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既成政党解散・挙国一党運動推進と防共護国団のテロ行為

2024-11-17 10:36:19 | アジア・太平洋戦争

 1937年7月7日、盧溝橋事件を契機に神聖天皇主権大日本帝国第1次近衛文麿内閣(1937.6.4~1939.1.4)日中戦争を全面化させた。そしてその年の12月16日の各新聞夕刊は一斉に、一条実孝公爵、頭山満、山本英輔海軍大将ら連名の「全国民に告ぐ」と題した檄文を掲載した。以下に一部抜粋。

「万世一系の天皇厳然として国家組織の中心をなし給い、億兆心を一にして天壌無窮の皇運を扶翼し奉り、君臣一体、忠孝一致のわが国体の本義が現状において顕現されていない、世界は秩序潰乱、禍機鬱勃、正に歴史的転換の潮頭に立っている今日、内、国力を結合して一体となし、外、世界未曾有の変局に処する事がわが使命であり、その使命達成のためには西洋思想の余毒たる憲法政治をもって、政党対立の政治と解するがごとき考え方を排し、全国民の一致せる精神に即して一体となり、皇国の政党の理義の徹底が今日の急務であるから、現存一切の諸政党は速やかに覚醒するところあり、彼此相対の境地を超越し、渾然一丸となりて強力政党の組織を遂げよ、苟もこれを怠らば、現存諸政党は歴史的鉄則の下に粉砕せらるるの日、必ずや遠きにあらざるべし」

 挙国一党運動のバックは、秋山定輔で、彼が近衛文麿の了解を得たうえで、配下の秋田清、宮崎龍介、山元亀次郎らを使って行ったという(『中央公論』1938年2月号重信嵩雄「一国一党論の全貌」)

 上記の「檄文」に応じて、1938年2月には防共護国団既成政党解散運動も行われた。「政党本部推参事件」である。防共護国団中溝多摩吉が、事件の前月に団体を結成し、スローガンとして「国内相剋排除、一国一党」を掲げ、その第一段階として「既成政党の解散」を目標とした。団員は陸軍の軍服に似たカーキ色の制服戦闘帽を作り全員が着用した。

 東京には2カ所の屯所を作り、そこに団員を常駐させ、彼らに各政党代議士を訪問させ、政友・民政両党解散を勧告させた。しかし、十分な成果が出ないため実力行使で政友・民政両党本部に「推参」し、党議によって解散を断行させる計画を立てた。このような手口はナチス・ドイツSA(突撃隊)の手口を模倣したものである。1938年2月17日に600名の団員を動員し、トラックに分乗し両党本部へ押しかけ、党の解散=挙国的態勢による新党樹立を要求した。民政党に向った隊は阻止されたが、政友会に向った隊は本部を占拠した。この事件は近衛文麿の了解のもとに行われたテロ行為であった。また、麻生久など社会大衆党の幹部が関わってもいた。社会大衆党は国家総動員法を「社会主義の模型」と理解していた。しかしその後の歴史は、1940年6月には新体制運動が開始され、7月には社会大衆党・立憲政友会の解散、8月には立憲民政党の解散、10月には大政翼賛会の発足、そして12月には太平洋戦争開始と向かう。

(2024年8月11日投稿)

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盧溝橋事件を利用し華北占領を図った神聖天皇主権大日本帝国近衛文麿政府

2024-11-17 10:34:17 | アジア・太平洋戦争

 盧溝橋事件が起きたのは、1937年7月7日である。この日、支那駐屯日本軍・第八中隊には損害は何もなかったのであるが、それを承知で、翌8日早朝、支那駐屯軍歩兵第一連隊(北平)長・牟田口廉也大佐と同第三大隊(豊台)長・一木清直少佐は独断で、「銃撃や銃声」が、中国軍の不法行為であると決めつけ、日本軍に対する「侮辱」「冒瀆」とみなし、日本軍の「面目」「威武」「威信」を保つために、意図的に中国側の対応などは無視し、攻撃命令を下し部隊を出動させ、一方的に戦闘を引き起こした。

 参謀本部は9日夜、事件解決のため中国側へ一方的に譲歩を強い折衝方針を支那駐屯軍に指示し、7月11日、松井特務機関長と張自忠天津市長(第38師長)との間で解決条件をまとめ調印した。これにより現地では停戦が実現した。

