つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

増補版 石橋湛山首相のプレスクラブ演説(1957年1月25日)抜粋、米ソ両国政府とどう対応するか?

2024-12-14 11:20:30 | 日本人

 石橋湛山は1956年12月23日から57年2月23日まで首相を務めた。その首相が1957年1月25日の行ったプレスクラブでの演説内容である。ここには今日の日本の政治の在り方を考える上で大いに参考になる事がうかがえる。以下にその抜粋を紹介したい。 

「昔から国際間の紛争を見るに、互いに相手を侵略者なり、秩序の破壊者なりと一途に疑いて、これを非難し、その侵略者、破壊者の中にも、互いに心を軟らかにして見直すならば、また仏(ほとけ)を発見し得るにもかかわらず、強いて目をふさいで来た感が強いのです。今日の国際関係を調整する道も、この互いに疑い合う心境から脱却する事が、まず第一の要件ではないでしょうか。私はかようの信念に基づいて、わが国民と共に、世界の平和と繁栄のために、できる限りの努力をして行きたいと考えます。私は、もちろんいかなる主義主張に対しても、もしそれが人類の幸福を増進するに役立つものである事が証明されるならば、これを忌み嫌う理由はないと信じます。だがそのある主義主張を実現する手段として、独裁専制政治を布き、一般国民の自由を窒息せしめるごとき事は、我々の耐えがたきところであります。いわんや他国から何らかの力をもって、さようの独裁専制政治を押し付けられる事になっては、あくまでこれに反抗しなければなりません。さようの危険のない限り、たとい共産主義を国是とする国であろうとも、私は共存共栄の道を歩んで行くべきだと思います。………第2次世界大戦後、列国の軍備が縮減しないのみか、軍備競争がかえって激化した感のある事は、迷惑至極であります。それは、いずれも自衛のためだと唱えられています。だが昔から、いかなる国でも、自ら侵略的軍備を保持していると声明した国はありません。すべての国が自分の国の軍備はただ自衛のためだと唱えて来ました。たぶん彼らはそう心から信じてもいたでありましょう。だが、自衛侵略とは、戦術的にも戦略的にも、はっきりした区別のできる事ではありません。かくて自衛軍備だけしか持っていないはずの国々の間に、第一次世界戦争第二次世界戦争も起こりました。もし同じようにして今後大きな戦争が起こるなら、原子力兵器の発達した世界において、それは人類の滅亡を意味するでありましょう。いな原子力兵器の実験だけでさえも人類の滅亡を招来する危険があります。人類を救わんとするならば、我々は軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません。わが国の国連代表が、近ごろ原子力兵器の実験に関して行った提案(※1)のごときも、いささかさようの趣旨に従ったものであります。………

※1 1956年1月原子力委員会発足。同年4月東海村に原子力研究所設置決定(57年8月点火)、などの事と考えられる。

 わが国は古く19世紀以来自由主義諸国と親好を保ち、これを外交の基調として、国際社会に処して来ました。不幸にしてその関係は第二次世界戦争中一時中絶しましたが、1945年以来再び回復し、爾来一層の親密を加えるに至りました。私は今日この親好関係を変更すべき理由を何ら発見いたしません。昨年(56年12月)ソ連との国交正常化が実現し、今後同国との国交も親善を深めるに至りましょう。深める事を望みます。だがその事は自由諸国との友情を冷やかにし、薄くしなければならない理由にはなりません。

 しかし、そうだからとて私は俗に向米一辺倒というがごとき、自主性なき態度をいかなる国に対しても取る事は絶対に致しません。米国は最近の世界においては自由諸国のリーダーたる位置にあります。また戦後わが国とは最も深い関係にある国です。従って私は米国とは特に緊密の上にも緊密な協調を保って行く覚悟です。だがそのためには、私は米国に向け率直にわが国の要求をぶっつけ、わが国の主張に耳をかしてもらわなければならないと信じます。その結果は、時々主張が一致せず、気まずい思いをお互いにしなければならない事も起こるかも知れません。だが、それは緊密を増進する手段としての一時の不一致である事を知ってもらわなければなりません。米国以外の自由諸国、ソ連その他の諸国についても同様の方針で臨みます。幸いにして諸君を通じて、私の意の存するところの諒解を、これら諸国に求めえられるなら感謝の極みです。」以上。

