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関東大震災の『読売新聞』論説「支那人(王希天を含む)惨害事件」を検閲・削除・押収し隠蔽を図った神聖天皇主権大日本帝国第2次山本内閣

2023-11-14 13:22:28 | 関東大震災

 2021年9月1日、関東大震災直後の警察や軍、自警団による朝鮮人虐殺犠牲者を追悼する式典が東京都墨田区横網町公園で行われた。日朝協会などの実行委員会が主催し1974年から行われてきた。宮川泰彦実行委員長は「98年前の悲惨な歴史的事実を忘れず、世代を超えて伝承する事が私たちの責務」と挨拶したが、小池百合子氏が都知事になってからは5年連続で追悼文送付をしなかった。実行委員会の要請に対しては「都慰霊堂(同じ公園内)での大法要で犠牲者すべてに哀悼の意を表している。個々の行事への送付は行わない。昨年と同様の対応にご理解を」と回答していた。また、別の慰霊碑(同じ公園内)前では、政府の中央防災会議報告書を無視し虐殺を否定する「日本女性の会 そよ風」(日本会議)が集会(2017年から)を行ない「朝鮮人6千人虐殺はぬれぎぬ朝鮮人追悼碑を撤去に追い込みましょう」と主張した。「そよ風」は2019年集会での主張について、都は人権尊重条例「都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」に基づき「不当な差別的言動(ヘイトスピーチ)」と認定していたが、都はその後も公園での同様の集会利用を許可してきた。(以上は2021年9月5日投稿)

※以下は2020年5月8日に投稿したものを改めて投稿したものです。

 読売新聞は、1923年9月1日に発生した関東大震災の混乱を利用して陸軍が起こした「王希天事件」など中国人虐殺について、同年11月7日に第2次山本権兵衛政府を糾弾する「社説」を掲載しようとしたが、政府検閲強化による削除とともに、削除前の発送済分については配達前に押収し、事件の隠蔽を試みた。

 政府は検閲体制について、震災後の9月3日には「朝鮮人関係記事の一切差止」を命令し、同月16日には「原稿または校正刷を官房検閲係に提出し内検閲を経たる後発行すべし」と強化した。理由は「日支国交上の問題のため」との事であるが、政府は「中国人虐殺」が暴露される事をひじょうに恐れていたのである。ちなみに、この事実を読売新聞は1976年に発行した『読売新聞百年史』には記載していない。

 ところで、その「論説」には、どのような内容が書かれているのか紹介しよう。

「  支那人惨害事件

一、朝鮮人虐殺及びこれに伴うて我が日本人まで殺傷を被るものがあった事件は、大杉其の他の暴殺事件と共に、日本民族の歴史に一大汚点を印すべきものであることは、繰返して此に言うまでもない。然るに朝鮮人以外に多数の支那人が同様の惨害を被っている事実があることは、それよりも大なる遺憾事である。しかもその事件の発生以後二カ月を経る今日まで我が政府は何らこれに関する事実をも将たこれに対する態度をも明かしていない。吾人はなるべく我が政府が自発的に行動をとらん事を希望して今日に至ったが、国民の立場として何時までもこれを黙止するわけにはゆかぬ。

二、大地震の当時及びその以後、京浜地方に於て日本人のために惨害を被った支那人は、総数三百人くらいにのぼるであろうとの事である。就中最も著大に最も残虐な事実は、九月五日府下南葛飾郡大島町支那人労働者合宿所において多数の支那人が何者にかおう殺され、また同月九日右支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天氏亀戸署留置された以後生死不明となったという事実である。これらの事実は主として支那人側、就中我が政府の保護を受けて上海に送還された被害者中の生存者から漏泄されたものである。したがってその内、どの点までが事実であるかはなお明確ではないが、とにかく多数の支那人が惨害を被って生死不明である事は事実である。

