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佐賀の乱(士族の反乱)処理での明治政府の野蛮性による逆効果

2024-09-20 19:28:09 | 文学・歴史

 「佐賀の乱」(1874年2月)は、前参議で司法卿であった江藤新平が、征韓論に敗れ、下野して佐賀の征韓党に迎えられ、前秋田権令(知事)島義勇を首領とした憂国党とともに、2人の郷里である佐賀県を中心に蜂起した「不平士族の反乱」といわれるものである。この際、西郷隆盛らはこれに応じなかった。神聖天皇主権大日本帝国政府は「不平士族の反乱」として最初のものであったため素早い対応と鎮圧をめざした。

 当時の政府の実権を握っていたのは内務卿大久保利通であった。大久保は、士族の動きを読み、佐賀の乱以後も反乱は起こると考え、その動きを委縮させるために、江藤と島に厳しい処分を下した。当時「刑法」としては「改定律令」(1873年7月施行。司法卿江藤新平が中心となり、フランス刑法も参考に制定。刑を寛減し、罪名を統一整理、82年旧刑法施行まで行われた)を定めていたが、あえてその規定に依らず、不平士族への「見せしめ」とするために江藤と島を「死刑」としたうえ、「梟首」(さらし首)とした。しかし、それは逆効果となり、その後も「不平士族の反乱」は続いた。最後で最大のものは西郷隆盛を中心とした「西南戦争」であった。

(2024年9月20日投稿)

 

 

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「シベリア出兵」は神聖天皇主権大日本帝国原敬政権によるソヴィエト政権打倒とシベリア略取

2024-06-24 07:43:58 | 文学・歴史

 現在、メディアの扇動により、国民の間の話題は、ロシアによるウクライナ侵略問題で持ち切りのように思われるほどであるが(実際のところはどうであるか分からないが)、今から100年ほど前には、神聖天皇主権大日本帝国原敬政権(1918年9月~21年11月)が、ロシアで革命が起こり、1918年1月社会主義政権として生まれ変わった「ロシア社会主義ソヴィエト共和国」(1922年ソヴィエト社会主義共和国連邦)に対し、それを打倒するとともに、火事場泥棒のごとくシベリア東部略取し支配下に置こうとする対ソ革命干渉戦争政策を実行し失敗した歴史がある事を国民のどれほどが知っているだろう。

 ソヴィエト共和国政府は1917年11月、「平和に関する布告」を採択し、第一次世界大戦の即時休戦と、「無併合・無賠償・民族自決」の民主主義的原則に基づく講和を呼びかけた。さらに秘密外交の廃止も宣言し、帝政ロシアが結んだすべての秘密条約の失効も公表した。大日本帝国政府との秘密条約=日露協約も公表され無効とされ、大日本帝国政府は「満州」での制約はなくなった。しかし、連合国が戦争の早期終結を拒否したため、ソヴィエト共和国政府は1918年3月3日にはドイツ帝国政府単独講和(ブレスト・リトフクス講和条約)を締結し戦線から離脱した。

 危機感を持った英仏両国政府は、反ソヴィエト政権を樹立し、レーニン政権を打倒しようと、米日両国政府にも「対ソ革命干渉戦争」(1918~22)への参加を呼びかけた。その口実としたのが「チェコスロバキア軍」が樹立した「反ソヴィエト政権」の救援であった。

 大日本帝国政府は元々、連合国の掣肘を受ける事なく独自に出兵し、反革命勢力を支援し、帝政ロシアが抑えていた「満州」北部と東支鉄道の支配権を掌握し、うまくいけば「満州」北部と東部シベリア(バイカル湖以東)地域反ソビエトの親日傀儡政権を樹立し、間接的な支配権の確立を狙っていた。その動きは、1918年1月には、革命勢力に圧力をかけるためウラジオストクの居留民保護を名目に巡洋艦2隻を派遣。4月5日には居留民殺傷事件を名目に陸戦隊出兵上陸ハルビンでは中東鉄道長官ホルヴァ―ト権力を支援しソヴィエトを鎮圧。当時大日本帝国国内では、労働争議が頻発し、社会運動の勃興がみられ、18年6月には後藤新平外相意見書で、人心の弛廃を憂え、「シベリア出兵を断行し、人心を緊張せしむるの要あり」と述べ、寺内正毅首相も「資本家と労働者の懸隔甚だしき事が国体に合致せぬ国民思想の変化を生む」と危険を警告しており、大日本帝国政府としては国内政治的危機の回避のためにも「シベリア出兵」を急がねばならないと考えていた。しかし、『大阪朝日』『東洋経済新聞』をはじめ多くの新聞・雑誌は出兵に反対し、国民も冷ややかであった。

