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真珠湾「九軍神」と讃えた神聖天皇主権大日本帝国軍部・メディア

2024-12-10 16:30:42 | アジア・太平洋戦争

 2023年12月8日朝日新聞は、太平洋戦争開戦82年という事で、神聖天皇主権大日本帝国海軍による、当時米国自治領ハワイ準州であったオアフ島真珠湾奇襲攻撃に関連した記事を、真珠湾の「軍神」という見出しで載せた。当時の軍部やメディア(朝日新聞)はどのように国民に対し伝えたのかを紹介しよう。

 「軍神」とは、戦時中に功績を立て戦死した軍人を讃える言葉であった。その代表的なものの一つが「真珠湾九軍神」であった。「九軍神」とは、太平洋戦争開戦となる真珠湾奇襲攻撃の際、5隻の小型潜航艇(2人乗りで計10人)に乗り(特別攻撃隊)、真珠湾近辺へ出撃したが、4隻は撃沈され8人が戦死、1隻は座礁し、1人は水死し、他の1人酒巻和男少尉は捕虜(朝日新聞などメディアはまったく伝えず国民は戦後初めて捕虜となっていた事を知った)となったため戦死は9人だったからである。

 大本営発表は1942年3月で、軍部は彼ら若い兵士の功績を讃え、2階級特進させて英雄化し国民の戦意高揚に利用した

 朝日新聞軍部の意向に従い、「軍神」と呼び、功績を讃えた。又「軍神」に対し「特別攻撃隊」の名称を使用し、「英霊の事跡を汚さぬよう国民は自戒すべきである」と主張した。1面全面を使用して報じ、2、3、4面にも関連記事を載せ、吉川英治三好達治などの作家や詩人の追悼文や詩を載せた。

 朝日新聞は、「九軍神」を部数拡大につなげるため、1942年7月から獅子文六により九軍神」の1人横山政治をモデルにした小説『海軍』の連載を開始した。朝日新聞軍部の要求以上に「九軍神」を英雄として美化し、国民を戦争に煽る事に力を入れた。

 朝日新聞はこの後も、陸軍戦闘機「」の操縦士で「ビルマの撃墜王」と讃えられた加藤建夫中佐(戦死後2階級特進で少将)を「軍神」と讃えた。

※1941年12月8日神聖天皇主権大日本帝国政府は、新聞社、通信社に対して「日英米に対する情報宣伝方策要綱」を決定。「大綱」は「世論を誘導」する基本方針として、「開戦は日本の権威と大東亜の生存を確保するためのやむにやまれぬ戦争である事」、「戦争の原因は敵国の利己的世界制覇の野望である事」などを徹底して報道する事を強要していた。

(2023年12月8日投稿)

 

  

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永井隆医師の遺言に誓い、憲法違反の安保法を廃止しよう。

2024-12-10 16:26:23 | 核兵器

 安倍政権自民党が憲法違反である「安保法」を強行成立させてから1年後の2016年9月19日、大阪の西区にある靭公園で「廃止」を求める集会があった。

 長崎医大の医師であった永井先生は、妻を原爆による被曝によって亡くされた。そして、自らも被爆によって43歳で亡くなった。

 永井先生が我が子への「遺言」に込められた願いは、今を生きる国民に対する願いでもあり、我々こそ継承しなければならないものだと確信し、「安保法」廃止のための闘いを続ける決意を新たにした。

 永井先生の子どもたちへの遺言を紹介します。

「いとし子よ。

あの日イチビの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一(まこと)よ、かやのよ、

お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世にとどめて、ついにこの世から姿を消してしまった。

そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものはなんであるか。

原子爆弾。いいえ、それは原子の塊である。そなたたちの母を殺すために原子が浦上にやってきたわけではない。そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。

戦争が長引くうちには、はじめ戦争をやり出した時の名分なんかどこかに消えてしまい、戦争がすんだころには、勝った方も、負けた方も、何の目的でこんな大騒ぎをしたのか、わからぬことさえある。

そして生き残った人々はむごたらしい戦争の跡を眺め、口を揃えて『戦争はもうこりごりだ。これきり戦争を永久にやめることにしよう』

……そう叫んでおきながら、何年か経つうちに、いつしか心が変わり、何となくもやもやと戦争がしたくなってくるのである。

私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。

我が子よ。憲法で決めるだけならどんな事でもきめられる。憲法はその条文通りに実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ

どんなに難しくても、これは良い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ戦争の惨禍に目覚めた本当の日本人の声なのだよ。

しかし、理屈は何とでも付き、世論はどちらへもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、「憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ」と叫ぶ声がでないとも限らない。そしてその叫びにいかにももっともらしい理屈を付けて、世論を日本の再武装に引き付けるかもしれない

もしも日本が再武装するような時代になったら、その時こそ、誠一よ、かやのよ。たとえ最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと戦争絶対反対を叫び続け、叫び通しておくれ

敵が攻めだした時、武器が無かったら、みすみす皆殺しされてしまうではないか、と言う人が多いだろう。しかし、武器を持っている方が果たして生き残るだろうか。武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るだろうか。

オオカミは鋭い牙を持っている。それだから人間に滅ぼされてしまった。ところが鳩は何一つ武器を持っていない。そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。

愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。」        以上

(2016年9月28日投稿)

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重陽記事「朝日新聞 ことばの広場」:煩瑣な知識より、天皇制がいかに処したか伝える事こそ必要

2024-12-10 07:58:38 | 皇室

 日本のパスポートの表紙には、国花である「桜花」でなく、「菊の紋」(天皇家の紋章に過ぎない)が描かれているが、この事がなぜ問題にならないのか以前から頭を傾げてきたが、その「菊花」に関連した事として、2016年9月7日の朝日新聞に「重陽」についての記事が載った。

 その記事内容が、訓詁学的でひじょうに煩瑣な知識の羅列に終始しているだけで、単なる「物知り」の知識欲求は満足させるであろうが、それ以外の意味はない内容であった事、また、五節句が日本の庶民国民が継承してきた伝統的な文化となっていたものであるにもかかわらず、その源流や神聖天皇主権大日本帝国政府という天皇制絶対主義政府が無価値なものと規定し否定したという非常に重要な歴史的事実に触れていない事や、見出しに大きく「菊の節句 めでたさ極まる」と書いている言葉の裏に、国民に対し天皇家天皇制への関心や認識を高めさせる洗脳の意図を感じさせる事と、このような体裁の記事が購読料をとる記事内容としてこれ以後まかり通る事は不愉快なので一言申しておきたい。

 まず、記事は五節句の源流について触れるべきであるにもかかわらず、一言も触れていないのは、極めて悪質な意図を感じさせる。源流はもちろん中国にある。五節句は日本の年中行事の中に含まれるものであるが、日本の年中行事の源流は中国文化にある事はいうまでもなく、平安時代にその形式を整えたと考えられている。その事に触れないという行為は歴史を書き換える効果を生む行為と考えられる。

 他に悪質と思われるのは、最近、天皇が「生前譲位」の希望を発表したが、その関係でメディアが天皇家天皇制についての関心を高めようとする意図が感じられる事である。

 さらに、もっと悪質と思われるのは、重陽に限らず、それを含む「五節句」は本来、特に江戸時代においては庶民の伝統的文化となっていたものであり祝祭日であった。しかし、神聖天皇主権大日本帝国政府は、天皇制国家を確立するため、それまでの庶民の伝統的文化祝祭日を否定し、庶民を、天皇制を支える天皇崇拝思想洗脳するために、祝祭日を天皇制を中心としたものに変えてしまったのである。この重要な歴史的事実に触れなくてこの記事に何の意味が価値があるといえるだろうか。しかし、これも、意図的に歴史事実を国民に伝えず消し去り書き換える効果を生む行為と考えてよいであろう。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、1870(明治3)年4月に太政官布告第57号で、祝日を9日と定めた。それは、正月朔日、正月15日(小正月)、3月3日、5月5日、7月7日、7月15日(お盆)、8月朔日、9月9日、9月22日、である。それまでと比べ目新しいものは9月22日(のちに11月3日)の天長節である。

 1873(明治6)年1月4日には、太政官布告第1号で、祝祭日の大改革を実施し、従来の五節句を廃止して、天長節神武天皇即位日の2日を祝日と定めた。

 1873(明治6)年10月14日には、太政官布告第344号で、新たに元始祭新年宴会先帝(孝明天皇)祭などを加え、年間8日の祝祭日を定めた。それは、

元始祭1月3日、新年宴会1月5日、孝明天皇祭1月30日、紀元節2月11日、神武天皇祭4月3日、神嘗祭10月17日、天長節11月3日、新嘗祭11月23日

 1878(明治11)年に、春季皇霊祭秋季皇霊祭を加えた。

 1926(昭和2)年3月3日には、勅令第25号で、明治節11月3日を制定し祝祭日を次の11日とした。

元始祭新年宴会紀元節春季皇霊祭神武天皇祭天長節4月29日、秋季皇霊祭神嘗祭明治節新嘗祭大正天皇祭12月25日、

 神聖天皇主権大日本帝国政府はその確立のために、それまでの庶民の伝統的文化である五節句などの祝祭日を否定排除し、それに代えて天皇家天皇制思想洗脳する祝祭日を定めていったのである。その際も、五節句はいわれもない迷信であるとされ、天長節・紀元節合理的な祝日とされたのである。

 それに対して庶民は反発した。小川為治『開花問答』から一部紹介しよう。

「……改暦(1872(明治5)年12月3日⇒73(明治6)年1月1日)以来は五節句・盆などという大切なる物日を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝う事でござる。4月8日はお釈迦さまの誕生日、盆の16日は地獄の釜のふたの明く日というは、犬打つ童も知っております。紀元節天長節の由来は、この旧平のごとき牛鍋を食う老爺というとも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府よりしいて赤丸を売る看板のごとき幟(日の丸)や提灯を出さするのは、なお聞こえぬ理屈でござる。元来祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日をしいて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます」

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、祝祭日を含む他の様々な大改革により、天皇を唯一最高の権力者・神的権威(天皇教、国家神道)としていただき、中央集権の官僚制と、国民による常備兵制とをもって、全日本を統一的に支配する新しい国家のしくみである近代天皇制を確立したのである。

(2016年9月11日投稿)

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