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対韓輸出規制強化;やはり安倍自公政権の謀略で、恣意的で低劣な嫌がらせである事を自ら暴露した

2024-03-25 14:35:58 | 朝鮮問題

 2019年9月3日、安倍首相は韓国訪問から帰国した川村建夫・日韓議連幹事長と面会した。川村氏が、李洛淵・韓国首相との会談の内容について「李氏は対韓輸出規制強化と日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄の問題をセットで解決するように求めた」と報告した事に対して、安倍首相は提案に応じない考えを示した上に、「根幹にある元徴用工問題の解決が最優先だ」「国と国との国際約束だからしっかり守ってもらいたい。その一言に尽きる」「元徴用工問題は日韓請求権協定で解決済みである」と述べたという。

 この安倍首相の一連の言葉から、改めて明らかになった事は、対韓輸出規制強化の理由は、既に国民の誰もが分かっていたように、「元徴用工問題(大法院判決)」であるという事を自ら暴露してくれたという事と、やはり安倍自公政権の謀略であり、恣意的で低劣な嫌がらせに過ぎないという事である。これは無法者の手法であり、神聖天皇主権大日本帝国政府の手法以外の何ものでもない。このような非常識な政権の放置は、主権者国民を不幸な生活へ未来へ陥れるものであり、断じてこれ以上許してはならない。

(2019年9月9日投稿)

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対韓輸出規制:根拠を説明せず許可も予想外の迅速な安倍自公政府、元徴用工問題大法院判決に対する嫌がらせは明白

2024-03-25 14:32:56 | 朝鮮問題

 安倍自公政府は、半導体3品目について武器転用の恐れがあるとして、2019年7月4日以降韓国への輸出規制を強化した。輸出許可の手続きには、最大で90日程度ほどかかるとされていたが、以外にも8月8日、規制強化実施から1カ月あまりで初めての許可を出した。「レジスト」と呼ばれる半導体の基板に塗る感光材である。ところで、安倍自公政権は元々、文政権側に対して、「なぜ武器転用の恐れがあると判断したのか」についての説明を一切していない。その姿勢は文政権を侮蔑した対応であった。そのため文政権は安倍自公政権に対して不信感と不快感を抱く事になった。そして、今回、予想外に早い輸出許可を出したが、それについて菅官房長官世耕経産相は「正当な取引には、輸出手続きは恣意的に運用せず、厳格な審査を踏まえて許可を出す」「きちんと確認できたことに尽きる」「(さも武器転用があったかのように思わせる)再発防止策を講じる」と述べただけで、韓国側に抱かせた不信感不快感を払拭しようとする意思も見せない手前勝手な説明しかしていない。これでは「武器転用の恐れがある」とするのは、言いがかりや何ぐせをつけるという行為以外の何ものでもなく、「輸出規制強化」や「ホワイト国からの除外」は「文政権を安倍自公政権の意に従わせるひれ伏させるための兵糧攻めという嫌がらせ」以外の何ものでもないというのが真相であるとしか思えない。このような態度は陰険で傲慢で独善的謀略的以外の何ものでもない。かつて侵略されたアジアの国々人々が共通して記憶している神聖天皇主権大日本帝国政府の態度手法とまったく同じである。

 ちなみに、8月30日には上記半導体3品目のうちの「フッ化水素」を2品目として輸出許可した。これについての輸出規制強化についても、輸出を許可した事についても文政権に対しまったく誠意ある説明をしていない。安倍自公政権は文政権に対して元徴用工問題判決を何が何でも受け入れたくないために無効にさせるために無法者のような嫌がらせ行為を行っているのであり、謝罪すべきといっても良いほどである。

 さらに重要な事は、一連の経過について、日本の主権者国民にも丁寧な説明責任を果たそうとする意思が全く見せていない事である。

(2019年8月31日投稿)

 

 

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中国の木版印刷術

2024-03-25 11:05:34 | 中国・台湾

 朝日新聞「日曜に想う」が、中国で発明された「木版印刷」や朱子学の創始者「朱熹」について触れていた。

 中国の歴史では、(960~1127)の時代にその後の世界の社会文化の発展に大きな影響を与える「3大発明」(木版印刷術、火薬の製造法、羅針盤後漢蔡倫が発明したを含めて4大発明とも)が行われた。木版印刷技術唐代に始まり、宋代以後普及した。唐代には主に仏典・暦本・字書などが印刷された。経書(儒教)五代になって出版された。仏典ではの建国者太祖大蔵経(一切経ともいう。経〈釈迦の教え〉・律〈生活規範〉・論〈経の解釈〉からなる「三蔵」の経典とその注釈書・史書などの仏教聖典を集大成した叢書)を成都で刊行させ文化の普及を促す事となった。この印刷術はマルコ・ポーロによりイタリアへ伝えられ、さらにヨーロッパへ広まった。ちなみに、現存するアジア最古の印刷物は日本の奈良法隆寺に伝わり称徳天皇に由来する「百万塔陀羅尼経」であるといわれる。