 ところが陸軍中央は7月10日、関東軍から二個旅団、朝鮮軍から一個師団、日本国内から三個師団を華北へ派兵する事を決定した。神政天皇主権大日本帝国近衛文麿政府は、7月11日、五相会議を開き、陸軍提案を承認した。続いて閣議を開き、同じ決定を行い、事態を「北支事変」と命名した。近衛首相は、天皇の下へ行き、派兵について天皇の許可を受け、政府声明「政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支派兵に関し政府としてとるべき所要の措置をなす事に決せり」を発表した。

 政府はさらに、新聞・通信社、政界、財界の代表者を順番に首相官邸に招き、政府への協力を要請するという前例のない措置をとり、挙国一致体制をつくりあげた。

 このような姿勢をとったのは、政府がこれまで防共資源・市場確保のため、華北の分離と支配という侵略政策を推し進めてきたのをさらに強行するためであった。

 このため、7月11日に成立した停戦協定の実施条項として意図的に、中国側第29軍(北平)司令の陳謝と第37師(西苑)長の罷免など、中国側が受け入れがたい強行要求を出した。第29軍は近衛政府に妥協し、19日にこれを受け入れたが、中国政府日中双方の軍隊の同時撤退外交交渉による解決現地協定は中央政府の承認を要すると近衛政府に申し入れた。

 これに対し20日、日本陸軍中央は「外交的折衝をもってしては到底事件の解決に至らざるものと判断」し、「武力行使を決意するを要す」という決定を下した。

 25日には日中両軍が衝突した。石原莞爾少将・参謀本部第一部長(作戦)は、支那駐屯軍司令官・香月清司中将に対し、「徹底的に膺懲せらるべし。上奏等一切の責任は参謀本部にて負う」と通報した。支那駐屯軍は、中国軍に撤退要求の最後通告行った。

 26日、北平の広安門で日中両軍が衝突すると、27日には、近衛政府は日本国内三個師団の動員を承認し、参謀本部は支那駐屯軍に対し、「平津(北京天津)地方の支那軍を膺懲せよ」と命じた。7月28日午前8時、日本軍は総攻撃を開始し、日中戦争は全面戦争へと突入した。

 1937年8月15日、近衛政府は、「支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省を促すため、今や断固たる措置をとる」と声明を発表した。9月2日、「北支事変」を「支那事変」と改称した。宣戦布告をせず、「事変」としたのは、宣戦布告により米国中立法(交戦国への武器・戦略物資の輸出を禁止した法律)を日中戦争に適用し、米国から軍需物資の供給を受けられなくなることをおそれた姑息な手法であった。

 8月14日、中国国民党政府は抗日自衛を宣言し、15日には全国総動員令を発し蒋介石が総司令官となった。22日には華北の紅軍は国民革命軍第八路軍に改編され、9月23日には第二次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線を結成した。

 この頃、参謀本部内では戦争不拡大派と駐華ドイツ大使トラウトマンとの間で停戦交渉(和平工作)を開始したが、12月13日、日本軍が首都南京を攻略(南京大虐殺)すると、1938年1月15日の大本営連絡会議では交渉打ち切りを決定した。翌16日、近衛政府は、ドイツを仲介としたトラウトマン和平工作をけり、以下のような第1次近衛声明を発表し和平解決の道を閉ざした。

「帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与えるため今日におよべり、しかるに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し、内民心塗炭の苦しみを察せず、外東亜全局の和平を顧みるところなし、依って帝国政府は爾後国民政府を相手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整し更生新支那の建設に協力せんとす、固より帝国が領土及び主権並びに在支列国の権益を尊重するの方針には毫も渝る(かわる)ところなし。今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し、政府は国民がこの重大なる任務遂行のため一層の発奮を希望してやまず」

 1938年11月3日には以下のような第2次近衛声明を発表し、東亜新秩序建設肇国の精神に淵源するとした。

「今や陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東武漢三鎮を攻略して、支那の要域を戡定(かんじょう)したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで帝国は断じて矛を収ることなし。帝国の希求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり。今次政戦究極の目的亦此に存す。この新秩序の建設は日満支三国相携え、政治、経済、文化等各般に亙り、互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界進運に寄与する所以なり。帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応えんことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢えて拒否するものにあらず。帝国は列国も亦真意を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑わず。就中盟邦諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とするものなり。惟うに東亜に於ける新秩序の建設は、我肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。茲に政府は帝国不動の方針と決意とを声明す。」

