つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

大阪関西における電信電報事業の開始

2024-11-23 18:20:05 | 文学・歴史

 電信機は米国のペリーが2度目の来航時(1854年1月)に徳川幕府へ贈った物が伝来したのが最初であった。電信事業が本格化したのは1869年10月23日(電信電話記念日)からの東京~横浜間の電信線工事開始からである。大阪では70年8月、川口居留地に「伝信局」(72年に電信局と改称)を開局し、神戸と造幣寮(1871年2月15日開業)とに架設し民間電報も扱い始めた。電信機はブレゲー指字機を経て72年にモールス式となった。

 電信事業は軍事上、行政上の必要から急速に発展した。1873年には神戸~大阪~東京間の通信を開始し、1881年頃には全国網をほぼ作り上げた。大阪では高麗橋、心斎橋、梅田すてん所内に川口電信局分局を開局。梅田分局の後身が1883年11月20日に梅田すてん所西隣に開局した西部電信中央局であり、川口電信局に代わって西日本の電信の元締めとした。

 西部電信中央局は、赤レンガ造り、2階建て洋館、2階の通信室には機械台が6台、モールス単信印字機の電信機が30台あり回線は21。局員は約60人、月給は通信担当者で15円前後(米1升が7,8銭、家賃が月3,4円)で高給。出勤姿は洋服ならモーニング、山高帽子、皮手袋で、和服なら黒七子の羽織、仙台平の袴、編み上げ靴。歌舞伎役者と間違われたようだ。

 1885年、主管庁が工部省から逓信省に移り、86年逓信管理局を大阪に置いた時、大阪電信分局となった。その後7回ほど改称し、1952年、電電公社発足で大阪中央電報局となった。局舎は1893年7月、梅田から中之島・備前岡山藩蔵屋敷跡へ移り、1928年北区堂島西町へ、1965年11月北区玉江町1へと移っている。電報料金は1885年には全国均一制とした。

 1894年5月には職員の殉職事件が起こった。18歳の電報集配人が淀屋橋北詰で人力車と衝突し死亡した。事件を新聞が報じると、各地から義援金が相次ぎ、大阪北区の太融寺顕彰碑が建てられた。

(2024年11月23日投稿)

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ウポポイは「観光の起爆剤」(赤羽一嘉国交相発言):神聖天皇主権大日本帝国政府による北海道開拓・アイヌ民族支配と皇室の関りと罪責

2024-11-23 12:47:35 | アイヌ問題

 2018年8月1日の「天声人語」が、北海道の開拓判官であった松浦武四郎が「松前藩と商人たちによる(アイヌ民族に対する)収奪の実態を幕府に訴え、明治政府には救済策も進言したが認められず、官職を辞する」と述べていた。8月6日の朝日新聞では天皇皇后が札幌市で開催された「北海道150年式典」に出席し「アイヌ民族の伝統芸能」を鑑賞し拍手を送ったと書いている。

 北海道とアイヌ民族に関わるこの2つの新聞記事に関連して、神聖天皇主権大日本帝国政府の北海道開拓やアイヌ民族支配に対する政策とそれへの皇室の関りと罪責伝えたい。

 まず、松浦武四郎の開拓判官の官職辞任についてであるが、この直接の理由は同僚である開拓判官・島義勇(よしたけ)(江戸時代から続く場所請負人制度こそが北海道の健全な発展を阻害し北海道を内部から腐敗させるものとして開拓使の当初の大方針であった廃止を宣言した)の突然の罷免が開拓使長官:東久世通禧やその腹心の開拓判官:岩村通俊商人たちとの陰謀(場所請負人制度漁場持ちと改称するだけとし廃止せず方針転換)である事を知り、長官に辞表を叩きつけて辞めたのである。その辞表の中には「私は場所請負人(商人)漁場持ち(改称であり廃止の骨抜き)にする事は、いっさい知らされていなかった。長官室から帰りの官員が、料亭で箱館の商人にむかって の事は心配ない、松浦も早急に片付けると告げているのを耳にし、島の左遷が商人の注文で決められたのを知った」と書かれていたのである。