 火薬の製造法については、北宋仁宗(位1022~63)の頃、硝石・硫黄・木炭を混合した黒色火薬が発明された。火薬が兵器として初めて実戦に使用されたのは唐末10世紀の始めで、宋代になると火薬が次第に発達し、色々な火器が作られた(『武経総要』1044年)。12世紀中頃、南京近くの采石の戦い(1161)で南宋軍がこれを初めて、南下する金軍(第4代海陵王、位1149~61)に対し使用した。モンゴル軍は鎌倉時代の日本で「てつほう」を使用した事が『蒙古襲来絵詞』(元寇1274、1281)に描かれている。ヨーロッパには13世紀頃、イスラム諸国に出征した十字軍により伝えられた。

 羅針盤は、北宋の末11世紀から12世紀にかけて航海に利用(朱彧『萍洲可談』)されるようになり、アラビア商船(イスラム商人)にも使用されヨーロッパに伝えられた。

 最後に、北宋時代より、「纏足」の風習が始まるが、朱熹は「男女の距離」を教える手段として南福建に普及させる事に熱心であった事を付け加えておこう。

(2024年3月25日投稿)

 

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「八紘一宇」刻字の塔(宮崎県宮崎市の県立平和台公園)、安倍政権は再び東京五輪聖火リレーの起点にする事は諦めたのか?

2024-03-25 07:56:04 | 戦争遺跡

河野俊嗣宮崎県知事に関する、2023年1月1日の動静について朝日新聞は、「自身のFBへの投稿2日午後6時42分)では「14時ごろ、宮崎神宮及び宮崎県護国神社初詣 夕方、倦怠感あり」としているが、宮崎県秘書広報課1日午後9時過ぎ、この日の行動を「宮崎神宮県護国神社初詣」と書いたメールを、「知事の動き」を掲載している宮崎日日新聞社に送ったが、2日午後、同社に変更を要請するメールを送ったという。同紙は要請に応じず、3日付朝刊に初詣の事も記載した。一方、県が2日午後5時過ぎに発表した河野知事の……プレスリリースには、1月1日は「公舎などで過ごす」と書かれていた」とする報道を行った。ちなみに、宮崎神宮神武天皇を祀っており、県護国神社靖国神社の支社である(2023年1月6日)。

※以下は表題に関して2021年7月25日に投稿したものであるが、河野俊嗣知事上記の記事の意味を理解するうえで役に立つと考えられるので改めて投稿しました。

 2020年東京五輪の聖火リレーについて、メディアが報道し始めた。安倍自公政権の五輪組織委員会は、開幕4カ月以上前の東日本大震災発生日の3月11日前後に始めたいようだが、1964年当時のように、「八紘一宇」刻字の塔(宮崎県宮崎市の県立平和台公園)を、再び2020年の東京五輪聖火リレーの起点の一つにする目論見は持っていないかのような内容の報道がなされているが、まだ油断はできないだろう。さて、前回の東京五輪聖火リレーに関して、以下の内容を2016年7月28日に投稿したのですが再投稿しますのでぜひ読んでください。 

 宮崎県宮崎市内の「県立平和台公園」内に、その正面に大きく目立つように「八紘一宇」という文字が刻まれた巨大な石積みの塔(37㍍)が立っている。今日では「平和の塔」と呼ばれている。

 しかし、そんな文字が刻まれた巨大な石塔がなぜ今日、県立公園に堂々と屹立しているのだろう。宮崎県はなぜそのような状態を放置させているのか。県はその意味を認識していないという事だろうか、そんな事はあり得ないだろう。であれば地方自治体の責任としてそのままの状態を放置する事は非常識であり許されるものではない。しかし、敗戦後70年を過ぎた今日も存在しているという事は、宮崎県は「確信犯と言ってよく、「意図的」に放置しているとしか考えられない。この姿勢は日本国憲法第99条が国民に対して保障する「憲法尊重擁護義務」「天皇及び摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」に違反するものであり、その「不作為」は処分に値するものである。

