つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

天皇は国体開会式出席を口実にした憲法違反の岩手護国神社参拝をやめよ。

2024-03-20 18:51:30 | 皇室

 2016年9月28日から4泊5日で岩手県を訪問する。被災地訪問の事が大きく取り上げられているが、本命は国体開会式の出席である。被災地訪問は本来予定には入っていなかった。なぜなら、震災は5年前に起こった事からである。そのため、予定していた国体の件だけで素通りできなくなったのである。もちろん、被災地訪問は「同情行為」でしか過ぎないが、象徴天皇としてはその「慈悲」の顔をアピールして置く絶好の機会なのである。同情や「慈悲の顔」は「差別行為」と「同質」である事を分かっていないらしく。

 天皇は第三者的な差別的な立場に立つ「同情行為」をやめるべきである。そして、自ら「原発廃止」に力を尽くすべきである。そうしてこそ「差別者の立場」から脱する事ができるのである。しかし、彼にはできないだろう。地位と名誉を捨てられないから。人間は「同情行為」ほど屈辱を感じる事はない。しかし、彼は良い事をしているとしか思えないのだろう。それは、彼の国民に対して持っている意識なのである。国民は彼らが自分たちと同様の感覚や意識をもち物事を判断していると考えてはいけない。

 被災地訪問については、これ位にして、本題へ入る事にしよう。本題は天皇と国体の関わりの件である。この事については以前、別稿「天皇は憲法尊重擁護の義務を果たしていない。安倍政権は政教分離原則の空洞化を狙う」で詳しく書いているのでぜひ読んでください。

 さて、天皇がなぜ「国体の開会式」に関わっているのかという事であるが、率直に言えば、1946年に国体が開始されてから今年で第71回目になるわけであるが、この間、天皇は開会式に出席するだけでなく、その際必ず、各都道府県に存在する「護国神社」へ参拝してきたのである。つまり、開会式に出席する事を口実に「護国神社」への参拝をしてきたという事である。「護国神社」が「靖国神社」の傘下にある事を考えれば、天皇が何の目的で参拝しているのかは自ずから明らかでしょう。

 1970年の第25回大会は岩手県で実施されているが、その時は、昭和天皇皇后は岩手護国神社に対して、「幣せん料」を奉納し、参拝した。

 10月1日は岩手護国神社の「秋季慰霊祭」となっており、そのように計画していたといえよう。天皇は10月2日には、宿泊地の花巻市から、国体会場である「北上市」ではなく、わざわざさらに北方の「盛岡市」まで出向き、そこから東北新幹線に乗車する予定である。その理由こそ岩手護国神社が「盛岡市八幡町」の「八幡宮境内」に存在するからである。

 この行為は、憲法第20条「信教の自由」第1項「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」や、第3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という定めに「違反」しているのである。また、第99条「憲法尊重擁護義務」の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負う」の定めに違反しているのである。

 このような事から、天皇の「慈悲の顔」にこそ注意が必要なのである。

(2016年9月25日投稿)

 

 

 

 

 

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愛媛玉串料訴訟最高裁判決とその影響

2024-03-20 18:38:44 | 宗教

 2021年4月2日、憲法の政教分離原則を巡り、最高裁大法廷の「違憲」判決を出した「愛媛玉串料訴訟」について、松山地裁がこれまで「廃棄済み」としていた訴訟記録が見つかったと発表した。地裁は重要訴訟記録扱いとして永久保存する「特別保存」の手続きを進めるという。

 最高裁大法廷が愛媛玉串料訴訟について、高松高裁判決を破棄し、愛媛県が「公費」をもってした靖国神社への玉串料支出を「憲法違反」と断じたのは1997年4月2日であった。評決は13対2であった。政教分離原則や靖国神社をテーマとした訴訟では最高裁が初めて「憲法違反」と断じたものであった。