 さらに近衛政府は1938年12月22日にも第3次近衛声明を発表し、日満支三国による政治的・経済的提携と防共体制の3項目を呼びかけた。

 盧溝橋事件を契機に日中両国を全面戦争へと拡大させた、神聖天皇を頂点とした日本側の軍隊指揮官政府閣僚為政者の思考様式には、自国のみを正当・無謬とし絶対化する思い上がりと浅薄さと自己中心主義が等しく巣くっていた。彼らは、中国人や中国軍は日本人や日本軍の前にひれ伏すべき存在であり、手向かってくる事などはもってのほかと思い込んでいた。

(2022年12月10日投稿)

 

 

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「大政翼賛会」成立の流れを作ったポピュリスト近衛の「新体制運動」当時の国民意識

2024-11-17 10:32:00 | アジア・太平洋戦争

 近衛文麿は、「新体制運動」確立のため、1940年6月24日枢密院議長を辞職を発表した。「新党」設立の内容は不明確であったが、ナチス・ドイツの電撃的勝利による機運に乗って「挙国的な国民運動」を展開する方針とした。この動きに、政党は「バスに乗り遅れるな」と慌て「解党」していく。6月19日東方会、7月1日日本革新党、7月6日社会大衆党、7月16日政友会久原派、7月21日日本労働総同盟、7月26日国民同盟、7月30日政友会中島派、8月15日民政党。ポピュリスト近衛文麿は、日中戦争を開始し、アジア・太平洋戦争への道をも開いた。

 7月22日第一次近衛文麿内閣(1937.6.4~1939.1.4)の成立。8月28日新体制準備会設立。10月12日大政翼賛会発足。綱領なし。翼賛会は、ナチス・ドイツのヨーロッパ制覇の気運と、それを礼賛する「メディア」が作った「ポピュリズム」のみに依拠したため、理念も目的もなかった。

 この当時の国民意識について、武藤章軍務局長と親しくしていた矢次一夫は以下のように語っている。

「近衛の新党構想が、二転三転している間に、パリが落ち、イタリアが参戦し、イギリスが、ダンケルクの悲劇で四苦八苦して、明日にも独軍の対英上陸ができそうだ、という欧州大戦の発展は、連日の新聞紙上、日本国内にまで、一大戦勝ムードを作り上げた。日本人の常として、忽ちこのムードに酔い昂奮したり、熱狂して、「バスに乗り遅れるな」という叫びが、至る所で、わめき立てられた。……独軍の対英上陸作戦の可能性は、みな、手に汗を握る思いで、今日か、明日か、と固唾を呑んでいた。こうした激動する状況の中で、西園寺公望が、いかにヒトラーが偉くとも、十五年つづくか、続かぬかの問題だ。……まだまだ前途は、わからぬ、といっていたことが、「原田日記」(六月十七日)にのっており、さすがは西園寺と、今にして思うけれども、当時駐英大使であった重光葵や、大使館付武官であった辰見栄一大佐が、独軍の上陸作戦は、制空権をもっていないとか、チャーチル首相の強力な抗戦計画などを理由に、不可能に近い事を打電してきていたのを、武藤が読んで、情勢は慎重に見るべき事を、語っていたのが思い出される。しかし、このような達見の士は、極く少数であり、沸き立っている大衆の耳からは遠く、かすかであった。……これを批判したり、水を掛けるような事を言うものは、袋叩きに会うのである。……武藤も、軍務局長として、政府と軍部との連絡役という立場で、色々と調整に努めてはいた。しかし、ドイツ大勝に煽られ、バスに乗り遅れるな、という大衆の昂奮や、参謀本部将校団の焦燥感とが、相乗作用を起こすし、沸き立つような「反米内内閣」の風潮の中で、次第に戸惑いを見せていた」(矢次一夫『政変昭和秘史─戦時下の総理大臣たち』)」

(2024年7月15日投稿)

