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行幸啓の言葉を廃止せよ:天皇家は自身の生活用語に存する差別(人権侵害)的体質を、国民の象徴として憲法に則り進んで解消する責務をもつ事を自覚すべきだ

2024-11-10 18:33:53 | 皇室

 「三大行幸啓」と言う言葉がテレビ、新聞などメディアで意図的と感じられるほど執拗に使われている。 

 「行幸啓」とは天皇皇后が「共に出かける」際に使用される宮内庁用語である。この「出かける」という意味の言葉に関して、天皇皇族などにそれぞれに使用すべき言葉を、宮内庁は定めている。その一例は、

 行幸…天皇が外出される事。

 行啓…皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出される事。

 行幸啓…天皇・皇后がご一緒に外出される事。

 お成り…天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方が外出される事、などであ  る。

 これは封建的な上下の身分関係を当然とみなした価値観を基にした言葉である。そして、天皇皇族間に差別(人権侵害)的待遇がある事を示しており、例えば日本国憲法第14条の定める「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とする内容に違反する状況に当たるとみなす事ができるのではないかと思える。

 このように考えると、宮内庁は、日本国憲法の下で生活する天皇皇族に、このような言葉の使い分けをするべきではないのではないか。主権者国民に向けてこのような言葉を使用するという事は、憲法で「天皇は国民の象徴」、つまり、「天皇は憲法に基づく価値観を有する国民を象徴(代表)する存在」とされているにもかかわらず、憲法に示された国民の有する価値観にまったく反している事を示していると言って良いのではないか。また、天皇皇族が先に一例でしめしたような言葉の使い分けに何の異議も発しないとすれば天皇皇族自身もまた憲法に則った価値観を持っておらず、「天皇は国民の象徴」とされながら国民を象徴する価値観を持ち得ていないという事を示しているのではないだろうか。2016年8月8日に「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を発表し、「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました」と述べているが、このような生活用語に存する差別(人権侵害)体質を解消する事も「望ましい象徴のあり方」に近づく重要な責務の一つであるという事を自覚すべきである。また、メディアにはニュース報道にどのような考えでこの言葉を使用しているのか問いただしたい。おそらく、宮内庁発表をそのまま報道しているだけなのであろうが、それでは「大本営発表」時代と同様に、メディアの主体性のなさを示しているだけであるし、主権者国民の立場に立たず宮内庁の有する価値観に立つものであるというべきであり、メディアは国民を洗脳しようとしていると考えてよいだろう。安倍自公政権を翼賛して。国民は主権者として、天皇皇族に対し「あるべき象徴像」を提示し続ける事によって主権者国民のための「象徴天皇制」を作り上げなければならない。そうでなければ、安倍自公政権は憲法改正(改悪)によって神聖天皇主権大日本帝国政府時代の天皇制に回帰させてしまうだろう。

 ついでながら、上記以外にも見られる天皇皇族の差別的体質を「皇室典範」から紹介しておこう。皇室典範第1条皇位継承の資格」は「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とし、日本国憲法第14条に定める「男女平等の原則」に基づかず、神聖天皇主権大日本帝国政府下の男尊女卑(女性差別)の価値観に基づいており憲法違反である。2016年3月に国連女子差別撤廃委員会勧告で女性天皇を認めない皇室典範を問題視し、見直し(改正)を求めたが、安倍自公政権は勧告に抗議し削除させた。国会でも岸田外相は「我が国の皇室制度は歴史や伝統が背景にある。女子に対する差別目的とは全く別の事柄である」と説明。菅官房長官も「国民の支持を得て今日に至っている。女子に対する差別を目的としていない」と述べている。このような屁理屈で自己正当化している。要するに、安倍自公政権は世界で普遍的な考え方や価値観を認めず自己の価値観に固守するために、国民に責任をなすりつける屁理屈を述べているのである。この姿勢は選択的夫婦別姓問題や死刑廃止問題についても同じである。

 皇室典範第3条継承順序の変更」は「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、……皇室会議の議により、前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変える事ができる」とし、身体障害を有する場合には、皇位継承から除く事ができるとしているのである。身体障害者に対する差別(人権侵害)的対応であり、憲法違反である。

 同第22条「成年」は「天皇、皇太子及び皇太孫の成年は、18年とする」としているが、それ以外の皇族は20歳としている。皇族間で差別をしているのである。また、国民については20歳と定めている事は、もちろん自民党(自公)政府が国民を差別しているのである。大日本帝国政府は国民を、1876年の太政官布告で成年20歳とした。これら各年齢の規定は敗戦後の現行皇室典範も民法もそのまま踏襲している。この事が間違いの始まりであったのだ。国会議員や公務員はもちろん国民のほとんどが新しく施行された日本国憲法を正しく理解できていなかった事が原因である。そして現在もそのまま過ごしているという事である。

