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首相閣僚の伊勢神宮参拝:天皇と結託して政教分離原則を形骸化し憲法改悪のための既成事実づくり

2024-09-29 12:07:00 | 宗教

  安倍首相と閣僚は2017年1月4日、伊勢神宮に参拝した。これについてメディアは、何の問題も感じないためなのか、また、故意に何の問題もないように国民に思わせるためなのか、「当然の事」であるかのように「新年の参拝は歴代首相の恒例行事」(正確には1967年佐藤栄作に始まる)であると報じただけで、まったく「批判」も「非難」も「抗議」もしなかった。しかし、伊勢神宮参拝は靖国神社参拝問題と同様に、憲法に定めた「政教分離原則」や「信教の自由」に「違反」する問題行為である事は明白である。

岸田首相も2023年1月4日伊勢神宮を参拝した。2回目。

 伊勢神宮は古代(おそらく天武または持統天皇の頃)、皇祖神としての地位を確立したが、皇室の力が衰えた中世以後は農業神として民衆の信仰を集め、伊勢講などの崇敬者(氏子)団体が組織され、大きな影響力を持っていた。しかし、明治政府は国家神道体制の下で1871年、「中古以来」対等の地位にあった皇祖神を祀る内宮を農業神である外宮の上位に置き、1899年には氏子団体として組織整備した神宮教会を解散させ、神宮奉斎会を設立し、神宮を皇室専有の祖先神祭祀の場として国家神道の神社体系の最高位に位置づけた。敗戦による占領政策「神道指令」(1945年12月)により国家神道は廃止されたが、宗教団体神社本庁を設立(1946年2月)し、宗教法人の一つとなった伊勢神宮はその本宗に就いた。そのため、国家神道時代の天皇中心の国体の教義と神社の中央集権的編成は形を変えて存続する事となり今日に至るのである。祭神は皇祖神で記紀神話にみられる天照大神である。だから、安倍首相やその閣僚による神宮参拝は、「天皇の祖先は天照大神であり、天皇は神の裔である」という神話と宗教観を基にした宗教行為であるという事ができ、天皇と結託して行っている行為と言う事ができる。また、安倍首相とその閣僚は、税金(公金)で生計を営み宗教行為も行っているという事ができる。

  日本国憲法では政教分離の原則がうたわれており、第20条「信教の自由」において、「①信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。②何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加する事を強制されない。③国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。」、第89条「公の財産の支出又は利用の制限」において、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、……、これを支出し、又はその利用に供してはならない」としている。

 日本国憲法において、なぜ「政教分離の原則」がうたわれたのか?それを明瞭に述べたものが1971年5月14日の津地鎮祭訴訟」名古屋高裁判決である。以下抜粋して紹介する。

「わが国において政教分離の原則を正しく理解するためには、戦前戦中における神社神道と国家権力との結合がもたらした種々の幣害との関連で、これが憲法上明文化された事を想起しなければならない。…1871(明治4)年教部省はいわゆる三条教憲(①敬神(=皇祖神)愛国(=現人神天皇)の旨を体すべき事、②天理(=天皇支配の正統性)人道(=臣民の道徳)を明らかにすべき事、③皇上(=天皇)を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事)をもって、天皇崇拝と神社信仰を主軸とする近代天皇制の宗教的政治的思想の基本を示し国民を神道教化した。そして、同年政府は社格制度を系列化し、伊勢神宮を別として、官国幣社(靖国神社は別格官幣社とされ、官幣小社と同待遇)、府県社、郷社、村社及び無格社の5段階に定め、中央集権的に神社を再構成し、神社には公法人の地位を、神職には官公吏の地位を与えて他の宗教には認めない特権的地位を認めた」「戦前の国家神道の下における特殊な宗教事情に対する反省が、日本国憲法20条の政教分離主義の制定を自発的かつ積極的に支持する原因になっていると考えるべきであり、わが国における政教分離原則の特質は、まさに戦前、戦中の国家神道による思想的支配を憲法によって完全に払拭する事により、信教の自由を確立、保障した点にある」「過去の歴史において、…政治と宗教とが対立した場面は枚挙にいとまがない。近くは先に述べたとおり、戦前における国家神道の下で、信教に自由が極度に侵害された歴史的事実を顧みると、信教の自由(無信仰の自由を含む)を完全に保障するために、政教分離がいかに重要であるか自ら明らかである」「本件において、津市が地鎮祭を神社神道式で行ったところで、取り立てて非難したり、重大視するほどの問題でないとする考え方は、先に述べたような人権の本質、政教分離の憲法原則を理解しないものというべきである。政教分離に対する軽微な侵害が、やがては思想・良心・信仰といった精神的自由に対する重大な侵害になる事を怖れなければならない」以上。

