盧溝橋事件が起きたのは、1937年7月7日である。この日、支那駐屯日本軍・第八中隊には損害は何もなかったのであるが、それを承知で、翌8日早朝、支那駐屯軍歩兵第一連隊(北平)長・牟田口廉也大佐と同第三大隊(豊台)長・一木清直少佐は独断で、「銃撃や銃声」が、中国軍の不法行為であると決めつけ、日本軍に対する「侮辱」「冒瀆」とみなし、日本軍の「面目」「威武」「威信」を保つために、意図的に中国側の対応などは無視し、攻撃命令を下し部隊を出動させ、一方的に戦闘を引き起こした。
参謀本部は9日夜、事件解決のため中国側へ一方的に譲歩を強いる折衝方針を支那駐屯軍に指示し、7月11日、松井特務機関長と張自忠天津市長(第38師長)との間で解決条件をまとめ調印した。これにより現地では停戦が実現した。
ところが陸軍中央は7月10日、関東軍から二個旅団、朝鮮軍から一個師団、日本国内から三個師団を華北へ派兵する事を決定した。神政天皇主権大日本帝国近衛文麿政府は、7月11日、五相会議を開き、陸軍提案を承認した。続いて閣議を開き、同じ決定を行い、事態を「北支事変」と命名した。近衛首相は、天皇の下へ行き、派兵について天皇の許可を受け、政府声明「政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支派兵に関し政府としてとるべき所要の措置をなす事に決せり」を発表した。
政府はさらに、新聞・通信社、政界、財界の代表者を順番に首相官邸に招き、政府への協力を要請するという前例のない措置をとり、挙国一致体制をつくりあげた。
このような姿勢をとったのは、政府がこれまで防共と資源・市場確保のため、華北の分離と支配という侵略政策を推し進めてきたのをさらに強行するためであった。
このため、7月11日に成立した停戦協定の実施条項として意図的に、中国側第29軍(北平)司令の陳謝と第37師(西苑)長の罷免など、中国側が受け入れがたい強行要求を出した。第29軍は近衛政府に妥協し、19日にこれを受け入れたが、中国政府は日中双方の軍隊の同時撤退、外交交渉による解決、現地協定は中央政府の承認を要すると近衛政府に申し入れた。
これに対し20日、日本陸軍中央は「外交的折衝をもってしては到底事件の解決に至らざるものと判断」し、「武力行使を決意するを要す」という決定を下した。
25日には日中両軍が衝突した。石原莞爾少将・参謀本部第一部長(作戦)は、支那駐屯軍司令官・香月清司中将に対し、「徹底的に膺懲せらるべし。上奏等一切の責任は参謀本部にて負う」と通報した。支那駐屯軍は、中国軍に撤退要求の最後通告行った。
26日、北平の広安門で日中両軍が衝突すると、27日には、近衛政府は日本国内三個師団の動員を承認し、参謀本部は支那駐屯軍に対し、「平津(北京天津)地方の支那軍を膺懲せよ」と命じた。7月28日午前8時、日本軍は総攻撃を開始し、日中戦争は全面戦争へと突入した。
1937年8月15日、近衛政府は、「支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため、今や断固たる措置をとる」と声明を発表した。9月2日、「北支事変」を「支那事変」と改称した。宣戦布告をせず、「事変」としたのは、宣戦布告により米国が中立法(交戦国への武器・戦略物資の輸出を禁止した法律)を日中戦争に適用し、米国から軍需物資の供給を受けられなくなることをおそれた姑息な手法であった。
8月14日、中国国民党政府は抗日自衛を宣言し、15日には全国総動員令を発し蒋介石が総司令官となった。22日には華北の紅軍は国民革命軍第八路軍に改編され、9月23日には第二次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線を結成した。
この頃、参謀本部内では戦争不拡大派と駐華ドイツ大使トラウトマンとの間で停戦交渉(和平工作)を開始したが、12月13日、日本軍が首都南京を攻略(南京大虐殺)すると、1938年1月15日の大本営連絡会議では交渉打ち切りを決定した。翌16日、近衛政府は、ドイツを仲介としたトラウトマン和平工作をけり、以下のような第1次近衛声明を発表し和平解決の道を閉ざした。
「帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与えるため今日におよべり、しかるに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し、内民心塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みるところなし、依って帝国政府は爾後国民政府を相手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整し更生新支那の建設に協力せんとす、固より帝国が領土及び主権並びに在支列国の権益を尊重するの方針には毫も渝る(かわる)ところなし。今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し、政府は国民がこの重大なる任務遂行のため一層の発奮を希望してやまず」
1938年11月3日には以下のような第2次近衛声明を発表し、東亜新秩序建設が肇国の精神に淵源するとした。
「今や陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要域を戡定(かんじょう)したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで帝国は断じて矛を収ることなし。帝国の希求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり。今次政戦究極の目的亦此に存す。この新秩序の建設は日満支三国相携え、政治、経済、文化等各般に亙り、互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界進運に寄与する所以なり。帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応えんことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢えて拒否するものにあらず。帝国は列国も亦真意を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑わず。就中盟邦諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とするものなり。惟うに東亜に於ける新秩序の建設は、我肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。茲に政府は帝国不動の方針と決意とを声明す。」
さらに近衛政府は1938年12月22日にも第3次近衛声明を発表し、日満支三国による政治的・経済的提携と防共体制の3項目を呼びかけた。
盧溝橋事件を契機に日中両国を全面戦争へと拡大させた、神聖天皇を頂点とした日本側の軍隊指揮官や政府閣僚為政者の思考様式には、自国のみを正当・無謬とし絶対化する思い上がりと浅薄さと自己中心主義が等しく巣くっていた。彼らは、中国人や中国軍は日本人や日本軍の前にひれ伏すべき存在であり、手向かってくる事などはもってのほかと思い込んでいた。
(2022年12月10日投稿)