 「八紘一宇」という言葉の語源は、日本書紀にあり、それによると、神武天皇を初代天皇とし、神武天皇が大和橿原に都を定めた時に、「八紘を掩いて宇にせん」と抱負を述べた、と書かれている。その意味は「八方の地の果てまでを一つの家として統治支配するぞ」というもので、強い権力志向を表す言葉である。

 この日本書紀をもとにして、「八紘一宇」の造語を生み出したのは、宗教家の田中智学(1861~1939)で、それを軍部が1930年代から「天皇の威光がアジアを覆う」という趣旨で使用し始めた。そして、神聖天皇主権大日本帝国政府は1940年には、「八紘一宇」を盛り込んだ「基本国策要綱」を閣議決定したのであるが。

 その同じ年である1940年に「八紘一宇」の文字が刻まれたこの石塔が建てられているのである。その建造理由は、1940年がちょうど紀元2600年(神聖天皇主権大日本帝国政府が定めた、日本書紀に記された神武天皇即位年からの年数)にあたり宮崎県がそれを記念して、企画し建設したといわれる。また、中国への聖戦完遂(侵略戦争継続)のための国民の総動員と戦意高揚が目的であった。完成時の正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」である。石塔はこのように「侵略戦争」に強くかかわる建造物なのである。

 この塔の基礎部分には1800個位の世界から略奪したり献納させた「」を使用した。うち約1割180個は、中国朝鮮半島からは120~130個、台湾からは41個、満州国からも。また南米や軍事同盟国ドイツからのものある。また、「八紘一宇」の塔の中には「厳室(いつむろ)」という空間をつくり、そこには世界地図を描き、「昭和天皇」の思召しが及ぶ(また、支配下にあった)地域として、朝鮮半島や台湾などを含むアジア全域樺太の南部、南米大陸などを描いているのである。

 敗戦後の連合国軍による占領支配の下では、戦争遂行や戦意高揚に関係する事物の多くが破壊されたり、地中に埋められたりなどして処分され国民の目に入らないようにされた。靖国神社の境内の事物についても同様であった(占領支配後は埋めたものを掘り返して元に戻して今の姿になった)。

 それでは、宮崎県のこの石塔については、どうなっていたのか。敗戦後、他の地域の事物と同様の対象となった。しかし、「八紘一宇」の文字が占領軍によって削除されただけで、塔自体は破壊されずにそのままの姿で残す事を認められたようだ

 しかし、「確信犯」と考えられる事が起こった。それはその後の1964年の「東京五輪」開催との関係で、1961年になると、地元の観光業者らの働きかけを受けて宮崎県は、多くの県民や労働者の反対を無視して、かつての場所に「八紘一宇」の文字を復元したのである。それが今日、目にする事ができる「八紘一宇」の文字なのである。そして、当時の知事名による由来碑には「八紘一宇が平和を祈念して刻まれた」などと書かれたのである。この言葉には、日本による侵略戦争であるという「認識」は微塵も感じられないだけでなく、「東亜永遠の平和」のための「聖戦」として「正当化」するものであり、そのためもちろん「加害者」としての「反省」「謝罪」の言葉は「かけら」さえも見られないのである。おまけに、それ以降この石塔は「由来碑」の言葉から「平和の塔」と呼ばれるようになったようである。スリカエ欺瞞も甚だしいものである

 しかし、そのような認識の下に、1964年東京五輪では、「県立平和台公園」が「聖火リレー」の起点の一つとなったのである

 その後も今日まで、そのままの姿で存在し続けているのであるが、宮崎県知事や県議会、そして宮崎県民はどんな意識をしているのであろうか。

 2015年10月、中国・南京民間抗日戦争博物館の呉先斌館長が宮崎県庁(河野俊嗣知事2011年1月21日~)に来訪し、「この塔の礎石の一部は南京産である」として返還を要求した。返還要求しているのは3個で、1個は中国の霊獣「麒麟」の絵と「南京日本居留民会」の文字が刻まれたもので、14世紀に明王朝を興した皇帝陵墓にあった可能性があり、「国宝級の文化財」ともいわれるもの。ほかの2個は、「孫文」の陵墓である「南京中山陵」の刻印があるものと「南京紫禁山麓」と刻まれたものである。