 敗戦まで効力を有した大日本帝国憲法では、神社神道を国教とする「政教一致の原則」であった。1889年2月11日、大日本帝国憲法の公布により、第2章「臣民(国民)権利義務」の第28条で、「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信教の自由を有す」とされ、第31条では、「本章に掲げたる条規は戦時又は国家事変の場合に於いて天皇大権の施行を妨げることなし」とされた。つまり、明治10年代後半に確立した神社神道(国家神道)は「宗教にあらず」という屁理屈で、あらゆる他の宗教より上位に位置づけられ、それへの対応(信仰)を臣民(国民)の義務(道徳)として強制した。

 また、神社神道(国家神道)は国家の運営業務とし、①祭祀の制度は国家に於いて定める。天皇は最高祭祀者。②神宮司庁を国家の官庁となし、その斎主及び宮司を官吏とする。③国家の権力をもって社格・祭式・任務を定める。④国家の権力をもって神官神職の資格階級・任司法・監督法を定め、従って位階勲等を定める(神官神職は政府が任命する)。なおまた純然たる国家の官吏をして、祭祀に従事せしめる事がある。⑤国庫金及び自治体の資金をもって神社を維持する、などと定めていた。

 これにより、神社の事を論じる者は非国民」視され、他の思想は抑圧された。帝国議会においても、神社造営に関する予算は議論せずに可決された。神社の事といえば皆口を閉じた。「さわらぬ神に祟り無しとなった。「神国日本」の意識昂揚を強化していく。1937年の盧溝橋事件を契機に日中戦争を開始した大日本帝国政府は、1939年9月1日以後、「国民精神総動員運動」の一環として毎月1日を興亜奉公日とした。「興亜」とは、アジアを興す、「奉公」は「戦場の労苦をしの」び私生活を後に回し、「公け」のために「奉仕」しよう、という趣旨である。「興亜の大業を翼賛(協力)」するために、個人生活の色々な欲望を抑え、切り詰め、真面目に働く日」という意味である。この日には全国民が早く起きて神社に参拝する事を義務づけた。1942年1月8日からは、毎月8日の大詔奉戴日に切り替え、「「太平洋戦争」完遂という目的を国民に浸透させた。

 日本国憲法では、明治から敗戦までの「政教一致の原則」を反省して、冒頭にしめした「政教分離」を原則とした。そして、第99条「憲法尊重擁護の義務」では、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」とした。「擁護」とは、憲法を破壊する行為に対して抵抗し、憲法の実施を確保する、という意味である。

 天皇はこの「政教分離の原則」について、尊重擁護義務を果たしているといえるであろうか。たとえば、2015年9月26日から10月6日まで、和歌山県で国民体育大会が開催され、天皇皇后が出席した。天皇が全国各地に出かけると、敗戦までの制度にならい、その都道府県の旧官国弊社、指定護国神社に幣饌料を供す。和歌山県でも9社が該当し、9月25日にみなべ町の宿所で河相周夫侍従長より各社の宮司に幣饌料が伝達された。各社では幣饌料を神前に供え奉告祭を実施した。戦後、官国弊社制度が廃止されてから、天皇はこれまでに5回和歌山県を訪問し、今回が6回目であり、当該神社の拝殿の扁額には幣饌料を供された6回目の年月日が書き加えられた。

幣饌料とは、「幣帛料」と神饌にあてるための「神饌料」を両方合わせた金幣の事をいう。戦後は、「神社本庁」より傘下神社の例祭などの祭祀に「本庁幣」として金幣が供進されている。天皇からは、特に皇室と歴史的に由緒深い神社(勅祭社といい全国に16社)に、例祭などに勅使を派遣し、幣帛を供す。また、各地への訪問に際して、その地方の旧官国弊社や指定護国神社に対し幣饌料を供す事がある。