三、しかして右大島町の惨事は九月五日から九日前後までの間に起り、今日に至るまで既に二カ月を経過している。右の事実はこれを人道上、国際上より観、就中我と善隣の誼みある支那との関係であるだけ、重大なる外交問題であることは言を俟たぬ所であるが、退いてこれを我が国内における司法警察の眼より観ても、同様に否むしろそれ以上に重大なる内政問題である。しかるに右重大な事件が先ず相手国の支那において問題とせられるまで、我が内務及び司法の官憲は果してその知識を有していたか否かをも疑われ、乃至既に支那において問題とされた今日までなおその真相をも態度をも明かにしていないという事実のあるのは実に一大失態である。

四、本事件は内政関係は鮮人事件、甘粕事件と同一の原則に依り、あくまで司法権の発動を待ち、もって我が国内の法律秩序を維持回復する意義に於て最も重大である。同時にその外交関係はその事実を事実と認めて男らしくこれに面して立ち、出来得るだけ自ら進んで真相を明かにし、その犯行に対してはあくまで法の厳正なる適用を行い、もって内自らその罪責を糾正し、それによって、対支那政府と国民とに謝するの外はない。幸いに支那政府国民は今回の惨害が天変地異と相伴うて起った不幸の出来事であるのに対し、多少の寛仮と諒恕とをば有し、就中心ある者はこれによって震災以後折角勇起した両国の好感を根本から破壊することのないようにと考えてくれるものすらあるようである。

五、吾人は本事件のため内外に向って困難の間に立たしめられた内務司法並びに外務の当局に対し十分にその苦心を諒とする。蓋しおよそ国民の中に起った事柄は先ずその国民自身が根本の責任を負うべきものであるからである。さりながら政府当局者としては、もちろんその当面の責任をば免れぬ。しかして本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。何となれば、これらの事件は、すべて戒厳令下に起った事柄であるからである。もし陸軍にして司法内務並びに外務の当局者と十分なる協調を保ち、共同の事件調査と共同の責任分担をなさざる限り、司法内務は行きづまりとなり、外務は立往生となるの外はない。しからばその結果、最後の全責任は我が国民自身が直接にこれを負担せねばならぬことになる。故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する。」

※「支那人」という呼び方について……中国を「支那」という呼び方を決めたのは神聖天皇主権大日本帝国政府であった。今日では差別用語となっているが、1913年に帝国政府が「閣議決定」したのである。1911年には辛亥革命により中華民国が成立していたにもかかわらず、その名前を日本国民に使用させたくなかった事がその理由である。中華民国の憲法(臨時約法)には「中華民国は国民を主人公とする国である」とあり、共和制国民主権の国である事を定めていたため、大日本帝国が天皇主権である事に帝国臣民が疑問を抱かないように、また国民主権が危険な思想であるかのように思わせようとしたのである。上記の「論説」中の「支那人」については、原文のまま使用した事をお断りします。

 神聖天皇主権大日本帝国政府では、上記の『読売新聞』の「論説」をきっかけに、1923年11月7日に、後藤内相、山本首相、平沼司法相、田中陸相、伊集院外相による「五大臣会議」を開き、「王希天」を含む「中国人虐殺事件」について、「隠蔽」する事を「閣議決定」したのである。

(2020年5月8日投稿)

 

 

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関東大震災に対する天皇詔書に見える神聖天皇主権大日本帝国政府の政治姿勢

2023-10-04 09:46:38 | 関東大震災

 関東大震災に対して、大正天皇は9月12日に詔書を発した。その内容は「……9月1日の激震は事咄嗟に起り其振動極めて峻烈にして、家屋の潰倒男女の惨死幾万なるを知らず。剰え(あまつさえ)火災四方に起りて炎燄天に冲り、京浜其の他の市邑一夜にして焦土と化す。此の間交通機関杜絶し、為に流言飛語盛んに伝わり、人心恐々として益々其の惨害を大ならしむ。之を安政当時の震災に較べれば寧ろ凄愴なるを想起せしむ」というものであり、この評価が当時の神聖天皇主権大日本帝国政府の公式見解であった。

 つまり、天皇・政府・軍・警察が、震災の中で「軍政」(戒厳令)を敷き、多数の朝鮮人や中国人、社会主義者や労働運動家、大衆運動家を虐殺し、検挙し、民衆の権利と生活を弾圧抑圧した対応(震災テロ)については、詔書にあるように「交通機関杜絶」と「流言飛語」によるものとして片づけたのである。