※『東洋経済新聞』の反対論 1918年7月25日号「社説」より

「目下の露国の混乱は、経済上の理由から発した国内の階級戦だという事を、強く我が国民に知ってもらいたい。幾十百年の間、他国民のほとんど想像だも出来ぬ激しさを以て圧伏せられて来た農民労働者が、一時にその圧迫を蹴破って起ったのが、今回の露国の革命である。……明治維新も一種の階級戦であった。混乱は随分続いた。しかしこの時外国の勢力が、あるいは幕府を援け、あるいは討幕党を圧迫する事によって能くその混乱を鎮め得ただろうか。よし一時は鎮め得たとしても、それで国民は満足したであろうか。今の露国で、反革命を援け、あるいは革命党を圧迫するのは、あたかも明治維新の際、幕府を援け、討幕党を圧迫するのと異ならない。……過激派(ボルシェビキ[多数派]を当時このように訳した)を承認しろ過激派を援けろ。連合国は、思想上過激派と一致せざるやにて、その承認を拒んでおるが、それでは彼らは他国民の思想に干渉する者である。民族の自決権などいう事を喧しくいう連合国の主張とは矛盾である。……事実は仮令厭うべきものでも、その存在を認めねばならぬ。……責めるにしても、援けるにしても、存在する物を認めぬという法はない。悪かったらこれを責めるも善い、勧告するも善い、とにかく過激派政府を認めて、露国のため、連合国のため最善の努力をなさしめる。これをおいて他に現下の時局を救う途はない。……無名の兵を露国に出だし、露国民の憤恨を買うが如きは、絶対にすべからざる事である。」 

 18年7月に米国の出兵提案を受け、同年8月2日、大日本帝国政府はシベリア出兵(ウラジオストク)を宣言した。大日本帝国軍1万2千人、米国軍7千人、英仏軍5800人の約束で共同出兵し大日本帝国政府軍が指揮権を握った。大日本帝国政府は、米国の限定出兵の約束を形式上受け入れたが元々、出兵地域や兵力量を限定するつもりがなかったで、10月末には7万2千人(ソ満国境の満州里からチタへ侵略した関東都督府指揮下の部隊も含む)の派遣となり、シベリアのバイカル湖以東を制圧した。1918年11月11日、ドイツの休戦協定調印により第一次世界大戦は終結したが対ソ革命干渉戦争は続けられた。しかし、1919年初めから大日本帝国政府軍は戦況不利となり、又手段を選ばない残虐な戦闘行為はシベリア民衆の反日感情とパルチザン抵抗運動を強める事になり、大日本帝国政府軍部隊の全滅が相次いだ。鉄道や鉄橋、電話線なども絶え間なく破壊されたが、大日本帝国政府軍はその報復として、村を焼き払い住民を男女の別なく虐殺した。

 1920年1月、対ソ革命干渉戦争の無益さを感じた米国と英仏両国が撤兵声明を出したが、大日本帝国政府軍は東部シベリアや樺太北半部の略取に執着し、出兵理由を「朝鮮・満州への革命波及の防止、シベリア居留民の保護など」に改めて駐兵継続を宣言し、沿海州のソヴィエト軍の武装を解除して各都市を占領し居座りを続けた。この事は、尼港(ニコライエフスク)事件を招く事となった。

 大日本帝国内では、日本労働総同盟が「即時撤兵・日ソ通商開始」の要求運動を起こし、1922年には「対露非干渉同志会」が作られたためもあり、1922年10月撤兵を完了した。しかし、樺太北半部の撤退完了は尼港事件処理に拘ったため、1925年5月まで長引いた

シベリア出征兵士の体験 松尾勝造『シベリア出征日記』より一部抜粋

「(1919年2月13日)……家の中より物陰より盛んに発砲して来るが、その時はもう身の危険等との考えは微塵も起こらない。一昨日の恨み、戦死者の弔い合戦だと身の疲労等とうに忘れてしまい、脱兎のごとくに攻め入った。……硝子を打ち割り、扉を破り、家に侵入、敵は土民かの見境はつかぬ。手当り次第撃ち殺す、突き殺すの阿修羅となった。前もって女子供、土民を害すなと注意されてはいたものの、敵にして正規兵は極少数、多くは土民に武器を持たしたものの、武器を捨てれば土民に早変わりという有様にて、兵か土民かの見分けの付こうはずはない。片っ端から殺して行く。」

※列国の「ソヴィエト社会主義共和国連邦」承認の時期

 1922年 ドイツ 1924年 イギリス、イタリア、フランス 

 1925年 日本  1933年 アメリカ  

 1934年 ソ連、国際連盟加盟

(2022年4月16日投稿)

 

 

 

 

 

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鳥獣戯画のセンスはどこから来たか?