 ここに見られる「幣饌料」に関わる行為は明らかに第99条にある義務に違反する内容である。第20条「信教の自由」と第89条「公の財産の支出又は利用の制限」の内容を「尊重擁護」する「義務」を果たしておらず正反対の行為であると見做す事ができるからである。まず、第89条に関しては、天皇は公金(税金)により生計を営んでいるにもかかわらず、神社神道(敗戦までの国家神道の基盤)という宗教組織団体の使用、便益若しくは維持のために公金を支出しその利用に供していると見做す事ができるからである。また、第20条に関しては、神社神道が国(天皇)から特権を受けている事になり、政治上の権力を行使していると見做す事ができるからである。加えて、「幣饌料」伝達行為が神社神道についての国民に対する教育活動(宗教教育、宗教的活動)の効果を発生させているからである。つまり、「このような行為は、憲法に違反しないのだ」との認識を国民に浸透させ洗脳する効果を生むからである。そして、それが国家神道復権の環境を培う事につながるからである

 「神社ブーム」が拡大しています。特に若者の間で。これは自然現象ではなく、国家神道復権を狙う仕掛け人(日本会議)が意図的に扇動し、神社神道に対してアレルギーをなくさせ、楽しく親しみやすいものだというイメージを抱かせ、国家神道復権のための環境づくりをしているのです。このような「神社ブーム」の拡大がいつしか、安倍首相のいう「伊勢神宮は日本の精神性に触れる大変良い所」とつながる事になるのである。「神社ブーム」は「現代版ええじゃないか」といえるが、後に若者たちはその神社に裏切られる事になるだろう。また、「天皇のために戦死してくれてありがとう、これからもあなた方の後輩に対して、次の戦争で死んでくれるための模範になってください」という意味を持つ、「英霊(優れた人の霊魂)に対し感謝」という言葉を繰り返して靖国神社を参拝する閣僚や国会議員たちともつながる事になる。彼らの参拝や真榊・玉串料奉納の行為も、天皇の「政教分離の原則」違反のところで述べたように、天皇と同様に、第20条、第89条、そして第99条にいう「憲法尊重擁護義務」に違反している。

 しかしそれを、自民党安倍政権は『憲法改正草案第20条「信教の自由」第3項では、「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。」とし、第89条「公の財産の支出及び利用の制限」第1項では、「第20条第3項ただし書きに規定する場合を除き、宗教活動を行う組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため支出し、又はその利用に供してはならない。」と改悪しようとしている。「『憲法改正草案』の第1章「Q&A」Q19によると、第3項の後段の「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲をこえないものについては、この限りではない」という文言を加えた理由を、地鎮祭に当たり公費から玉串料を支出する問題が解決するとしている。つまり、玉串料は社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものであり、公費支出しても問題はない、という考え方なのである。地鎮祭や玉串料は神社神道の宗教活動そのものであるが、自民党の考え方は「政教分離の原則」を緩和しそれを根拠に「神社神道に特権を与え宗教教育や宗教活動を合法化し、国家神道復権を図りたいという事なのである。

 『憲法改正草案』では第102条が「憲法尊重擁護義務」となっているが、それによると第1項は「新設」され、「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」。第2項は「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う」となっており、「天皇又は摂政」の文言が削除され、擁護義務は負わない事になっている。つまり、「神社神道」を擁護する義務は「天皇及び摂政」以外の「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員」という事になり、その憲法を「尊重」しなければならない「義務」を負うのは「国民」という事になる。この仕組みこそが「国家神道」なのである。これによって、天皇の神社神道に基づく宗教的行為や宗教教育活動、閣僚や国会議員の伊勢神宮や靖国神社の参拝、公金による真榊・玉串料の奉納、神社神道に対する学校教育・国民教育もすべて合法化されるのである。

 ※玉串料訴訟の代表例は愛知県玉串料訴訟で、1997年4月2日の最高裁判決では、愛知県が公費で靖国神社への玉串料支出した事に対し「憲法違反」としている。政教分離・靖国神社をテーマとした訴訟では最高裁で初めての違憲判決であった。

※国家神道(伊勢神宮・靖国神社など)については、他の稿にも色々書いていますのでそちらを是非ご覧ください。

国民体育大会は「神社神道(国家神道)」組織の活動と深く関係している。 

(2017年1月15日投稿)

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