(2021年6月20日投稿)

                                

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孫文(天下為公の実現を目指した)ゆかりの移情閣(朝日新聞「いにしえナビ」記事)の物足りなさ

2024-12-14 11:11:06 | 中国・台湾

 2020年7月17日の朝日新聞の「いにしえナビ」が革命家・孫文ゆかりの建物として『移情閣』を取り上げていた。「孫文が1913年神戸を訪れた際、歓迎会の会場となったのが、舞子にあった中国人実業家・呉錦堂の別荘でした。移情閣はその2年後に別荘の東側に建てられ、……」と紹介していた。建物についての説明はそれ以外にも書いていたが、孫文についてはそれ以外にはまったく触れておらず、ひじょうに物足らないもので残念であった。

 孫文がなぜこの別荘移情閣に、また神戸日本にゆかりがあるのかをもっと詳しく伝えるべきである。孫文は、日中両国関係のあり方について、現在の日本国民にも示唆を与える言葉を残しているからだ。

 孫文が神戸(日本)を訪れた回数は、資料的に確認できるだけでも18回である。そしてその理由は、革命活動(亡命)にあり、1895年の広東省広州での武装蜂起の失敗から始まるのである。そして、「いにしえナビ」が紹介する1913年には、前年就任した「全国鉄路督弁」として鉄道借款交渉のため来日し、朝野の大歓迎を受け、2月から3月にかけて東京、大阪、神戸、福岡などを訪問している。その後帰国したが、袁世凱大総統と対立し、第2革命を起こしたが失敗し、8月に、翌々年に結婚し妻となる宋慶鈴とともに日本に亡命している。神戸にひそかに上陸し、在神協力者(呉錦堂など)の援助を受けて滞在している。この際に呉錦堂舞子にあった別荘に招かれ歓迎会が行われているのである。1916年には第三革命にも失敗し神戸を訪れている。

 孫文は1925年の死の前年の1924年にも来日し11月末には神戸を訪れている。この時には11月28日に兵庫県立高等女学校(当時は現在の県庁所在地に存在)講堂において、『大アジア主義』と題して講演を行っている。この講演会は神戸商業会議所が主催し、新聞社4社(神戸又新日報、神戸新聞、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞)が後援して開催された。その内容は、当時すでに「21か条要求」を押し付け、中国への侵略を推し進めていた神聖天皇主権大日本帝国政府を明確に批判反省を促そうとするものであった。それは、

「アジアの文化は仁義道徳を語る王道文化であり、ヨーロッパの文化は武力の文化であり、武力を用いてアジアを圧迫している。日本は日露戦争の勝利でアジアの人々を励ますなど武力を身につけており、また、アジアの王道文化の本質ももっているが、西方覇道手先となるか、東方王道守り手となるかは日本人は慎重に考慮してその一つを選ぶべきである」と訴えるものであった。

 しかし、この後の神聖天皇主権大日本帝国政府は、孫文の「訴え」に応えず期待を裏切る道を選び、中華民国に対して最も露骨な侵略者となっていった事は歴史が示す通りである。

 孫文が1924年の来日記念に揮毫した言葉は彼が革命によって実現しようとした「天下為公」である。中国古典『礼記』の「礼運篇」にある言葉で、「人々が等しく天下を共有する」「政権というものは一般平民が共有するものである」という意味である。

1925年3月12日、孫文死去(59歳)。

(2020年8月30日投稿)

 

 

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南京大虐殺記録:世界記憶遺産登録(2015年)に至る経緯と「南京大虐殺紀念館」展示の目的