(2022年9月21日投稿)

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関東大震災下、朝鮮人暴動のデマ「流言蜚語」発信の主導的役割を果たした海軍船橋送信所

2023-09-12 16:14:49 | 関東大震災

 関東大震災下、「朝鮮人暴動を起こしている」というデマ流言蜚語」の発生で、主導的役割を果たしたのは海軍船橋送信所からの発信であり、そのデマを全国に広め、「厳密な取締を指示」したのが、内務省警保局長・後藤文夫であるという。

〇9月2日午後8時20分 船橋 発電

「騎兵20名、7時半警戒の任につきつつあり、附近鮮人不穏の噂。」

〇9月2日午後8時28分 海軍大臣宛  横鎮長官発

「本日午前11時横浜着警備艇の状況報告の要領左の如し。

一、1日午前11時58分激震防波堤税関を破壊し全市の家屋倒壊し、爆発所々に起り不逞鮮人の放火と相俟て全市火の海と化し、死傷数知れず。」

〇呉鎮副官宛打電  9月3日午前8時15分了解  各地方長官宛  内務省警保局長 出

「東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地において十分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし。《この電報を伝騎にもたせやりしは2日の午後と記憶す。当時の衆人の印象はかくの如かりしなり。事後又は他地方の人には考えも及ばざるべし。》

〇鎮海要副官宛  9月3日午前8時30分了解  朝鮮総督府警務局長宛  内務省警保局長 出

「東京附近の震災を利用し、在留鮮人放火、投擲等、その他の不逞手段に出んとするものあり。既に東京府下には、一部戒厳令を施行せるを以て、この際朝鮮内、鮮人の動静については厳重なる取締を加えられ、且内地渡来を阻止する様、御配慮相煩度。」

〇呉鎮副官宛  9月3日午後0時10分了解  山口県知事宛  内務省警保局長 出

「東京附近震災を利用し、内地在留鮮人不逞の行動を敢てせんとし、現に東京市内においては放火をなし、爆弾を投擲せんとし、頻に活動しつつあるを以て、既に東京府下に一部戒厳令を施行するに至りたるが故に、貴府においては内地渡来鮮人についてはこの際上陸を阻止し、殊に上海より渡来する仮装鮮人については充分御警戒を加えられ、適宜の措置を採られ度。 

 9月3日午後4時30分船橋発電

 船橋送信所襲撃の虞あり至急救援頼む、騎兵1ケ小隊応援に来る筈なるも未だ来らず。

(2023年9月12日投稿)

  

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関東大震災下に東京日日新聞が流言報道

2023-09-12 10:47:29 | 関東大震災

 東京日日新聞は1872年2月創刊。74年に福地源一郎が入社し、新聞論調は政府支持へ。81年に福地が社長となり完全な御用新聞となり、政府系新聞として終始した。1911年に大阪毎日新聞社に買収され、43年には政府の新聞統合政策により毎日新聞となった。

 吉野作造『朝鮮人虐殺事件』には、東京日日新聞(16867号)の、関東大震災下における流言飛語の原型の例証として東京日日新聞(16867号)の記事を挙げている。以下に紹介しよう。

『「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」という題下にて、次の如き記事が載せてあった。「火に見舞われなかった唯一の地として残された牛込の(9月)2日夜は、不逞鮮人放火及び井戸に毒薬投下を警戒する爲め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張って番人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携えて家の周囲を警戒し、宛然(まるで、の意)在外居留地における義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町6丁目から、平河町は風下の関係から……、又3日朝2人連れの鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」    

また、東京日日新聞1923年9月3日版は以下の記事を掲載しているので紹介しよう。

不逞鮮人各所に放火し 帝都に戒厳令を布く 三百年の文化は一場のゆめ ハカ場と化した大東京

 1日正午の大地震に伴う火災は帝都の各所より一斉に起り、2日夕刻までに焼失倒壊家屋40万に上り、死傷算なく、同時に横浜横須賀等同様の災禍に会い、相州鎌倉小田原町は全滅の惨を現出した。陸軍にては昨深更災害の防止すべからざるを見るや、出動の軍隊に命じて、焼くべき運命の建物の爆破を行わしめた。この災害のため、帝都重要の機関建築物等大半烏有(火災で何もなくなる事)に帰し、避難民は隊を組んで黒煙たちこめる市内を右王左往して、飢えに瀕し、市民の食料不安について、鉄道省は各地を購入方を電命し、府市当局は市内各所に炊き出しをなし、三菱地所部も丸の内で避難民のために炊き出しを行った。