 現在、宮崎県都市計画課(河野俊嗣知事)は、「取り壊しはできない。現状のまま保存する」方針であり、返還要求には応じない姿勢を続けている。「侵略戦争について学ぶ場」とする気もなく、返還要求に応じる気もない。ここにもこの現在においても「確信犯」としての姿勢を続けている。

 それはなぜか? この石塔をそのまま残し、2020年の「東京五輪」再び「聖火リレー」の起点(県立平和台公園から1㌔のところに「神武天皇」をまつる「宮崎神宮」がある)とするためなのである。そして、「聖火リレー」の「到着点」は「聖地」と呼ばれている「国立競技場」を建て替えた「新国立競技場」という構想が練られているのである。

※「国立競技場」がどのような意図で建築されたかについては、本ブログの別稿をぜひ読んでください

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追伸:「八紘一宇」の塔礎石返還交渉、宮崎県知事の対応は信義に悖る

2024-03-25 07:49:29 | 戦争遺跡

※「八紘一宇」の塔の成り立ちや、なぜ、敗戦後のGHQによる日本軍国主義否定の支配を切り抜け、今日まで存在できたのか、については、別稿の「今時『八紘一宇』刻字の塔、再び東京五輪聖火リレーの起点に?」を読んでください。

 さてここでは、メディアが伝えなかった事、それは礎石の返還交渉において、宮崎県知事がいかに信義に悖る対応をしていたか、という事、について伝えたい。

 礎石の返還を宮崎県に要求したのは、2006年12月6日に南京市に「南京民間抗日戦争博物館」を開設した「呉先斌」さんです。

 呉氏は礎石返還を要求するため、何度も宮崎県知事に宛てて、「公開書簡」を送りました。

 その内容は、「塔に使用されている南京の『石』を返還してほしい。そして、この『石』を日本に、宮崎県に持ってきた経過、歴史事実を明らかにし、より多くの宮崎県民に対して説明していただくような教育などをしてもらいたい。私は民間の博物館を開設している一市民ですが、これは南京市民総体の思いでもあります。真摯な回答をいただける事を心から願います」というものでした。

 呉氏の再三の要求の結果、2015年10月27日に宮崎県知事は呉氏と面談する事を約束しました。

 呉氏は10月25日には宮崎県に入りました。ところが、前日26日の夜11時になって電話が入りました。それは常識では考えられない信義に悖る対応(どこからか政治的圧力がかかったのであろうが、人を馬鹿にしている態度)で、「知事は急用ができたのでお会いできません」という連絡でした。そして、知事の代わりに、県都市計画課の課長との面談、それも1時間の面談という事になってしまったのです。

 そして面談中、都市計画課課長は「この塔には軍国主義の意味合いはありません。これは『平和』の塔です。」という事をずっと言い続けたのです。

 呉氏はこれに「反論」しました。一つは、「建設が始まったのが1938年、そして終わったのが1940年、この間は日本の侵略が最も激しい時期ではないか。こうした侵略は各地の人々に悲惨な体験を与えただけでなく、日本の侵略は日本の人々にも大きな影響、被害を与えたのではないか」と。

 もう一つは、「1950年に当時日本にいた同盟軍GHQが、この塔を撤去するように命じている。それはこの塔が侵略、軍国主義の象徴だったからである。この命令に対して当時の宮崎県知事は非常に姑息な手を使った。それはこの題字にセメントを塗って字を消したのである。また、根元に置いてあった、当時ファシスト軍人の像を撤去して、塔そのものの撤去を免れたのです。そして、この塔のある場所を『平和公園』と名づけたのである。」と。

 この「反論」に対して、都市計画課課長は答える事ができなかったのです。

 都市計画課課長は、メディアの取材に、「県民が散歩や遠足などで訪れる場所で、観光地としても定着しており、取り壊しはできない。現状のまま保存する事を考えている」と述べ、要求には応じなかった。

 また、「戦利品」という指摘に対しては、「古い事なので過去の経緯は分からないし、調べようもない」と述べた。ちなみに、「塔」の中の「厳室(いつむろ)」には世界地図が描かれており、「天皇」の支配が及ぶ地域が示されている。

 呉氏は言う。「この『石』そのものを南京に戻す事は重要な事だとは思っていない。このまま台座に安置されるのは構わない。ただ少なくともこの『石』がどのような脈絡で、どのような経過と思想と当時の状況の下でここのあるのか、どのように生まれてきたのか、そういう歴史を明らかにする、そうした『碑』か『銘板』を掲げるべきではないかと思う。今後その方向の交渉を、運動を続けていきたい」

(2016年10月27日投稿)

 

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