2024-12-14 10:45:23 | 世界遺産

 南京大虐殺紀念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)の前館長である朱成山氏(3代目、1992年~2015年)が2016年12月2日に3度目(1996年、2003年)の来日をした。日本各地で講演されたあと、13日には石川県金沢市で講演(主催:南京大虐殺・金沢講演実行委員会)された。その際、彼は「南京大虐殺の記録」が「記憶遺産」に登録されるまでにどのような経緯があったのか、また、その記録を管理する「紀念館」がどのような展示理念や目的のもとに活動してきたのかを語っているので要約して紹介しよう。それは、

「南京大虐殺の案件の世界記憶遺産への登録は中国人が初めにやろうとしたわけではない。当時、私たちはそれを世界記憶遺産に登録しようとは思っていなかった。実は、ユネスコの文化教育委員会の主席であったフィリピンの方で、カモン・パウラという女史が私たちの紀念館を訪れた時に、「マギー・フィルム」と「映写機」を見て非常に驚いた。その他の資料も見て、これは完全に世界記憶遺産に登録するに値する内容だ、これはぜひとも登録申請すべきではないかと言ってくれたのです。

 そして、私たちは当初、広島原爆ドームアウシュビッツ強制収容所と同じ「世界遺産」に登録しようかと思ったが、その後、フィリピンの女史の提案に基づいて記憶遺産の方を考慮するようになった。そして8年かけて資料を精査して申請するわけです。その中で特に注目すべきものは、「マギー・フィルム」と「映写機」、そして「当時の埋葬記録」と「戦犯裁判の記録」、そして、中国の別の都市の資料館にあった、「日本軍が後ほど南京で埋葬に関わった、その時の埋葬記録」などです。すべて原本で、一級資料のみを選定した。「ラーベの日記」とか「ヴォートリンの手紙」とか、非常に重要な物があるけれど、現物は私たちの館にはないので一級資料ではないという事で登録から外した。一級資料のみによる登録です」というものです。

 そして朱成山氏はまた言う。「登録の審査には、世界各国から24人の委員が選ばれ、基準に基づいて判定する。その基準は、資料の真実性、世界的な意義、無二の非代替性などです」と。

 ところで、ユネスコによる「南京大虐殺の記録」の登録決定(2015年)に対しては当時、安倍自公政権は強く反発した。また2016年には韓中日の市民団体が「慰安婦の記録」を同じ「記憶遺産」に申請したことから、安倍自公政権はユネスコに審査の透明性や関係国からの意見聴取など審査基準の変更を求め、分担金約39億円(米国が2011年にパレスチナがユネスコに加入したという理由で分担金を支払っていないため、日本が実質的に加盟国最大)の支払いを保留(2016年12月支払う)した。分担金支払い保留でユネスコに圧力をかけ、世界遺産の審査基準や方法を自己に都合よく変更しようとした安倍自公政権に対しては、松浦晃一郎元ユネスコ事務局長も「日本が自身の主張を貫徹するために分担金を支払わないのだとすれば稚拙だ」と述べていた。

 このような安倍自公政権の動きに対しても朱成山氏は、「日本政府の反応は実に滑稽だった。日本政府の意見を取り入れていない、聞き入れていない、という事ですが、元々この世界記憶遺産登録の(審査)には、そういう過程というものがないのです。相手国のどうのこうのというのは全くない。例えば日本のシベリア抑留が登録されたが、日本はロシアに意見を求めて共同で申請したのですか。それはあり得ない事です。日本政府はユネスコの分担金を保留する、払わないという事をやっていると日本に来てから知ったのですが、こうした問題をお金の力でどうこうしようというのは世界の笑い種だと思います」と語っている。