 一方、猛火は依然として止まず、意外の方面より火の手あがるの点につき疑問の節あり、次で朝鮮人抜刀事件起り、警視庁小林警務長係外、特別高等刑事各課長、刑事約30名は5台の自動車にて現場に向った。当市内鮮人、主義者等の放火及び宣伝等頻々としてあり。2日夕刻よりついに戒厳令をしき、これが検挙に努めているうちに、2日未明より同日午後にわたり、各署で極力捜査の結果、午後4時までに、本郷冨坂町署で6名、麹町署で1名、牛込区管内で10名、計17名の現行犯を検挙したが、いずれも不逞鮮人である。

 鮮人いたる所 めったぎりを働く 二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す

 今回の凶変を見たる不逞鮮人の一味は、避難せる到る所の空家等に、あたるを幸い放火しておることがわかり、各署では2日朝来、警戒を厳にせる折から、午後に至り、市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一団あるを見つけ、辛うじて追い散らして、その1、2を逮捕したが、このほか、放火の現場を見つけ、取り押え、または追い散らした者数知れず。政府当局でも急に2日午後6時をもって、戒厳令を下し、同時に200名の朝鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして、警官隊と衝突し、双方数十名の負傷者を出したとの飛報、警視庁に達し、正力主事山田高等普通課長以下30名、現場に急行し、一方軍隊側の応援を求めた。なお、一方警視庁備え付けの鉄道省用自動車を破砕すべく、爆弾をもって近寄った一団20名を逮捕したが、逃走したもの数知れず。

 鬼気全市に漲る

 不平鮮人団は、いずれも帽子をまぶかにかぶっているので、普通の男子はすべて帽子を脱ぎ、左手に白布をまとう事とし、もしウサンな男に出会った際は、まず生国を問い、答えの濁る者は追究し、ソレと窮する時は直ちにの雨を降らす有様で、殺気は次第に宮城前広場、日比谷公園より丸の内一帯、同日午後9時頃鮮人の一団30余名、避難民をもって充満した二重橋前の広場に切り込んだとの報に接し、江口日比谷署長は部下を率い、警戒に任じ、10時半頃になりその一味を発見すると、彼らは日比谷公園に逃げ込み、10数名の一団は、鬨の声をあげて、ここに避難している老若男女を脅かし、各所に悲鳴起り、相いましむる声と思う呼笛の声鳴り響き、おどろくべき呪いの世界を現出した。東京駅前の大通りで執務している本社出張所附近に怪しき影の出没さえ見え、社員は極度に緊張、殺気立った。目下警戒に主力を注いでいるのは、渋谷方面で、鮮人などは、この方面が焼け残っているので、放火しようとたくらんでいる。

 軍隊全動員 警官隊総かり出し

 秩序の維持については、軍隊は全動員を行い、近県宇都宮方面はもちろん、新潟高田方面よりも来援をもとめ、警察官も来て近県よりできるだけの応援を求めた。

 日本人男女10数名を殺す 本部は世田ケ谷

 目黒競馬場をさして抜刀のまま集合せんとし不平鮮人の一団は、横浜方面から集まったものらしく、途中出会わせし日本人男女10数名を斬殺して後、憲兵警官隊と衝突し、三々五々となり、姿影を消したが、彼らは世田ケ谷を本部として、連絡をとっておると。

 横浜を荒し 本社を襲う 鮮人のために東京はのろいの世界

 横浜方面の不逞鮮人等は、京浜間の線路に向って鶴嘴をもって線路をぶちこわした。1日夜中火災中の強盗強姦犯人は、すべて鮮人の所為であった。2日夜焼け残った山の手及び郊外は、鮮人のくいとめに全力をあげられた。』

