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司馬遼太郎「坂の上の雲」の目的は歴史事実の書換、NHKテレビ放映は国民への刷り込み

2024-11-09 17:21:40 | メディア

※司馬遼太郎記念財団が2023年1月11日、生誕100年を迎えて、好きな作品のアンケート結果を発表した。トップ3は『坂の上の雲』『竜馬がゆく』『燃えよ剣』であったという。しかし、『坂の上の雲』の内容は歴史事実を伝えたものではないし、歪曲したものでもある事を承知しておくべきであり、正確な歴史を知ろうとする人は研究書によるべきである。

 『坂の上の雲』については歴史の事実を歪めた問題作として批判本がたくさん出版された。さらに、そのように批判されたものでありながら、1996年司馬氏の死後、NHKテレビが、「韓国併合」100年前後の2009年から2011年までの3年間も、放映し続けた過去があり、それに対する批判も起こった。にもかかわらず、2020年7月22日朝日新聞「時代の栞」が取り上げていた。見出しを「小説の枠を超え歴史観に影響」「明治期の軍人と政治家のリアリズム」などとして。記事内容は総花的で色々網羅し支離滅裂的で、朝日新聞として『坂の上の雲』の内容がかつてどのような問題点を指摘され批判が起きたのかを具体的に示そうとしたものではなく、また、かつての批判の重視すべき点を、読者に具体的に分かりやすく伝えようとする使命感や責任感を感じさせるものではなかった。「物語」として創作する司馬氏の力量が優れていると讃えるものであったり、彼の歴史認識やこの作品への「批判」をかわす事を意図しているためなのか、司馬氏本人のものの見方考え方や言葉に基づかず無視して、手前勝手な主観的なピントの外れた決めつけ思い込みによる「作品」への称賛の批評などであった。これでは読者(主権者国民)は歴史認識を培う上でこの記事から得るものは乏しく、結局「ただのゴミ」記事でしかない。

 司馬氏は「日露戦争は日本の祖国防衛戦争であり、であればこそ民族をあげて戦い抜きつつある」と書き、「あとがき」には「この作品は、小説であるかどうか、実に疑わしい。事実100%だ」と書いている。しかし実態は、歴史の事実を書き換えたり書かなかったりして捏造したものを歴史事実であると強弁したのである。そしてまたその事については晩年、たとえば「自分の韓国の描き方にははっきり問題があった」とする文章を残している。またそれに関連して司馬氏は、「自分の『坂の上の雲』は映像化しないように」と強い遺言を残していたのであるが、NHKは放映したのである。これは偏向した政治的意図をもって行ったものと言って良い。

 さて、この作品は日露戦争をモチーフにしたもの(司馬本人は歴史事実と言っているが、捏造し美化したものである)でありながら、歴史上の大事件には触れていない(事実の隠蔽)。また、触れても書き換えている。それをいくつか紹介しよう。

 まず、「日露戦争は日本の祖国防衛戦争であり、であればこそ民族をあげて戦い抜きつつある」と書くが、明治天皇詔勅で「韓国自存のための戦争だ(韓国目的のための戦争)」としており事実と異なり、司馬氏は捏造美化している。

 神聖天皇主権大日本帝国政府が欧米列強から不平等条約を押し付けられた事は書いてあるが、帝国日本による朝鮮植民地化(韓国併合)の第1歩である江華島事件を軍事的圧力を背景に計画的に起こし日朝修好条規を押し付けた事については書いていないしNHKテレビ放映でも触れていない。

 日清戦争は、日本軍が朝鮮王宮景福宮を占領する事から始まるが、作品では王宮占領2日後の話だけを書いている。旅順市民虐殺について「作品」は「旅順は二度(日清・日露)にわたって日本人の血を大量に吸った」「日本は日露戦争を通じ、前代未聞なほどに戦時国際法の忠実な遵法者として終始した」「日本兵は私有物を盗まなかった」「日本人が日清戦争や北清事変を戦った時、軍隊につきものの略奪事件は一件も起こさなかったという事が、世界中の驚きを誘った」と書いている。現実には1万人以上の市民を殺害し、欧米から批判を浴びたが作品はその事実を隠蔽した。

 三国干渉後、朝鮮政府(閔妃政権)はロシアに接近ため、それを恐れた神聖天皇主権大日本帝国政府は閔妃(高宗の王妃)虐殺事件を起こした。これは川上操六(陸軍参謀次長)が陸奥宗光や伊藤博文の了解を得て、三浦梧楼朝鮮公使に命じたもので、公使館守備隊を連れて景福宮に乗り込み実行した事件であった。ニューヨーク・ヘラルド紙などが批判報道したが、日本の裁判所は無罪とした。この事も「作品」では書いていない。NHKテレビ放映ではテロップで1行だけ流した。しかし、閔妃ではない写真を使用していた。また、NHK出版『坂の上の雲』ガイド本では、日本人の犯行であったにもかかわらず、韓国関係者の犯行であると解説し罪を頬かむりしている。

 日露戦争における日本海海戦については、「日本人が勝った。それをアジア人が喜ぶべきなのに喜ばなかった」と書いている。

 ポーツマス講和条約の第1条こそ、日露戦争の最重要の目的であったが、その第1条には「ロシアは韓国に対する日本の指導・保護・監理を承認する」とある事からも、司馬氏のいう「祖国防衛戦争」ではない事は明らかであるが、「作品」はそれを読者や視聴者に欺瞞隠蔽している。