 さて、1886(明治19)年には北海道庁が設置され、初代長官に岩村通俊が就いたが、彼の方針は開拓使時代の殖産興業政策を否定し、官立工場など不当な価格と条件民間(政商)へ払下げ、特別の保護を与えて産業資本家へ育成し、その大資本により北海道開発をするというものであった。

 札幌麦酒醸造所は86年、大倉組へ払下げ、翌年には渋沢栄一が加わり札幌ビール会社となった。89年には幌内炭鉱と鉄道北海道炭鉱鉄道会社へ払下げた。この会社は三井が起こしたもので、皇室大口株主とし、有力財界人や華族らを発起人としていた。三井はこの会社を基に、夕張炭坑や空知炭坑開き北海道三井大国を形成した。つまり、北海道を政商に与えたという事である。

 また、北海道庁2代目長官:永山武四郎も岩村と同様の方針であったが、それとは別に、富豪華族高級官僚たちはその地位権力悪用して北海道の地を食い物にした。89年には北海道の森林200万町歩皇室財産とした。90年には三条実美華族組合雨竜原野1億5000万坪を貸し下げた。そして、97年には開墾地無償付与制度を制定し、官僚、華族、資本家らが好き勝手に広大な土地を抱え込み、不在地主となった。反面、アイヌ民族については、これまでの狩猟生活サケ漁や熊などの動物、そのためのトリカブトなどの毒物使用も)を禁止する事により、アイヌ民族伝統文化信仰、風俗風習を否定(民族性抹殺政策)し、日本人日本文化へ同化を強いた。日本名に改姓させ、日本語を強制し、国家神道を強制し、皇民化教育を強制した。居住地を奪いとり、いわゆる居留地「土人給与地」に押し込めていった。しかし、その土地さえも騙し取った。旭川近郊の近文原野「土人給与地」問題が典型である。1877(明治10)年公布の「北海道地券発行条例」第16条は、元々日本人がアイヌ民族から土地を騙し取る事を防ぐ事が目的であり、アイヌ民族が農耕を始める土地を国(開拓使)で一時、保管しておくという意味であったが、開拓使やその後身の道庁役人は、アイヌ民族は農耕には適さないから土地を所有する能力はないとして勝手に土地を処分する者が続出した。

 1891(明治24)年に近文150万坪が「給与地」と決まったが、94年に実際に引き渡されたのは46万坪で、その他の土地は何者かの所有となっていた。その46万坪も1899(明治32)年2月、札幌の第7師団が近文の隣接地に移設される事になると、兵舎造営を引き受けた大倉組道庁幹部共謀して騙し取ろうとした

 アイヌ民族が字を読めない事を利用して、「国が近文の土地以外に土地をくれる」と説明し判を押させ、払下げの許可を得た。しかし、実際は真っ赤な偽りで、北海道庁長官:園田安賢、陸軍大臣:桂太郎大倉喜八郎(大倉組)などが共謀し、近文アイヌの土地を大倉名義で下付を受け近文アイヌ民族全員を天塩山中に移転させる事を決定したのである。それを知った浜益コタン天川恵三郎警官を使って威嚇する神聖天皇主権大日本帝国政府と交渉した。天川が死を覚悟で天皇に訴えるという記事を新聞が載せたので政府(道庁)は払下げを中止した。

 このようなアイヌ民族の問題を背景として1899年、政府は「北海道旧土人保護法」(1997(平成9)年廃止)を公布し、農業従事希望者だけにある一定の土地を無償下付した。「保護」とはしたが、正反対の結果を導くものであった。アイヌ民族は文字を読めないので申請しない者が多かった。土地を与えられても荒れた僻地であった事や、農業を強制するものでありながら、農業の指導は行わなかった。そして、下付後15年経っても開墾しない場合没収したためである。

 このような事から、神聖天皇主権大日本帝国政府にとって、北海道旧土人保護法なるものも、真にアイヌ民族の生活向上をめざしたものとは決して言う事はできないものであり、アイヌ民族に対する差別「人権侵害」を強化しただけのものだった。今日においても東京を中心に関東地方では、人権侵害は続いている。(2018年8月6日投稿)

2020年8月18日の朝日新聞記事に、アイヌ団体「ラポロアイヌネイション」(旧浦幌アイヌ協会、長根弘喜会長)が「アイヌ民族が経済活動として地元の川でサケを捕獲(漁業)するのは先住民族の権利である」として、国と北海道を相手取って「漁業権」を認めるよう求める訴訟を起こした。先住民族が伝統的に占有してきた土地や資源を利用する「先住権」の確認を求める裁判で国内初である。