 靖国神社は、敗戦後GHQ監視下にあったが、1952年の独立以降、毎年の春秋例大祭に際して、各県知事玉串料の献納を要請し続けていた。これに応じた知事の支出が県費(公費)であるか、ポケットマネーであるかが不明確であった。1982年、青森・山形・岩手・栃木・熊本・宮崎・山口の7県が公費からの支出である事が明らかとなり、栃木・岩手・愛媛の3県で、これを「違憲」とする住民訴訟が同時に起こされた。

 栃木訴訟は知事の死亡により一審判決前に取り下げて終了。岩手訴訟は一審住民側敗訴となったが、1991年1月10日に「違憲」判決により逆転「住民側勝訴」で終了している。

 そして愛媛訴訟は、一審松山地裁「違憲」判決、控訴審高松高裁「合憲」、最高裁「違憲」判決により住民側勝訴となったのである。

 この愛媛玉串料訴訟の「違憲」判決の影響は、滋賀献穀祭訴訟判決にあらわれた。1998年12月15日、大阪高裁は滋賀献穀祭訴訟で、大津地裁の「合憲」判決を覆し、近江八幡市が新穀献納行事に488万円の補助金支出をした事に対し「違憲」判決を出している。

 献穀祭は、皇室の神道行事である新嘗祭に献上する神聖な穀物を献上するための地方行事として、1892(明治25)年以来続けられてきたものである。皇室の神道(宗教、国家神道の核)行事の在り方が憲法に違反する状況が存在しているのである。

献穀祭については、別稿(カテゴリー「大嘗祭」)の中の「大嘗祭は皇室神道の宗教儀式:政府・自治体などの公務員が関わる事は憲法が禁止する政教分離原則を蹂躙する非合法行為」を参照ください。

(2021年4月3日投稿)

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長野県知事は時代錯誤、神聖天皇主権大日本帝国下官僚の価値観

2024-03-20 18:18:06 | 憲法

 阿部守一長野県知事が護国神社(松本市)の崇敬者会の会長になり、同神社の鳥居再建のための寄付を募る呼びかけ人として、それも宮司に次いで崇敬者総代として名を載せているため、これらの行為が憲法に定める「政教分離の原則」に違反するのではないかと問題となっている。

 県知事は「私人」として活動であるとか、「宗教活動をしている人は公職に就いてはいけないのか」「行政機関としての県や知事の活動とは一線を画しており、憲法に違反するものではない」などと述べている。

 「政教分離原則」については、憲法第20条には「信教の自由は何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」、同条3項には「国及びその機関は、宗教教育その他のいかなる宗教的活動もしてはならない」と定めているが、阿部県知事の行為はこれに抵触するものと考えてよい。

 阿部県知事の行為の基礎となっている認識は、神聖天皇主権大日本帝国政府国体としていた「国家神道体制」の下での県知事(政府が官僚から任命)の役職認識を深く帯びているものであると考えられる。護国神社とは、政府が靖国神社の地方分社として整備した各地の招魂社を1939年3月に護国神社と改称し、道府県あたり各1社を(内務大臣)指定護国神社としたものであり、府県社に準じた。それら護国神社は神聖天皇主権大日本帝国が崩壊した敗戦後も、国体継承の意志をもつ自民党系の為政者の意志により、国家神道を廃止する「政教分離原則」を現憲法に定める一方、靖国神社を頂点としたその分社としてそのまま遺されたのである。長野県護国神社はその一つである。また、神社の「崇敬者」は、帝国政府成立後「信徒」と呼ばれていたが、他の宗教の信者と紛らわしいとの理由で、1908年3月、法律第23号により、「信徒」を廃して「崇敬者」と呼ぶようにしたが、一般的には「崇敬者」を「氏子」と称するようになった。