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第2次近衛内閣のラジオ放送

2024-11-17 10:29:31 | アジア・太平洋戦争

 第2次近衛文麿内閣は1940年7月22日に組閣され、41年7月16日まで(第3次近衛内閣は41年7月18日から同年10月10日まで)であった。そして翌日の23日夕に、近衛は「大命を拝して」と題したラジオ放送を行った。近衛は1937年6月4日の第1次近衛内閣組閣の当日夕にも「全国民に告ぐ」というラジオ放送を行っていた。これは史上初の試みであった。

 さて、「大命を拝して」の放送の趣旨について以下に紹介しよう。

「世界情勢の一変に対応して国内体制の一新を図らねばならないとして、特に政党について、『立党の趣旨において、自由主義をとり、民主主義をとり、或は社会主義をとって、その根本の世界観人生観がすでに国体相容れない』、またその目的が政権争奪にある事は『立法府における大政翼賛の道では断じてない』として非難した。また、日本独自の立場で外交を進める事、そのためには日本経済を外国依存から脱却せしめて、満州・中国との提携、南洋方面への発展を要する事、国民生活は確保するが、増産と節約が不可欠である事、個人の創意を重んじるが、種々の統制は不可避であるという事、教育の刷新が根本である」と主張した」

 この内容については、リベラルな元老西園寺公望や議会主義の鳩山一郎などは批判的であったが、極めて少数派であった。既成政党の主流も、新党の指導者を狙っていた社会大衆党も、革新派の官僚や運動家も、それ以上に軍部が歓迎した。

(2024年8月14日投稿)

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(加筆版)「現場へ!『(杉原千畝の)命のビザ』が問いかける」(朝日新聞)に欠けている重大な視点近衛文麿内閣の「ユダヤ人対策要綱」

2024-11-17 10:26:28 | アジア・太平洋戦争

 朝日新聞が2020年9月9日から5回にわたって連載した「現場へ!『命のビザ』が問いかける」の第1回目に目を通した時、どこまでの内容を書くのだろうかと関心をもった。そして、11日には最後の5回目が載った。1回目の最後に記者の清水康志氏が訴えたい事として、元国連難民高等弁務官事務所駐日代表であった滝澤三郎の言葉「難民に関心がなかった人が、杉原を通じて難民問題に目を向け、考えてほしい」という言葉を載せていた。また5回目の最後には氏は日本国民に杉原のような気持ちをもってもらいたいと願う思いからであろう、「苦しんでいる香港の人々」という認識のもとに、自分自身の言葉で「この国は手を差し伸べようとするのだろうか。杉原がじっと私たちを見つめているような気がしてならない」と結んでいた。

 しかし、これでは説明不足である。というのは、ナチスからユダヤ人の命を救うための「命のビザ」を発給(1940年7~8月)するのに、杉原が、「人道、博愛精神第一」という結論に至るのが「(外務省)の回訓を受けた日、一晩中考え、苦慮、煩悶の揚句」であった事や根井三郎が、外務省の命令である「通過ビザを再検閲の上、行き先国の入国手続きが完了している場合に限り検印し、乗船させるように」とする事に対し、「帝国領事の査証を有する者に対して検印を拒否するは帝国在外公館査証の威信より見るも面白からず」と反論し、独断でユダヤ人に通過ビザや渡航証明書を出した事の背景に、神聖天皇主権大日本帝国政府ドイツとの軍事同盟国としてユダヤ人に対する姿勢や方針を決定していた事にあった事にこそ重点を置き主権者国民に明らかにすべきであったと考えるからである。ユダヤ人であろうと何人であろうといわゆる「難民」受け入れの諾否の決定権は権力を有していた時の帝国政府であったからである。また敗戦により変革された国家体制(民主主義憲法)の下で成立している現在の安倍自公政権の「難民」や「外国人労働者」の受け入れの姿勢や方針を変える力となるのは、主権者国民が安倍自公政府を糾すための闘いを行う事である事を訴えるためにも。

 神聖天皇主権大日本帝国第1次近衛文麿内閣(1937.6.4~1939.1.4)では、1938年12月6日、「五省会議」を開き「猶太人(ユダヤ人)対策要綱」なるものを決定していたのである。それは、

独伊両国と親善関係を緊密に保持するは現下に於ける帝国外交の枢軸たるを以て盟邦の排斥する猶太人を積極的に帝国に抱擁するは原則として避くべきも之を独国と同様極端に排斥するが如き態度に出ずるは唯に帝国の多年主張し来れる人種平等の精神に合致せざるのみならず、現に帝国の直面せる非常時局に於いて戦争の遂行、特に経済建設上外資を導入する必要と対米関係の悪化する事を避くべき観点より、不利なる結果を招来するの虞大なるに鑑み左の方針に基づき之を取り扱うものとす