 しかし、産経新聞は5月7日、安倍自公政権が再び分担金の支払いを当分保留する決定した、と報道している。

 安倍自公政権は分担金の最大負担国である立場を恣意的に利用して「韓中などがこの制度を政治的に利用している。審査の過程で関連国が意見を提示できる制度改善が必要である」としてユネスコを圧迫し続けたため、ユネスコ執行委員会も諮問委員会制度の見直しを進め、5月4日、中間報告を採択した。内容は「関係国の意見が登録可否の判断資料として使われる、関係国間の意見が異なる場合は関係国間の事前協議を要求し、妥協が成り立たない場合には最長4年間の協議を経る」というもので、この中間報告は検討を加え10月の執行委員会で正式に最終採択が決定されるという。しかし、産経新聞によると、安倍自公政権はこの中間報告を即時適用する事を要求する方針であるという。

 安倍自公政権は、「記憶遺産」に対して上記のような、なりふり構わぬ行動を見せているが、並行して安倍自公政権の傲慢さを打ち砕く新しい事実が明らかとなってきている。それは、参議院議員・紙智子氏が6月16日に提出した「国立公文書館から内閣官房副長官補室が本年入手した「慰安婦」関係文書に関する質問主意書」に対する答弁書安倍自公政権が閣議決定したという事である。答弁書の内容は、「新たに発見した日本軍「慰安婦」資料として、いわゆる東京裁判及びアジア各地で行われたBC級戦争犯罪裁判の関係文書182点を本年2月3日に政府が入手した」事を認めた。また、「日本政府が存在を認めていなかった軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述が存在している」事を初めて認めた。さらに、日本軍「慰安婦」制度が「人道及び国際条約の侵反行為」であり、「戦争の放棄慣習に対する違反行為」であると裁判で認定され、「強制売淫の為の婦女子の連行、売淫の強制、強姦なる戦犯行為」として判決され、記述されている事を閣議決定で認めた。(この裁判(判決)はサンフランシスコ講和条約で日本政府が受諾している)、などである。この閣議決定は、これまでの日本軍「慰安婦」問題に強制はなかったとする安倍自公政権の見解を大きく見直したものである。今後の安倍自公政権の、ユネスコに対してはもちろん韓国政府に対する姿勢や動きが興味深い。

 それはさておいて、南京大虐殺紀念館の展示理念や目的についてであるが、朱氏によると主要なテーマを象徴する言葉を3つ掲示していると語っている。それは、「私は反日ではない」「南京市民は友好を願う日本人がたくさんいる事を知っている」とし、それは、

1、マギー牧師の言葉「許す事はできる。しかし、忘れてはならない

2、幸存者(被害者)である李秀英さんの言葉「歴史は残さなければならない。でも、恨みは残してはならない

3、南京法廷の中国人裁判官の言葉「軍国主義の罪悪を日本の民衆の上に被せる事はできない。しかし、歴史を忘れれば同じ過ちを犯す事になる

 であるとの事。安倍自公政権がいかに偏向しており偏狭で独善的自己中心的で傲慢な価値観を有する政権であるかが見えてくる。

(2017年6月30日投稿)

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サイパン島とグアム・テニアン島の日本政府軍・民間人の最期を朝日新聞はどう報道したか?

2024-12-14 10:25:22 | アジア・太平洋戦争

 米国政府軍が、サイパン島を占領したのは1944年7月7日であった。その際の日本軍や日本民間人の状況を当時の朝日新聞は1944年8月19日付に以下のような記事を報道していた事を紹介したい。

一面右上角の記事上の横書き黒地白抜き大見出しは「壮絶・サイパン同胞の最期」、同面記事右側の縦書き大見出しは2行仕立てで右側に「岩上、大日章旗の前」、左側に「従容、婦女子も自決」、その大見出し2行目の左側にはさらに「世界驚かす愛国の精華」としていた。