 世界の成年年齢は18歳が一般的となっているにもかかわらずである。このように年齢差をもうけているという事は、天皇皇族(一部)を国民とは別格の存在としてみなしていたという事である。しかし、2022年4月からは天皇皇族も国民も成人年齢はすべて18歳とするようだ。 同第26条「陵墓」は「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を、その他の皇族を葬る所をとする」としているが、墓所の呼び名を変えて差別している。憲法違反であり、他国ではあり得ない規定である。

 以上のように、皇室典範には現行憲法では否定されている前近代的封建的な差別(人権侵害)的規定が多々定められている。それはまさしく「差別(人権侵害)の総元締め」であるかのように。この状態は世界の人々から見れば極めて異常である。日本国民は常識と思っているが実は世界の人々から見れば非常識な事なのである。しかし、自民党(自公)政権は、国民に正常及び常識と思い込ませている(洗脳)のである。

 ハンセン病隔離問題優生保護法強制不妊手術問題なども、現行憲法成立後も問題にならずに今日まで来た例であり、それが今日憲法の正しい理解に目覚めた国民の増加によって憲法違反であるとして問題提起されたという事である。この事は現行憲法が真に自分たち国民を守るのものであると理解されるようになってきた事を示している。

※行幸啓……神聖天皇主権大日本帝国政府は、1871(明治4)年の太政官布告以来、法律上の用例として、使用した。皇室令も同様である。しかし、戦後、新憲法の下で、これらの呼び名や皇室令は廃止された。

(2019年11月30年投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

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甲午農民戦争のブルジョア新聞『毎日』『報知』報道、伊藤内閣がクーデターで始めた日清戦争

2024-11-10 14:34:51 | 朝鮮問題

 甲午農民戦争は1894年2月に朝鮮南部で起こった。「斥倭洋倡義」(排日と減税を要求するの意)のスローガンを掲げた、反封建反侵略の農民軍による閔妃政権と大日本帝国政府の傀儡大院君政権に対する闘いであった。日本軍によって農民軍には3万以上の死者が出た。

 5月末に農民軍が全羅北道全州(道庁所在地)を占領すると、朝鮮閔妃政権は清国に救援を求めた。甲申事変(1884年12月。日本政府日本公使日本知識人が朝鮮親日改革派金玉均らを援助して起こしたクーデター。閔妃の救援要請を受けた清国軍に敗れ失敗)後、日本政府が強引に清国に結ばせた天津条約(1885年4月18日)を理由に第2次伊藤(元勲)内閣も出兵の動きを見せた。

 甲申事変について、日本の一般国民はまったく真相を知らされなかった。メディアも記事は厳しく管制されており清国排斥感情を煽る日本の被害記事のみを伝えたため、世論は反清国感情一色となった。政府系の『報知』『毎日』の論調は、事変の責任は朝鮮にはなく清国にあるとみなし、清国兵の朝鮮撤退、内政不干渉、朝鮮の独立の承認および日本への賠償と謝罪を一致して要求していた。『毎日』が戦争回避論を述べるのに対し、『報知』は強硬で、もし要求が拒絶されるなら、太沽・天津を陥れ、北京城下の盟を結べと武力解決論を主張していた。旧自由党員の動きはさらに過激で、『自由党史』には、高知では板垣・片岡が先頭に立ち、義勇兵を編成して昼夜猛特訓をし、鹿児島・長野・福島・富山・宮城などにも従軍を願い出る者や献金をする者が続出した。大井憲太郎は日本人の手で朝鮮改革を断行し、再び日清両国間に緊張を作り出す事が日本の国内改革に有益であるとし、閔妃派を爆弾で倒し親日派に政権を取らせ、清国からの独立と民主改革をやらせるという計画を立てたが事前に発覚した(大阪事件。1885年1月23日)。甲申事変にも関わった福沢諭吉は同年、「脱亜論」で「西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接する法も隣国なる故にとて特別の会釈に及ばず」と訴えていた。