方針

一、現在日、満、支に居住する猶太人に対しては他国人と同様公正に取り扱い之を特別に排斥するが如き処置に出ずることなし

二、新たに日、満、支に渡来する猶太人に対して一般に外国人入国取り締まり規則の範囲内に於いて公正に処置す

三、猶太人を積極的に日、満、支に招致するが如きは之を避く、但し資本家、技術家の如き特に利用価値あるものはこの限りに非ず」

とするものであったのである。神聖天皇主権大日本帝国政府はナチスドイツのユダヤ人政策の共犯者加担者であったのである。この認識こそ重要であり主権者国民が教訓とするために焦点を当てなければならないものではないだろうか。この姿勢は現在の安倍自公政権の「難民」だけでなく外国人労働者に対する姿勢や方針と非常に酷似しているのであるが、どうだろう。

そして、この帝国政府ご都合主義の「対策要綱」も日米開戦後の42年には廃止している。

 「命のビザ」で敦賀から神戸へたどり着いたユダヤ人難民は「異人館通り」で知られる北野・山本通りにあった「神戸猶太(ユダヤ)協会」が迎えた(資金は米国ユダヤ人ジョイント・ディストリビューション・コミッティー)。キリスト教の一派である日本ホーリネス教会の牧師も援助した。しかし、大日本帝国政府はこのホーリネス教会組織に対しても1942年6月から43年にかけて治安維持法や宗教団体法(1940年施行)。平沼内閣。文部大臣は宗教団体の生殺与奪権を掌握)によって弾圧し、牧師ら130人を逮捕し数人が獄死した。この事件は日本のキリスト教史上、プロテスタント教会に対する最大の迫害であった。

 メディアはユダヤ人難民に関してどのような報道をしたのだろうか。朝日新聞大阪本社版では侮蔑的な表現の記事を載せた。1941年2月9日から「流浪のユダヤ人」なるタイトルで6回の連載記事を載せた。その見出しは「金持ちルンペン」とか「投機好きで働き嫌い」などと書き、1回目の前文には「祖国なき民族、世界の無籍者といわれるユダヤ人がいま日本に氾濫している、あらゆる国から追われ嫌われ」としていたのである。

 ユダヤ人難民はその後どうなったのだろう。1941年秋までに米国へ渡ったり、カナダなど英国自治領へ行く事ができた。しかし、最終目的地のビザを手に入れられなかった人々は真珠湾攻撃の数週間前に、神聖天皇主権大日本帝国政府占領下にあった中華民国上海に送り出し(追い出し)一掃したのである。

そして、1943年2月18日の大日本帝国政府陸海軍合同発表では、1937年1月1日以降に上海に逃れてきて生活していた無国籍避難民(ユダヤ人。バクダッド系とロシア系)2万人に対し、特別区(ゲットー)を国際共同租界内に設定(無国籍難民指定区域宣言)して同年5月15日までに移住する事を強制し、住居と商業場所を限定(外出禁止令、外出にはパス必要)した。ゲットーでのユダヤ人の生活状況は、ドキュメンタリー映画『命の綱・上海』によると、ユダヤ人という言葉は全く使用せずゲットーへの移転を強制し、商売や家屋財産を実際の数分の一の価格で接収した。ゲットーの境界線には当初は兵隊を置いたが、後にはユダヤ人に義務付けて「パオチア」と呼ぶ「巡回」を置いた。ゲットーの出入りには「通行許可証」の携帯を義務付け、「パオチア」に「通行許可証」のチェックを行わせた。ユダヤ人を管理監視する担当者は権力をあらゆる方法で悪用した。間違った言葉を発した場合ひざまづかせ殴打した。持ってきた衣類も現地で調達した物もだんだん擦り切れてきても新しい物を買うお金もない状況であった。でも暖かい衣類はなく、Tシャツと半ズボン、靴下はなく靴代わりに「木の片」を削って作ったスリッパを履いた。6千人は飢餓状態で、9千人はそれに近い状態であった。

(2020年9月14日投稿)

 

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