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2022年経済産業省有識者会議「総合資源エネルギー調査会原子力小委員会」の委員構成は「原発推進」

2024-12-05 22:13:27 | 原発

 総勢22名。大半は原子力推進の立場で、批判的な立場は松久保 肇氏村上 千里氏2名だけである。審議会は委員の構成により、議論の方向は簡単に導き出せる。この委員会も、経産省がどういう議論を導き出したいのかは委員構成から明確である。また、委員の中には以下の12名原子力政策の推進による受益者が含まれている。

委員長

〇山口  彰 東大大学院工学系研究科原子力専攻教授

委員長代理

〇竹下 健二 東京工大科学技術創成研究院教授

委員

〇朝野 賢司 (一財)電力中央研究所 社会経済研究所上席研究員

〇岡田 往子 東京都市大学原子力研究所客員准教授/WEN代表

〇小野  透 (一社)日本経済団体連合会 資源・エネルギー対策委員会企画部会長代行

〇小林 容子 Win-Japan理事/Win-Global Board

〇斉藤 拓巳 東大大学院工学系研究科原子力専攻准教授

〇杉本 達治 福井県知事

〇中島  健 京大複合原子力科学研究所所長・教授

専門委員

新井 史朗 (一社)日本原子力産業協会理事長

〇坂田 幸治 全国電力関連産業労働組合総連合会長

〇松村 孝夫 関西電力(株)代表執行役副社長 原子力事業本部長/電気事業連合会原子力開発対策委員長

※委員構成についての問題は、新電力関係はおらず、原発推進が圧倒的多数で、「原発推進」は「最初」から「決まっていた」のである。また、脱原発の意見を言う人は、村上千里氏(日本消費生活アドバイザー・コンサルタント・相談員協会理事)と松久保肇氏(認定NPO法人・原子力資料情報室事務局長)の2人しかいない。

 2022年2月24日開催の24回会合では、多数の委員から、原発の再稼働、原発の新増設から逃げるべきではないという議論が展開された。今後、原子力利用環境整備小型原子炉に関する課題を議論する予定となっている。エネルギー基本計画では原発の新増設書き込まれなかったにもかかわらず、原発の新増設を前提とする議題が設定されている。

 松久保氏は、原子力推進に不都合な情報をすべて消し去っている資料作成の批判、核燃料サイクルの見直し、原発老朽化に備えた代替策の検討、エネルギー基本計画で示された放射性廃棄物の海外処理方針について条件を設定すべきであると発言している。

(2022年5月22日投稿)

 

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通天閣の歴史と南海電鉄傘下へ

2024-12-05 11:22:09 | 文学・歴史

 2024年12月5日朝日新聞が「通天閣南海電鉄の傘下に」と掲載した。

 現在の「通天閣」は2代目である。初代は神聖天皇主権大日本帝国時代の1912年(明治45)年7月3日に誕生した。「新世界」を開発した大阪土地建物会社の直営事業として「大林組」が請負い建設した。フランス・パリのエッフェル塔(1889年建設、高さ312㍍)がモデルで、75㍍、当時日本一の高さであった。土台はアーチ型の鉄筋づくりで、天井には天女の舞い姿が描かれていた。エレベーターは金網張りの幼稚なものであったが、当時は東京・汐留駅と大阪・専売局に、貨物用が一つずつあるだけで、人間を運ぶものは初めてであった。不幸な出来事も起こった。1916(大正5)年10月9日夕方、山口県出身の24歳のノイローゼ症状があった店員が展望台の欄干を乗り越えて、飛び降り自殺したのである。以後は展望台に金網がめぐらされた。1920(大正9)年7月に「ライオン歯磨」の電飾広告が取り付けられた。これは全国の電飾広告のハシリであった。

 1938(昭和13)年9月に、吉本興業に身売りした。1943(昭和18)年1月16日に、芦辺劇場西隣の映画館「大橋座」から出火があり、被災した。アジア太平洋戦争中には、金属供出が及び、1943年2月に解体され300㌧ほどの鉄屑となった。

 敗戦後の日本国1956(昭和31)年10月、2代目「通天閣」が初代のものより北へ約20㍍よりにそびえ立った。地元の人たちがお金を出し合って「通天閣観光会社」を設立し、「奥村組」の施工で再建したものであった。高さ103㍍世界初円形のエレベーターを付けた。

(2024年12月5日投稿)

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