 帝国議会においては、1890年第1議会で第3代首相山県有朋が「主権線(国境)」と「利益線(朝鮮)」の防衛のため陸海軍増強が必要であると演説した。93年第4議会では第2次伊藤元勲内閣による「和協の詔勅」(建艦費として宮廷費の節約・文武官の俸給の1割を出すから議会も政府に協力せよ)利用により、対外強硬策が優位となった。第6議会では同内閣が93年6月2日、甲午農民戦争に対し出兵を決定した。清国に宣戦布告後の広島(大本営設置)での第7議会(1894年10月、伊藤内閣)ではそれまで紛糾していた議会は全会一致で戦争関係の予算・法律を可決した。

 話を戻そう。上記のような状況下の農民軍は両国に武力介入の口実を与えないため、閔妃政権に対し、悪質官吏の処罰や身分の平等などを求める弊政改革を条件として全州和約を結び休戦した。そして、執綱所という自治機関を置き農民自身の手で弊政改革を推進し、全羅道一円には二重権力的状況を生み出した。

 これに対する第2次伊藤内閣の動きは、同年6月2日、杉村朝鮮代理公使から閣議中に「朝鮮政府が東学党(農民軍)鎮圧のため清国に出兵を求めた」と電報で伝えてきた。同年6月5日、戦時大本営条例により東京に大本営が開かれ動員令を発令した。6月9日には広島第5師団混成旅団の戦闘部隊が広島県宇品港を出港し、12日に仁川へ上陸した。

 しかし、閔妃政権と農民軍は和約を結んでいたので出兵理由を失っていた。しかし、伊藤内閣と日本軍の狙いはとにかく清国を討つ事であったので、清国が拒否するのを計算ずくで「日清両国による朝鮮内政の改革」を提案した。清国は「それは朝鮮に対する内政干渉」「日清共同撤兵」を主張した。

 伊藤内閣はその後、清国に対しては「将来不測の変が生じても日本政府はその責任はない」と伝え、朝鮮国に対しては「7月22日までに清国の宗主権を認めた条約を破棄せよ」との最後通牒を突きつけ、期限切れを待って実力行使に至った。

 伊藤内閣下の日本軍は1894年7月23日未明にクーデターを起こし、「朝鮮王宮を占領」し、親清派の閔妃から政権を奪い、親日派の大院君を国王にすえ新政府を樹立し、同25日に大院君に「朝鮮は清国の属国ではない。清国は即時退去せよ」と宣言させた。

 そして、日本軍は(イギリスの支持を得て)、大院君から駆逐を依頼されたとして清国軍を奇襲攻撃したのである。1894年7月25日の豊島沖海戦(日清戦争開戦。宣戦布告は8月1日)である。

 この間、政府系ブルジョア新聞は朝鮮国をどのように報道しているだろう。日清戦争が開始される前の報知』94年6月11日は、朝鮮の独立に欠かせない内政改革を助けるのは、「先進国の後進国に対する義務にして、彼の名を独立に籍りてその内政に干渉するものとその撰を異にす」とする文明と独立の援助という名の下に朝鮮に対する内政干渉を正当化していた。『毎日』94年6月15日は、「維新以来日本の国是は暗黒なる朝鮮を開明の一方に導くにあり、軟弱なる朝鮮を助けて独立せしむるにあり」とし、同年7月10日には「日清戦争は文明と蛮風の軋轢」であるとしていた。

 第2次伊藤内閣はクーデターによって閔妃政権を追放し、親日派の大院君政権を成立させ、1894年7月25日、日清戦争に突入したが、全州和約を結んでいた農民軍は、9月以降、改めて日本軍の朝鮮侵略に対する反抗を開始した。その農民軍に対して『毎日』『報知』両紙は、「無頼漢」「烏合の草賊」「山賊、強盗と同じ」「流賊」などの罵声を浴びせ、『毎日』は10月30日には「警察の設備と権力の一致」、『報知』は9月4日、10月2日には「偽称東学党」「偽東学党」と呼び、11月2日には「速やかに之を討滅」など日本軍による弾圧の正当性を報道した。『毎日』11月7日社説では「閔族が韓廷から一掃され、農民の不満の原因は消滅したにもかかわらず、尚且つ紛々蜂起して日韓両国の累を為すは何の心ぞや」「今の東学党はその性質再変して流賊となりしのみ」とした。

 甲午農民戦争の真実の姿はつい最近まで、神聖天皇主権大日本帝国政府による朝鮮侵略が進行する過程で日本政府の暴虐を隠蔽し正当化するために都合良く歪められていたのである。今日の安倍自公政権と同様の「歴史修正主義」にもとづいて。国民は真実を知る権利があり、真実を知る労を惜しんではならず、真実を知る事を阻む者と闘う事から逃げてはならない。

(2019年1月18日投稿)   

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