(2023年9月10日投稿)

 

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関東大震災下、埼玉県内務部長の発した通牒と本庄町での朝鮮人虐殺の実態その➁

2023-09-10 20:36:23 | 関東大震災

 埼玉県内務部長が発した通牒をきっかけにして埼玉県でも朝鮮人の大虐殺が行われたが、なかでも本庄町はその数が突出していた。その実態を知る事が出来るものとして、当時『埼玉新聞』(1923年9月2日~4日)が掲載した、当時本庄町の町会議員であった中島一十郎氏の『本庄の虐殺事件を語る』を紹介したい。 

以下は、その➀、のつづきです。

「……武道場は七間半に四間程度の木造で中央が試合をするため少し高くなっており、入口は確か東向きでした。本庄署にたどり着いた人たちは早速、できるだけ人に知られぬように武道場内に移されたのですが、入り切れなかったためか、後から着いたためか、それと知って町民の一部が駆け付けた時には警察前の広場に(〇〇〇〇)その上にはまだだいぶ乗っている人がおりました。「警察に朝鮮人が来ている」と聞いて集まったのはもっぱら鳶職だとか大工、魚屋といった威勢のいい若い人たちでした。それにかまわず車の上に乗っている人たちに投石する。棒で叩く。ついに一人一人引きずり降ろしては殴り、蹴倒し、勢いに乗って殴り殺してしまったのです。止めようとする人があると「貴様も朝鮮人だろう」と逆に殴りかかる始末で警察の門前で集団的な大量殺人事件が公然と行われたのです。こういいますと多くの人は「警察は何をしていたんだ」とお尋ねになるでしょうが、残念ながら4日夜から5日朝まで続いた虐殺事件を通じ、警察は姿を現しませんでした。……ところで、血を見てますます狂暴となった群衆はますます勢いづき、トラックの上の女性や少年を含む全員を惨殺「東京の仇がとれた」と凱歌をあげたのですが、さらに門内を覗いていた者が武道場の中にいる人たちも発見したのです。「それっ」とばかり日本刀を抜いた連中が道場の入口に殺到したのですが、一方の壁側に固まった必死の人たちと向かい合ってしばらくは手が出なかったそうです。追い詰められて一人が机を差上げて抵抗しようとしたそうですが、この人たちは、後は全事件を通じほとんど抵抗は見せず、ただ手を合せて助けてくれと拝むだけだったのですから、随分酷い事でした。今の若い人たちなどには当時の事は話しても信じてもらえぬかも知れません。

 結局、その人たちの中に日本刀を振りかざして乱入し、とうとう夜明けまでに一人残らず殺害してしまったのです。床の下に隠れていると聞くと、力まかせに一寸もある厚い板を残らず引き剝がして、下に隠れている人を竹槍で突き殺す、天井にもいるというのでブスブス竹槍で突いておるという風で、一人だけ便所の汲み取り口から逃げた人がありますが、今の若泉公園の附近の崖から落ちて死んだそうです。その言語に絶する暴行は夜を徹し群馬県の人や児玉郡内の村部の人たちもまじえ、代わる代わる朝まで行われ、朝になってまだ息を吹き返した人があるとまた丸太で殴りつけるという有様で、警察の庭も道場の中も血の海で4日の夜から5日の朝までは、まさに地獄そのものでした。……死体は5日の午前中に荷馬車2台に乗せて町はずれの火葬場へ運びました。町の真ん中を通っただけにこの有様は多くの人の眼に触れたと思います。火葬場へ運んだもののあまりに数が多いので、焼く事も出来ず、付近の畑に大穴を掘り、その中に死体を投げ込んで焼き、そこに仮埋葬したのですが、後に市内長崎の共同墓地に合葬しました。氏名は一人も分かっていなかったようでした。今市会議員をやっている立花帝二君が事件の現場で扇子を拾いましたが、それには日本人を呪う漢詩が書かれてあったそうです。血があちこちにこびり付いていた武道場は、しばらく少し修理し使っていましたが、後に市営の火葬場へそのまま移して待合室にして今もそこに残されています。」

(2023年9月10日投稿)

 

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