「サイパン島守備のわが忠勇なる将兵が全員戦死をとげ、在留邦人と雖も戦い得る者は敢然戦闘に参加し、概ね将兵と運命を共にしたことは7月18日の大本営発表によって世界に伝えられ、その忠勇戦列な行為全世界を感動せしめたが、非戦闘員たる婦女子も亦生きて鬼畜の如き米軍に捕はれの恥辱を受くるよりはと潔く死を選んだ事が報ぜられ、民族を挙げた日本国民の敢闘精神愛国心の強烈さに全世界を驚かしている、これに関し近着の米週刊誌タイム8月7日号は『敵の性質』と題してサイパン島における日本軍の将士、在留邦人の自殺の状況を詳報し、その壮絶な最期はもはや西洋人にとり不可解なもの、神秘的なものと〇し、サイパン島在留邦人の自殺は『日本全民族が降伏よりもむしろ死ぬ』ことを意味するものとして怖れている、本報道はタイム誌前線特派員ロバート・シャーロッドの報告であり、米人の読者を相手にするものだけに殊更に興味本位に取扱い或は凄絶さを誇大にし或は脚色した部分もあるように見受けられるが、然し日本非戦闘員の壮絶なる最後についてはさすがに千軍万馬古強者の彼等も〇倒している、非戦闘員の壮烈な最期を伝えるものなき今日、せめて米誌の報道をかりてサイパン在留同胞の最期を故国に伝えたい 

 『我々はサイパン島における日本軍の最期攻撃を撃退するまでに日本軍将兵の自決の状況を〇さに見る事が出来たと思っていたが事実はそうではなかった、それについては未だ語るべき事がある、水陸両用トラックに乗って日本軍掃討に出掛けた米海兵隊の一分遣隊は沖合の珊瑚礁に7名の日本人がいるのを見てこれを捕えるべく沖合に出掛けた、水陸両用トラックが近づくと7名のうち6名の日本人は珊瑚礁の上で自決を遂げ遠目にも明らかに将校と見える残りの一名は部下と共に刀を振りかざして水陸両用トラックめがけて突進してきた、然し彼と残りの部下一名は米軍の掃射に遭い壮絶な最期をとげた、これまで我々はサイパン島にあった2万の日本人非戦闘員の多くは互いに助け合って自決して果てたという事実とも思えぬ話を耳にしていた』(ロバート・シャーロッドの報告)と先ず日本兵の壮烈なる最後から書き出しているが、彼らアメリカ人は活字を通しておそらく珍奇なものとしてだけしか把握し得なかったであろう「大和魂」「切腹」の精神を二つの肉眼にみて何と考えたであろうか、日本はサイパンに幾多の尊い人命を、犠牲を払ったが、いまやそれが故国の同胞に総武装の比類なき刺激となって結実しつつある事実にまで果たして思いをめぐらし得たであろうか、この米人記者の筆致にはそうした心の響きは感じられない、……」。

 米国政府軍がグアム島(日本名:大宮島)を占領したのは1944年7月、のちに日本の広島や長崎へ原子爆弾を投下するB29爆撃機の基地として使用するテニアン島を占領したのは1944年8月であった。

 朝日新聞は、グアム島テニアン島については1944年10月1日付で以下のような記事を報道していた事を紹介したい。

一面右上角の記事上の横書き大見出しは2行仕立てで、上には「死闘二箇月・不滅の闘魂」、下は黒字白抜きで「斃れて熄まぬ大和魂顕示」、同面記事右側も縦書き大見出しは2行仕立てで、先ず「大宮島、テニヤン島」、その左側に「全員壮烈な戦死」、その左側にはさらに「全在留同胞共に散華」としていた。

大本営発表(昭和19年9月30日16時30分)

一、大宮島及び『テニヤン』島の我が部隊は其の後いずれも一兵に到る迄、勇戦力闘したる後遂に9月27日迄に全員壮烈な戦死を遂げたるものと認む 同方面の陸軍指揮官は陸軍中将小畑英良にして大宮島の陸軍部隊指揮官は陸軍中将高品彪、海軍部隊指揮官は海軍大佐杉本豊、『テニヤン』島の陸軍部隊指揮官は陸軍大佐緒方敬志、海軍部隊指揮官は海軍大佐大家吾一なり 

二、両島の在住同胞亦終始軍の作戦に協力全員我が将兵と運命を共にせるものの如し

小見出し(大宮島)『残る三百で突撃 最高指揮官、陣頭に奮戦』

(2023年8月14日投稿)

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