとめ、警察官も来て近県よりできるだけの応援を求めた。
日本人男女10数名を殺す 本部は世田ケ谷
目黒競馬場をさして抜刀のまま集合せんとし不平鮮人の一団は、横浜方面から集まったものらしく、途中出会わせし日本人男女10数名を斬殺して後、憲兵警官隊と衝突し、三々五々となり、姿影を消したが、彼らは世田ケ谷を本部として、連絡をとっておると。
横浜を荒し 本社を襲う 鮮人のために東京はのろいの世界
横浜方面の不逞鮮人等は、京浜間の線路に向って鶴嘴をもって線路をぶちこわした。1日夜中火災中の強盗強姦犯人は、すべて鮮人の所為であった。2日夜焼け残った山の手及び郊外は、鮮人のくいとめに全力をあげられた。』
(2023年9月10日投稿)