2024-06-11 08:44:26 | 文学・歴史

 現在、東京国立博物館にて「鳥獣戯画」展が開催されている。高山寺蔵国宝である。鳥羽僧正覚猷の筆になるものかどうかは別にして、平安末期から鎌倉初期のものといわれ、当時の貴族社会仏教界を、鳥獣などの生物動物擬人化して風刺したものであると解釈されている。

 ところで、このような画風はこれ以外他には見られない。この画風のセンスはいったいどこから来たのであろうか。「絵画」ではないのでこの「戯画」に直接的に影響を与えたとはいえないのであるが、源流はこれではないかと思われるものがあるので紹介したい。朝鮮半島には、918年から1392年まで高麗国という国が存在したが、その末期から次の李氏朝鮮国時代初期にかけて「時調詩」というものが盛んになったようであるが、そのセンス源流としたものではないかと思うのである。

 「時調詩」とは、動物植物などを擬人化する手法で、政治のひずみ社会のひずみの形にしたもので、小説民謡もたくさん作られていたようである。

 李氏朝鮮国時代になると、がつけられて「仮面劇」や「パンソリ」(民俗芸能、唱劇、劇歌)のなかに取り入れられていったようである。

さて、今回の「鳥獣戯画」展においてはどのようは説明や評価がなされているのだろうか?

(2021年5月28日投稿)

 

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「さかい利晶の杜」の企画展「堺から世界に響け君『死にたまふことなかれ』」は与謝野晶子像の捏造

2024-05-16 14:14:23 | 文学・歴史

 「さかい利晶の杜」は、2024年5月18日から開催する企画展「堺から世界に響け『君死にたまふことなかれ』」で、与謝野晶子日露戦争時の反戦詩『君死にたまふことなかれ』の多言語翻訳を紹介し、「晶子の平和の思想」を世界に届ける事を試みるという。しかし、このような「与謝野晶子」の取り上げ方は、企画者にとって「晶子」の都合の良い評価だけで「晶子像」を作り上げ利用したものであり、晶子の生涯にわたる「生き様」を歪曲捏造した、「歴史修正主義」的な姿勢に立つものであり、評価できるものではない。

 つまり、与謝野晶子はその後「主戦論」に「変節」するからである。1910年の「大逆事件」の後、晶子自身はこの反戦詩や『みだれ髪』について「口を閉ざす」ようになっている。大正時代(1911年~)には「男女平等論」を展開するが、他方、昭和時代(1925年~)に入ると、旅順を旅した際、「ここで陣没した同胞の思いを生かすためにも、満蒙に自由な労働の場を開くべきである」と主張している。さらに「大東亜戦争」(アジア太平洋戦争)においては、息子の「出征」を励まして、「み軍にゆくたけく戦へ」と歌っており、明らかに「主戦論」へと「変節」しているからである。

(2024年5月16日投稿)

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岐阜市長良川の鵜飼

2024-05-12 18:24:48 | 文学・歴史

 2020年9月5日朝日新聞「Be」が長良川の「鵜飼」の記事を載せた。「鵜匠」は「世襲制」で、現在長良川では岐阜市に6人、関市に3人、合計9人いるという。1890年に宮内省所属となり、現在では「宮内省式部職鵜匠」という肩書だそうだ。「鵜飼」は宇治川など全国十数か所で行われているが、皇室に納めるアユをとる「鵜飼」は長良川だけで行われ、『御料鵜飼』とよび、その「鵜飼漁の技術」は2015年に国の「重要無形民俗文化財」に指定されている。

 ところで記事には書いていないが、この「鵜飼漁」は日本のオリジナルではなく東南アジアから伝わったというのが定説である。そして、その「」には「海鵜」と「川鵜」がいるが、日本では「海鵜」を使用している。また、「人工ふ化」ができない(2014年頃に実現)ため、岩手県三陸海岸などで自然繁殖している「海鵜」の幼鳥を捕獲したり、茨城県日立市北部の伊師浜海岸では渡り鳥としてやって来た若鳥を捕獲して各地に送り、鵜匠が訓練育成して使用してきたようだ。

 ちなみに、「鷹狩」も東北アジアの狩猟法で、沿海州で起こったものといわれている。そして、その「」も「人工ふ化」ができない鳥なので、幼鳥を捕獲して訓練しなければならなかった。そのため、鷹の幼鳥を捕獲する保護地区を作ったりしてきた。地名や山の名称で「鷹」という字がつくところはその名残といわれている。

(2020年9月6日投稿)

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