 また、日露開戦直後に大韓帝国(1897年国号を改めた)政府は局外中立声明を出したが、神聖天皇主権大日本帝国はそれを無視し、1904年2月「日韓議定書」を強要締結させ、「大日本帝国軍による領土使用」を承認させた。1904年8月には第1次日韓協約「財政・外交については、日本及び日本人の推薦する外国人を顧問として迎える事、また外交については日本政府と協議すべき事」を強要締結させた。また、1905年11月には第2次日韓協約で「韓国の対外関係は日本の外務省が処理(外交権の剥奪)、統監府(初代統監・伊藤博文)を設置」を強要締結させたが、「作品」は一切書いていない。

※韓国併合への経緯については別稿カテゴリー「朝鮮問題」を参照してください。

(2020年8月3日投稿)

 

 

 

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全権委任法成立後のナチス・ドイツ(第三帝国)の画一支配の手法

2024-11-09 15:54:20 | ナチス・ドイツ

 ナチス・ドイツは、1933年3月23日に全権委任法を成立させた後、ワイマール共和国をどのように改変解体し第三帝国を誕生させたのか?

 ドイツの都市や農村のいたるところで政治的熱狂の波と、ナチ党への転向が巻き起こり、新体制に抵抗するものはことごとく改変解体された。ナチ党の曰く「画一支配」をめざす「国民革命」を始めた。強制的に、また自発的に。真摯にドイツ民族としての自覚に目覚めた者や、単にバスに乗り遅れるなと慌てふためいた者、そして、これまで割を食っていた分を世間にお返ししてやろういうナチ党員や、分け前をできるだけ多く分捕ろうという新しい権力者たちがいた。

 政治の世界では、これまでの秩序を根本から覆すような地滑り現象が起きた。民主主義・ブルジョア政党支配下の各州政府は州議会内で与党が多数を占めていなかったので、ナチ党は、中央政府の権限による圧力と、ナチ党の宣伝技術を併せて攻撃した。例えば、警察の指揮権を党員に移譲させた。拒否するとナチ党員の警察官が押しかけ、警察庁舎にカギ十字旗を掲げ、SA(突撃隊)指導者を中央政府により特別警察委員に任命し、中央政府に統合した。ナチ党の高官を統監(国会炎上大統領緊急令で各州で公共の安全が維持されない場合、各州の行政権を中央政府が代行するとの規定を根拠に、ヒトラー内閣が派遣した中央政府の代理者)とし、州の全権を奪った。

SA(突撃隊)……1921年創設。ナチスの直接行動隊。反対派を暴力で打倒する事が主任務。失業者・遊民・退役軍人などが主体でナチスの騒動を受け持った。のちに準軍隊的存在となり国防軍と対立したが、ヒトラーは34年の血の粛清でSAの指導者を一掃し、解散させた。

 SAが「画一支配」への推進役となった。テロの手口は多種多様であった。脅迫、恫喝、犯罪者扱いや誹謗中傷。私生活の領域にまで及び、新聞紙面を使い中傷キャンペーンも展開した。人身に虐待行為を加えたり、屈辱を与えたり、「保護拘束」と称する無法行為も罪悪感なく当然のように行った。こうして指導的地位にある人々に対しては、退職するか年金生活に入るかの道に追い込んだ。又、地方政治を取り仕切る臨時代行者を勝手に指名し、それまで指導的立場にあった人々に汚職容疑でっち上げて取り調べ、辞職へ追い込み、「粛正」「刷新」「整理事業」などと称した。ユダヤ人に対する不法行為を最初に計画したのもSAであった。「ユダヤ系」といわれるデパートのショーウインドウを破壊したり、ユダヤ商店をボイコットしたりした。また、開廷中の法廷に乱入し、ユダヤ人と見られる検事弁護士拘束し、SA秘密収容所連行した。また、ベルリンのオペラ広場で2万冊の書物を「非ドイツ的図書」として火の中に投じた(焚書)。

 又、証券取引所周辺をSAの部隊がデモ行進し、取引所の全役員の辞職を要求したり、「マルクス主義的」な消費協同組合の食品搬入を阻止する封鎖デモを行ったり、銀行の役員の一員にするよう要求し、受け入れなければ隊員の出動命令を出すと脅したり、国家の敵として人狩りを行い、「臨時強制収容所」と呼んだ倉庫や地下貯炭庫や地下室に連れ込み乱暴の限りを尽くした。一日中立ったままの姿勢で狭いロッカーの中に閉じ込め、自白を強要した。尋問は殴打で始まり殴打で終わった。SAが交替で鉄棒、硬質ゴム製の警棒、ムチで殴り続けた。

 ドイツ国民が画一支配されたのはテロの脅威だけでなく、自発的な服従やヒトラーを救済者とする期待あきらめ日和見主義などもある。ドイツ工業全国同盟非アーリア人の役員を除名したり、各種の組織や利益団体はナチ党員を役員として受け入れ、指導者原理に基づいて組織を再編したり、上記のように「刷新」された役員たちが甘んじてナチ党へ忠誠誓約書を提出した。

 政党労働組合も、ヒトラーに迎合した。ドイツ労働組合総同盟は社会民主党と絶縁ナチ党忠誠誓約書を提出し、中道及び右翼政党は、ナチ党へ合流する動きが強まった。あくまで党や労働組合への忠誠を捨てない党員は強制収容所で命を代償とした。ブルジョア政党には手心を加え、ナチ党国会議員団に所属させたり、ナチ党国会議員と協力する無所属議員として扱った。このような結果、ナチ党はドイツにおける唯一の合法政党となった。

(2022年11月5日投稿)

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