 帝国政府内務省は明治末年から、地方制度を強化する一環として「氏子組織」を重視した。この神社中心主義は、神社を市町村ないし氏子組織の公共活動、産業、教育、思想の中心に置こうとするものであり、大正期には氏子組織の整備が全国的に進められた。氏子組織では氏子(崇敬者)総代を選出したが、府県社以下の神社では、農村や都市の経済力のある有力者が選出され、氏子総代は神職の人事に推薦の形で関係するなど、神社を翼賛する意味での関与を認められていた神社の活動を助けるとともに、神社の維持経営に経済的に尽力し、神徳の宣揚に努めるものとされた。また、神社の権威を背景に、氏子の思想統制と善導の役割を果たした。阿部長野県知事はこのような認識を強く有していると考えて良い。

 阿部県知事が「崇敬者」だという事は県護国神社の氏子である事を意味している。その上さらに「崇敬者会」の「会長」に就任したという事は、現在も健在な「国家神道体制」の「氏子総代」「崇敬者総代」に就任したという事であり、県知事としてその地位に就く事や寄付の呼びかけ人の代表を務めるという事は、現憲法の「政教分離原則」にあえて背く行為とみなすべきであり、それゆえ現憲法下の知事として不適格であり、辞めさせるべきである。

 現憲法の「政教分離原則」がなぜ定められたのかについて、明確な説明をしているのが、津地鎮祭訴訟控訴審判決(名古屋高裁)である。それは「我が国において政教分離の原則を正しく理解するためには、戦前戦中における神社神道と国家権力との結合がもたらした種々の弊害との関連で、これが憲法上明文化された事を想起しなければならない。…明治4(1871)年教部省はいわゆる三条教憲をもって、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする近代天皇制の宗教的政治的思想の基本を示し国民を神道教化した。そして、同年政府は社格制度を確立して神社を系列化し、伊勢神宮を別として、官国弊社、府県社、郷社、村社及び無格社の五段階に定め、中央集権的に神社を再構成し、神社には公法人の地位を、神職には官公吏の地位を与えて他の宗教には認めない特権的地位を認めた」「戦前の国家神道の下における特殊な宗教事情に対する反省が、日本国憲法20条の政教分離主義の制定を自発的かつ積極的に支持する原因になっていると考えるべきであり、我が国における政教分離原則の特質は、まさに戦前、戦中の国家神道による思想的支配を憲法によって完全に払拭する事により、信教の自由を確立、保障した点にある」「過去の歴史において、…政治と宗教が対決した場面は枚挙にいとまがない。近くは先に述べたとおり、戦前における国家神道の下で、信教の自由が極度に侵害された歴史的事実を顧みると、信教の自由(無信仰の自由を含む)を完全に保障するために、政教分離がいかに重要であるか自ずから明らかである」「本件において、津市が地鎮祭を神社神道式で行ったところ、取り立てて非難したり、重大視するほどの問題でないとする考え方は、右に述べたような人権の本質、政教分離の憲法原則を理解しないものというべきである政教分離に対する軽微な侵害が、やがては思想・良心・信仰といった精神的自由に対する重大な侵害になる事を怖れなければならない」というものであり、原告住民側勝訴「違憲」。

 最高裁では、多数意見(10名)が「目的効果基準」を発明し、津市の地鎮祭主催と供物料支出を合憲としたが、その歴史認識は物足りないが「もとより、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがある。我が国では、過去において、大日本帝国憲法に信教の自由を保障する規定(28条)を設けていたものの、その保障は『安寧秩序を妨げず、及び臣民たるの義務に背かざる限りに於て』という同条自体の制限を伴っていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、時として、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対し厳しい迫害が加えられた等の事もあって、旧憲法のもとにおける信教の自由の保障は不完全なものである事を免れなかった。……昭和21年11月3日公布された憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じた事に鑑み、新たに信教の自由を無条件に保障する事とし、さらにその保障を一層確実なものとするため政教分離規定を設けるに至ったのである」としている。

 安倍守一長野県知事の行為主張は、この「政教分離原則」に対するあからさまな挑戦以外の何ものでもない

 ※1997年4月2日、愛媛県玉串料訴訟最高裁判決は、愛媛県が公費で靖国神社への玉串料支出に対して、「憲法違反」の判決を出した。

(2020年2月2日投稿)

 

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