 道内の河川では現在、アイヌの文化的伝承・保存目的に限り、道知事の許可を得て例外的にサケ漁は認められている。

(2020年8月21日投稿)

 

 

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アイヌ新法:アイヌ文化振興法(1997年)と同じく「先住権」を認めず

2024-11-23 12:28:08 | アイヌ問題

 2019年4月19日、「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」が成立した。アイヌ民族を「先住民族」として初めて明記した法律である。これまでの「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(アイヌ文化振興法)」(1997年)に代わるものである。振興法は1899年に成立し、どれまで存続し続けていた、アイヌ民族の存在そのものを否定した「北海道旧土人保護法」を廃止して成立した。アイヌ民族の存在を明記し、その文化と伝統の尊重を目的としていたが、アイヌ民族が求めた「先住権」については盛り込まれず、先住性について付帯決議で触れるだけであった

 2007年に国連総会で、「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択された事から、2008年、国会(衆参)「アイヌ民族を先住民族とする事を求める決議」を採択した。それは、➀アイヌの人々を日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族であるとして認める事 ②高いレベルで有識者の意見を聴き、アイヌ政策をさらに推進する事、の2点を、政府に要求した。それに対し政府は、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」を設置した。メンバーの1人には北海道ウタリ協会(2009年に設立当初の名称北海道アイヌ協会に改称)の加藤忠理事長が入った。

 2009年には、上記懇談会報告書を発表した。それは、「明治以来、北海道で展開された様々な差別政策が、アイヌ民族を疲弊に追い込み、今日の格差や差別の土台となった。たとえば、アイヌ民族は土地所有の権利が否定され、入植者に対して施された土地給付政策から排除された」などとしている。そこで、「アイヌ政策推進会議」(現在の座長は菅官房長官)が設置され、2011年6月には推進会議作業部会報告書が発表された。第1報告書では、「自然体験型の野外ミュージアムなどを含むアイヌ文化復興の拠点施設の建設」が提唱され、第2報告書では、北海道以外に住むアイヌ民族の初の生活実態調査の結果が示され、収入や教育面などで全国平均と比べて大きな格差があり、困窮している実態があきらかにされた。しかし、この推進会議には問題があった。それは、2007年の国連宣言に規定された先住権の回復保障政府が目的とせず文化振興を目的としている事であった。先住権とは、先住民族が住んだり所有していた土地での民族自決権自治権、土地権、山林や河川における採取・狩猟(生活)権などである。神聖天皇主権大日本帝国政府は、北海道を初めての植民地とし、そこで生活したアイヌ民族に対し日本人に同化させる政策を強制した。日本人風に改姓させ、アイヌ語の使用を禁止して日本語を強制し、その固有の宗教や習俗や文化を認めず抹殺狩猟・漁労の生活を認めなかった。「北海道旧土人保護法」によって「保護」と称しながら、農民化を強制し土地を給付しながら適切な農業指導も行わず、その土地に厳しい使用条件を付けるとともに、売買も譲渡も禁止し、奪い取っていったのである。現在、北海道の面積の約半分は、国有地となっており、道有地、市町村所有地も多い。オーストラリア、台湾、カナダ、ニュージーランド、米国などでは先住民族の認定先住権とはセットになっているが、これまでの自民党政府はそのような考え方をしていない。また、安倍首相(安倍自公政府)は2019年1月の施政方針演説で「アイヌの皆さんが先住民族として誇りを持って生活できるよう取り組みます」と述べているが、それとは異なる立場をとっている。諸外国政府が実施しているアファーマティブ・アクション(差別や偏見を是正するために行う積極的差別是正政策で、差別されている対象に有利な条件を付け実質的に平等が実現するようにする事を目的とする)を実施しようともしていない。また、安倍自公政府は東京五輪開会式において、アイヌ民族の踊りを企画しているようであるがこれは他国の先住民族の置かれている状態とは異なり、アイヌ民族をご都合主義で「利用」してしているだけといえる。北海道アイヌ協会もその事の自覚が必要である。

(2019年6月1日投稿)

 

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